「嗅ぎ出し(kuzuza)」のカヤンバ

目次

  1. 概要

    1. 「嗅ぎ出し(kuzuza)」とは

  2. キブリとは何か

    1. キブリと夢

    2. キブリと祖霊(k'oma)

    3. キブリは鏡像

    4. キブリと瞳

    5. キブリを奪う憑依霊

    6. 要するにキブリとは何か

  3. クズザの施術

    1. クズザの施術師

    2. クズザの手順

      1. 出発前のカヤンバ

    3. 施術師を囲むカヤンバ

    4. キブリ探索行(maironi)

    5. キブリを患者に戻す

  4. キブリを取り戻すとはどうすることか: 理論的立場の違い

    1. 施術師ムニャジの見解

    2. 施術師ムリンジの見解

    3. 施術師ムァインジの見解

    4. 施術師チャリの見解

  5. まとめに代えて

  6. 事例

    1. 「青い芯のトウモロコシ」の村での「嗅ぎ出し」カヤンバ初体験

    2. ムランダの嗅ぎ出し治療

    3. チャリの「重荷下ろし」とシェラ、ディゴ人、ライカを「外に出す」ンゴマ: 屋敷での嗅ぎ出し

    4. マフフの屋敷における出産祈願の瓢箪子供を差し出すカヤンバにおける嗅ぎ出し

    5. ムァナコンボの嗅ぎ出し治療

    6. ジャフェットの屋敷での嗅ぎ出し

  1. 注釈

 

概要

「嗅ぎ出し(kuzuza)」とは

動詞ク・ズザ(ku-zuza1)は、憑依霊に関する施術のコンテクスト以外ではほとんど使われていない動詞だが、「(何かを)匂いを嗅ぐことで探し出す、嗅いで探し出す」という意味だと説明される76。単に匂いを嗅ぐの意味でなら、ク・ヌツァ(ku-nutsa)が普通に用いられる動詞である。実際の施術では、別にクンクン嗅ぎ回るような所作も見られない。「嗅ぎ出し」という訳語は、より適切なものに今後、変える必要が出てくるかもしれない、がとりあえずこのまま使い続けることにしたい。

憑依霊の中には、人のキブリ(chivuri)を奪い去る者がいる。彼(それ)らによって、犠牲者のキブリがどこに連れ去られたかを見つけ、それを取り戻して、犠牲者に戻してやる施術がク・ズザである。その説明をする前に、キブリについて簡単に説明しておきたい。

キブリ(chivuri)とは何か

人はさまざまな構成要素からできている。ある要素は人から分離することができる。別の要素は分離できない。人が死ぬときに分離する要素もある。キブリもそうしたものの一つで、 人(あるいは人格)から分離可能な実体である77

キブリと夢

キブリとは何かと尋ねたときに、もっとも普通に返ってくる答えは夢の経験である。キブリは夜、人が眠っている間に身体を抜け出す。夢とは眠っている間にその人のキブリが経験していることだ、という。

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Hamamoto(H): 聞くところによると、人がもし別の土地を夢で見たとしたら、その人のキブリが実際にその土地に行ったということだと。 Murina(M): そうとも。あなたは誰それさんに夢の中で会うことができるね。あなたはその人物そのものに会っていると思うかもしれない。いえ、いえ。それはその人物のキブリなんだよ。つまりあなたのキブリが夜に出歩いて、その人物のキブリに出会ったというわけさ。 H: つまり、夜(夢の中で)しかじかのものを見ているのはキブリなんですか?それを見ているのはあなた自身じゃないと? M: あなたは見てませんよ。だって眠っていて、目を閉じてるじゃないかい?どうやってあなたにものが見えるっていうんだい。夢の中でものを見ているのは、あなたのキブリなんだよ。 (浜本注: この最後の理屈、気に入ってます!)

キブリと祖霊(k'oma)

キブリは、祖霊(k'oma)78と関係づけられて語られることが多い。人が死ぬとその人のキブリが祖霊になると語る人は多い。祖霊(k'oma)は祖霊(k'oma)で、キブリとは違うという異論ももちろんあるが。キブリと祖霊の結び付きは、祖霊が生きている人々の前に現れるのがもっぱら夢の中でだという事実と関係があるだろう。祖霊は子孫に対する自らの要求が満たされないという理由で、子孫にさまざまな災いをもたらすが、その要求は夢の中でそれとなく(あるいははっきりと)示される。夢の中で祖霊に会っているのは、夢を見ている人のキブリなので、祖霊も当然キブリなんだろうということになる。

「青い芯のトウモロコシ」でお世話になった「懐疑主義」の長老で、私の哲学的対話相手だった方のお話をどうぞ。彼は、全ては「風(p'eho)85」だという独自の「風」一元論の持ち主だが、そこだけは差し引いて、祖霊とキブリの結び付き(こちらはドゥルマでごく一般的)に注目。(以下は抄訳です。段落冒頭の数字をクリックすると該当のドゥルマ語データ(全訳つき)に飛びます。興味のある方はそちらもどうぞ)

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Hamamoto(H): ところでこのコマ(k'oma)78とは、どんなものなんでしょうか? ...夢を見せるコマそのものは、お前自身の夢のなかにいる。例えばお前は夢を見る。お前は夢を見る。知っている人たちがいる。お前はその人たちと交流する。それがコマと呼ばれる。 ロホ(roho)86は、言わば、人間の中に安置してあるものだよ。というのも、ロホはまさにこの辺(胸の中心部)にある。さあ、私はわからないんだけど、お前が夢を見れば、このロホが...。お前が夢を見るのは、お前が生きているからだね。でももしお前が死んでしまったら、お前はもはや夢を見ることはできない。もしかしたら(死んでも)夢をみるのかも。でも夢を見ていることは、私たちにはわからないだろう。それ以上にね、(死んだら)お前さんはやって来て人に夢を見させる者になるんだよ。

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Jawa Mwero(JM): 本当のことを言えば、ロホはキブリだと言えるね。それ(死んだ人のロホ)は単に風(「気」?)だよ。そしてその風はというと、空気中にしか存在できない。それは上昇していくかもしれないし、別のところにいくかもしれない、でも、空気中にいる。だって、お前さんが眠っているそのときにそれはやって来ることができるんだから。お前さんは(夢の中で)、人がやって来るのを見る、その人はやって来てあなたに挨拶をする。「ご機嫌いかがですか」「何も問題はありません。あなたはどうですか」。そしてお前さんがその人をよく見ると、まさに彼(死んだ人)その人だ。お前さんはその人と挨拶し合う。 ねえ、私は思うに、そこにいるのは風なんだよ。もしお前さんが死ぬと、その風はお前さんから出ていく。だって、人間が死ぬっていうのは、風に殺されるってこと。それらの風が(人の身体から)出ていってしまうにつれて、風が身体の内部で減少してしまう。それまでさ。人は二度と息を戻すことはできない。あのロホっていうのは、ねえ、風なんだよ。身体の中のね。風が全部外に出てしまうと、お前さんにはもう望みはない。 ...(中略)... というわけで、それは風なんだ。(死ぬと)風は天に向かっていく。ここ風の領域を周回していくんだ。

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Hamamoto(H): ところでコマ(k'oma)は、キブリ(chivuri)なんだと言われますが、そうなんですか? Jawa Mwero(JM): そう。キブリにすぎない。風なんだよ。人が死んだら、人が死んだら、この身体(mwiri)は土塊(udongo)だって聞いたことないかい?でも、そのキブリ、そのキブリは風のようなもの。なぜならムルング(mulungu87)によって中に置かれた(特定の臓器のような)モノなんかじゃないから。(モノだとしたら)それが変化して、そこから出ていって、あちこち動き回って、別の場所に出かけていくなんて、私が思うに、難しい話だよ。お前が(この世から)去るときには、お前はただ去っていくだけ。出ていくものは風だけさ。ところで人に夢を見せることだけど、(お前は死んだら)人に夢を見せる。お前は彼(自分の子孫)の道を知っているので、彼の風のところにやって来ることができるのさ。そうとも!

という訳で、祖霊(k'oma)とは死後身体を離れたキブリ(chivuri)にほかならない、という理論が誰もが認めるものかどうかは別として、両者が夢を軸に強く連想づけられていることは疑い得ないだろう。

キブリは鏡像

キブリという言葉は、物体の影や陰、水面や鏡に映った像を指す言葉としても用いられる。物体の影や陰を指すにはキブリブリ(chivurivuri)という別の言葉もあるが、鏡に映っている像などは単にキブリと呼ばれる。こうした用法は最初の調査地「青い芯のトウモロコシ」でドゥルマ語の語彙を集めていたときに、すでに入手していた。この調査地で、はじめてキブリ戻しの「嗅ぎ出し」カヤンバを経験したのだが、帰国後、カタナ君がそれらに関する情報を自分で集めて、手紙で伝えてくれた。その中にこうした用法が実際に示されている。

「君が鏡のなかの自分自身を見れば,君に見えているのは自分のキブリである.」399

キブリと瞳

キブリは身体の部位としては、目(dzitso)、とりわけ瞳孔(mwana wa dzitso、字義通りには「目の子供」)と結びついている。キブリはある種の憑依霊や、妖術使いによって奪い取られるとされるが、施術師は患者がキブリを奪われているかどうかを、患者の目を見ることによって判断する。瞳の中に人の姿を認められなければ、それは患者がキブリを奪われていることを示す。私は、いや瞳に映ってるのはあんたの顔でしょうと無言のツッコミを入れていたが、施術師たちはそんな初歩的な勘違いをしているわけではなかったようだ。同じくカタナくんからの手紙の一節だが、

「妖術使いによってキブリが奪われた患者の症状は,嘔吐,頭痛などである.そしてもし君が患者の目を覗き込んでも,瞳のなかには君は見えない.たとえ君が患者の目の前で手を振っても,患者の目の中に君自身の像を見ることはできない.」446

瞳に写っているのが自分の姿であることは、当然、彼らにもわかっているのだ。ただキブリを奪われた人の瞳は、そこに誰も映し出すことができないということなのだ。これはこれで、ツッコミどころ満載なのだが。

キブリは人々にとっても、ちょっとした存在論的難問なのだろう。「青い芯のトウモロコシ」の先の哲学的長老は、かく語りき。

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私が考えるに、あれら「目の子供たち(ana a dzitso =瞳孔)」こそ、夜になると出歩いていく者たちだと思う。あれら「瞳孔」たちは何の仕事をするためにそこに置かれているんだろうか。それは電球(gulopu93)なんだよ。瞳孔っていうのはこんなふうなんじゃないかな。お前さんが私の目を見ると、お前さんはそこに自分が見える。そして私がお前さんの目を見ると私には自分が見える。ただの鏡みたいなものだね。つまり、電球さ。その中にいる者たちは?ときに連れ去られるそいつらが、キブリだよ。そしてお前さんが奪われたら、お前さんは病気になる。なんで病気になるんだい?奴ら(妖術使いたち)は、本当にあれら(目の子供たち)を奪ったんだろうか、それとも奴らは「風、気体(p'eho)」を奪ったんだろうか。

これは引用箇所のデータの一部だが、暇な方は是非当該データ(引用冒頭の数字をクリックすると飛びます。リンク先に日本語全訳もつけています)の最後まで読んで、この懐疑主義者の議論を味わっていただきたい。彼の持論である、すべては「風」なんだ!という「風」一元論だ。

キブリを奪う憑依霊

キブリは、妖術使いや、ある種の憑依霊たちによって奪われることがある。キブリを奪う「キブリの妖術(utsai wa chivuri)」と、奪われたキブリが切り殺される前にそれを患者に取り戻す「キブリ戻しの施術(uganga wa kuudzira chivuri)」については、すでに別のところで簡単に紹介94しているので、ここでは特に触れない95。憑依霊関係に限りたい。

すべての憑依霊が人のキブリを奪えるわけではない。人のキブリを奪うのは、主にライカ(laika, pl.malaika)3と呼ばれる憑依霊のグループの霊と、シェラ(shera, pl.mashera)62である。キツィンバカジ(chitsimbakazi, pl.vitsimbakazi)4も奪うが、キツィンバカジはしばしばライカの一種の扱いを受ける。

これらの憑依霊は人のキブリを奪って、自分の棲み処に連れ帰る。妖術使いと異なり、憑依霊がこうした振る舞いに及ぶのは、彼らが犠牲者をク・ツヌカ(ku-tsunuka)した、つまり「惚れた、気に入った、目をつけた」ためで、妖術使いと異なり犠牲者を殺害すること自体を目的としたものではないとされている。それゆえ、それらの霊との交渉によって奪われたキブリを取り戻すこともできるのである。理論上。

キブリを奪われた人はどうなるのだろうか。 実は意外なことに、キブリを奪われても、奪われた本人はその事実に気が付かないらしい。いつも通りに生活を続ける。ただ体調は損なわれる。憑依霊によってキブリを奪われていると、全身に倦怠感を覚えたり、朝夕に悪寒と激しい頭痛に見舞われたり(昼間はなんともないのに)、吐き気を感じたり、食欲がなくなったり、水をよく飲むようになるという。うん、たしかにこの程度なら、単なる体調不良で済ませるかもしれない。

ただ油断してはいけない。妖術使いは奪ったキブリを瓢箪に閉じ込めて、痛めつけ、最後はキブリを切ってしまう。そうなるとキブリの持ち主も死んでしまう。憑依霊の場合は、気に入って連れて帰ってしまったので、そう過酷な目には合わないが、でもベニィーロ老人(キナンゴ近郊に住む面白い老人)のお話にもあるように、憑依霊からキブリを取り戻すのに失敗すると、場合によってはキブリを奪われた病人は死ぬ場合もあると考えられている。人本体から離れたキブリが死ぬと、本体の人も死亡すると考えられているので、占いなどでキブリが奪われていることが判明すると、できるだけ早くクズザによってそれを取り戻す必要がある。

ライカに本格的に憑依されてしまうと、夜中に炉の場所に行って灰を食べたり浴びたりし、灰まみれになったり、ライカの種類によっては土を食べ始めたり、口がきけなくなってしまったり、昏倒して口から泡を吹いたり、痙攣したりとたいへんなことになる場合もあるそうだ。ライカの側でなにか叶えてもらいたい要求、例えば薬液を浴びたいとか、草木を食したいとか、人間を訪問した際の椅子が欲しいとか、ンゴマで踊りたいとか、がある場合は、こうした本格的な災いによって苦しめられることになる。これらは、個々の要求を満たしてやることによって、解放される。そこではライカたちも他の憑依霊たちとほぼ同じモードで行動している。ライカたちの究極の要望は、もちろん彼らに「仕事」が与えられること。つまり目をつけ惚れた人間に、施術師になってもらうことである。

人間の立場から見ると、キブリを奪われることも、ライカ側からの人間に対する迷惑行為の一つということになるが、特になんらかの要求を満たす目的がライカの方にあるわけではないという点で、他の迷惑行為とはいささか異なっている。クズザされること(つまりせっかく奪ったキブリを取り返されること)を求めて、キブリを奪うライカがいるのかどうか、怪しいものだ。もしいたとしたら、相当な「かまってちゃん」ライカだ。

上述のベニィーロ氏の語りにもあるように、クズザでは、施術師と憑依霊ライカたちとの間での闘い、一つのキブリの奪い合い、という側面に照明が当てられている。これは、要求をかなえてもらうための、一種脅迫に近いせがみとそれを解除してもらうための、憑依霊をなだめすかす交渉という、施術師と憑依霊との通常の関係性とはやや異質だ。

もっとも霊たちの究極の欲求、宿主に施術師になってもらいたいという欲望があって、いろいろ迷惑をかけてきている場合には、当然キブリを奪って棲み処に隠すことも彼らが繰り出してくる迷惑行為に含まれているとも言えるかもしれない。ライカの施術師になる「外に出す」ンゴマには必ずクズザのプロセスが含まれている。

要するにキブリとは何か

身体の中にあるときは、水面や鏡に映ってこちらの正確な物真似をして見せ、本人が眠ると、外に出ていろいろなところに出かけていろいろな人に会い、そうしたキブリのもつ経験を本人は夢として共有する。ときには妖術使いに呼び出されて捕まえられてしまったり、憑依霊にさらわれて憑依霊の棲み処に連れて行かれる。でもキブリがこうしていなくなっても、本人は気がつかない。体調不良に苦しむが。もちろんキブリがいなくなっても夢は見る。眠ればキブリ自身がもっている経験を共有できるので。空を飛んだり、水に潜ったりする夢はドゥルマではありふれている。見知らぬ美男・美女(彼らも憑依霊、有名どころではペポムルメ19とか)と性関係をもったりも。まあ、キブリがそういうことをやっているわけだ。本人が死ぬと、キブリは解き放たれ、祖霊(k'oma)となって、子孫の夢の中にやってくるだろう。子孫は夢の中で、死んだお父さんの訪問をうけたり、お父さんの要求を聞かされたりすることになる。死んだ後は、キブリは死者そのものとして子孫と交流する。

では、キブリは我々の言うところの「霊魂」なんだろうか。でも霊魂が(妖術使いにさらわれたりして)なくなっても人は普通に生きていけるのだろうか。家族や隣人と会話をしたり、職場の上司に給料の前借りを求めたりするのだろうか。霊魂無しで。有りえないような気がする。というか、そもそもこの問い自体がおかしい。無理やり、日本人の自分たちに理解できるおなじみの概念に、キブリを落とし込んでやる必要もない。人々がどのような言葉で、何をどのように語っているのかを示し、そこからわかることだけで十分なのだ。

キブリと関係のありそうな、ロホ(roho)とモヨ(moyo)という二つの言葉がある。いずれも、人の感情や認識や存在について語る際に登場する言葉である。スワヒリ語にもこの3つの言葉ロホ(roho)、モヨ(moyo)、キブリ(kivuli)があるが、ドゥルマ語におけるそれぞれの意味は、スワヒリ語での用い方とも微妙に異なっている96

スワヒリ語においては、もっぱら非物質的(霊的?)な部分に関わるロホは、ドゥルマ語では臓器としての心臟でもある。

  1. rohoが心的な実体、あるいは一種の生命原理として語られる用例

  1. どちらともとれる用例

  1. 明らかに臓器としての心臟を指す事例

一方、モヨ(moyo)は、スワヒリ語同様、臓器としての心臟を指すと同時に、それに結びつく心的状態や生命を意味する用い方がある。

  1. 臓器としての心臟

  1. 心的な実体、状態や行動

  1. 生命

最後にスワヒリ語のキブリは「影、陰」以外には「お化け、幽霊」の意味しかなく、夜中に勝手に行動したり、夢を見せたり、死後祖霊として存在し続けたりすることはないので、ドゥルマとの共通点は少ない。なおスワヒリでは死後、地下の死者の土地に行くのは人のロホである。

ざっと一瞥しただけだが、スワヒリ語の用法では、ロホとモヨとキブリの間には明確な切り分けがあり、モヨが身体(臓器)との結び付きを保持しているのに対し、ロホとキブリは特定の臓器を意味することはない。それに対し、ドゥルマ語では同じ3つの言葉で語られるものはそれほど明確に切り分けられていない。あえて言えば、ロホとモヨはともに同じ臓器(心臟)の意味で用いられ、意図や欲望や感情といった同様な「心」的状態を帰属させている。それに対してキブリは、特定の臓器との同一視はなく(瞳孔との結び付きがあるが)、また情動的な側面よりも、人間の心的現象の認知的な側面を強調したものとして描かれている。 しかし、それを言うならたとえばドゥルマ語では「耳」(sikiro, pl.masikiro)は「感じ、理解し、納得する(ku-sikira)」心的活動の場であるし、「目」(dzitso, pl.matso)は、物を見分け、認識する心的活動の担い手であり、頭の内側はアキリ(akili ちなみにこれもスワヒリ語と共通する単語である)「情報や知識、分別や論理」の場としてとらえられているなど、他にもいろいろ出てくるだろう。

以下にその一部を紹介する憑依霊に対する唱えごとは、患者の身体の各部に「薬」をすり込みつつなされる唱えごとである。憑依霊が人の身体にやってくるときに、どこに腰を下ろしてはならず、どこに腰を下ろすべきかを諭している。

(DB 6694) (ムリナ、彼の「薬」を患者の身体の各部分に擦り込みつつ。なおこの患者は彼自身が施術師であり、最近、癒やしの術のがうまく行かなくなったため、その治療をムリナ氏に依頼したものである)

Murina: 憑依霊、足(lwayo)にとどまること、なし。憑依霊、人差し指(chala cha moloho)にとどまること、なし。憑依霊、足の甲(chifumba)にとどまること、なし。憑依霊、くるぶし(ngunyu)にとどまること、絶対になし。この脚...憑依霊たちは全員、そこから立ち退くこと。そうすれば、この者、旅があっても、疲れることなし。アキレス腱あたりが痛むこと(ndangu)なし。憑依霊、ふくらはぎ(tsafi)にとどまること、なし。憑依霊、膝(vindi)にとどまること、なし。憑依霊小指(chala cha kanda)にとどまること、なし。憑依霊、手首(chitengu)にとどまること、なし。憑依霊、肘(chikokorito)にとどまること、なし。憑依霊、肩関節(fuzi)にとどまること、なし。憑依霊、腰(chibiru)にとどまること、なし。憑依霊、背中(mongo)にとどまること、なし。憑依霊、肩関節(fuzi)にとどまること、なし。憑依霊、首の後ろの棘突起(ringo ringo ra tsingo 出っ張っている骨)にとどまること、なし。憑依霊、そこ、鎖骨の上のへこんでいる部分(linga nzalani)にとどまること、なし。憑依霊、心臟(roho)だけにとどまること、なし。憑依霊、心臟の洞穴(panga ya moyo)にとどまること、なし。憑依霊、その仕事は、目(matso)に登ること。目が、この者を癒やしの術的に熟させること。憑依霊、両の肩にまで登り、憑依霊、頭頂の大泉門のあった辺り(luhotsi)より入り込む。憑依霊、その仕事は、アキリ(akili97)の場所にとどまること。アキリを癒やしの術的にかき混ぜ、この者が、誰が病人で誰が罪人であるかを見分けるように。憑依霊、後頭部にとどまること、なし。憑依霊、頭頂の大泉門のあった辺りにとどまる。今、憑依霊はそこにとどまる。このように私は憑依霊をここに置く。憑依霊を、私はアキリの場所に置く。

憑依霊は、宿主のもとにやってくると、座る場所が与えられていない場合、宿主の身体の、さまざまな部分に腰を下ろしてしまう。それがさまざまな身体症状で宿主を苦しめることになる。憑依霊の病気とは、最初はもっぱら、これだ。患者に対して施術師が与えるさまざまな「護符」(と訳するのは何とも不適切なのだが)は、患者に憑いた憑依霊たちに対して差し出される「椅子(chihi)」、憑依霊たちが腰を下ろすことができる「椅子(chihi)」であると説明される。憑依霊自身が求めているのである。しかし、憑依霊の施術師自身は、「椅子」などを用意してもらうこと98で憑依霊が患者のさまざまな身体部位に腰を下ろすことを防ぐと同時に、憑依霊に自分の身体のある部分に「腰を下ろし」てくれることを求めている。それがアキリ(akiri)つまり「分別、道理、知識、情報、知性」の場所、つまり頭の中(それと「目」)だ。上記の唱えごとは、それを実にストレートに表明している。他の場所には座らないでほしいが、そこだけには座って欲しいと、言っているのである。

ちなみに上の唱えごとの中では言及されていないが、憑依霊が人間のところにやってきて、そのまま居座るもう一つの場所がある。それは「血(milatso)」である。人々は「憑依霊は血だ(nyama ni milatso)」としばしば語る。宿主の血は、憑依霊がそこに居座って、安住する場所でもある。そして血を通じて、例えば母親に憑いている憑依霊が、そのまま生まれてくる娘の血にも棲みついてしまう場合すらある、というか、多い。母娘が同居している場合はよいが、娘が婚出した場合に、これが問題になる。母娘のどちらかが憑依霊と「争い(kondo)」あるいは「論争(maneno)」に入った場合(つまり憑依霊の側に何か要求があり、宿主の側がそれをかなえずにいる状態)、母娘二人いっしょにンゴマを受けねばならないとされているからである。というわけで、各人がそれぞれの憑依霊問題を別個に処理できるように、「憑依霊を分ける(ku-gavya nyama)」ンゴマを開催することになる。

私が憑依霊の施術師たちといつもつるんでいるのに、なぜこいつは憑依霊にとり憑かれないんだということが話題になるときに、「だって憑依霊は血だって言うでしょ」と答えると、不思議に納得してもらえたりする。しらんけど。

こうなるとドゥルマでは、憑依霊は人間のさまざまな場所にパーツとして着脱可能なそうした存在だと言いたくなる。外からやって来て、勝手に一体化したり、離脱したりするのが憑依霊たちである。だったら、人間の生まれながらもっているパーツのなかにも、着脱できてしまうのがいても、いいじゃないか。それがキブリだ。スワヒリの人たちのあいだにおけるように、ロホにも一部着脱可能性があるともいえる。死んだらロホは空気中に出ていってしまう、と済ませてしまう人もいるが、キリスト教徒のようにロホが天国にいくんだという人もいる。でもロホはドゥルマ語では心臟という特定の臓器でもあるので、着脱可能性はスワヒリ語での場合のようにはいかない。そんななか、かなり柔軟な着脱可能性を楽しむパーツがキブリであると考えると、楽しい。

クズザの施術

クズザの施術師

キブリを取り戻す施術が、「嗅ぎ出し」クズザ(ku-zuza)であるが、それを行うことができるのは、これらの霊と関係を打ち立てているこれらの霊を持ち霊とする施術師たちである。そもそも、これらの霊の施術師は、これらの霊から「クズザの施術」を要求された(これらの霊がクズザの仕事を欲しがった)ために、それらの霊について「外に出された」者なのだ。クズザの施術師となる者は、したがってキブリを奪う憑依霊たちに取り憑かれている(惚れられている)者であり、彼ら自身のキブリも奪われている可能性が高い。というわけで、これらの霊について「外に出される」際には、徹夜のンゴマ(あるいはカヤンバ)に先立って、彼ら自身がンゴマを主宰する施術師によってクズザしてもらわねばならない。

多くの霊は、ンゴマ(ngoma99)を開いてもらって踊らせてもらえば、それでその要求が満たされるのだが(他にも必要な布や、椅子(chihi103)や、「鍋(nyungu30)」や浴びるための「薬液(vuo33)」、煎じて飲む「草木(muhi21)」、さまざまな備品を折にふれて要求はするけれど...やっぱり面倒くさい人々だが)、いくつかの主要な憑依霊たちは、その究極的な要求として「仕事」を欲しがる。つまり、自分が目をつけた人間に憑依霊による病気、つまり自分たちが引き起こした病気を癒す仕事をしてもらいたがる。

これは一見、不思議なことのように思えるかもしれないが、ンゴマにせよ、にせよ、草木にせよ、これらの要求全ては、人間による憑依霊に対する饗応行為だと考えると、不思議ではなくなる(少しは)。憑依霊の病気に対する治療行為、癒やしの術とは、憑依霊に対する饗応の行為であり、その仕事を務めるよう要求するということは、つまり自分たちを饗応してくれるいわば接待専門係を、目をつけたこれらの特別な人間たちに務めさせようとしているということなのだ。もちろんこれは私の解釈ではあるが、そうとしか言いようがないでしょ。

ただクズザについて、他の憑依霊の施術と違っているのは、憑依霊がせっかく奪い取ったキブリを取り戻す行為は、どう見ても、憑依霊に対する饗応とは言えそうにない点である。すでに挙げたベニィーロ老人の語りに見られるように、施術師自身の見解はいざ知らず、ベニィーロ氏のような非専門家の目には、クズザは施術師と憑依霊との対決、ときには(目には見えない存在との)格闘とすら見えているのだ。私自身は出会ったことはないが、カタナ君が1984年の手紙で報告してくれたAli Mashuaという施術師の話しのように、施術師自身が憑依霊との対決、格闘を施術の特徴として強調するケースもあるようだ。 もちろん後に説明するように、私の知り合いの施術師たちは、力ずくで取り返すというよりも、対価を差し出して交渉によって取り戻すという見方をしているように見えるので、その場合、キブリを返却する憑依霊にとって利得がまるでないというわけではない。しかしそもそも憑依霊がキブリを奪うことが、それと引き換えに何かを手に入れるため、という訳ではないので、やはり上記の、憑依霊の病気に対する治療=憑依霊に対する饗応、という公式(勝手な公式を作るなと言われそうだが)は、クズザには当てはまりそうにない。

同じことは除霊(ku-kokomola)の施術9についても言えるかもしれない。饗応によって宿主とその憑依霊たちとの関係を良好に保つことに主眼をおいた諸々の施術の正反対とも言える、宿主と憑依霊との関係を断ち切り憑依霊を閉め出してしまうという除霊ク・ココモラは、事実、憑依霊の施術師とは別のカテゴリーの施術師たち(妖術系の施術師や、ニューニ(nyuni)と総称される特殊な霊(上の霊とも呼ばれる)の施術師)によって行われる。

それに対して、クズザは憑依霊の施術師の仕事である。それゆえ、おそらく憑依霊との上手な付き合いという施術の基本の範疇に収まるはずだと期待できる。

クズザの異例な点として、人のキブリをとっていく憑依霊以外の霊も、自分がつきまとっている人間に、(最終的には)クズザの施術をするよう求めることがある。人間を病気にすることによって、クズザの施術をする施術師になるように要求する憑依霊としては、デナ(dena56)や、レロニレロ(rero ni rero61)、マンダーノ(mandano60)、ニャリ(nyari57)、キユガアガンガ(chiyugaaganga105)、ガシャ(gasha107)らがいると話には聞いているのだが、これらの霊は人のキブリを奪うという行動モードをもっていない。幸か不幸か、実際にこれらの霊を持ち霊としてそれによってクズザをしている施術師に出会ったことがないので、ここでは一応、そんな話もあるよの報告までにしておきたい。

もっとも「嗅ぎ出し(クズザ ku-zuza)」という行為は、奪われたキブリを探し出すという意味で用いられるのが普通だが、失せ物を探し出すとか、共同体の内部に潜んでいる妖術使いを探し出すとかの施術(後者は、一般的には「祈願の施術(uganga wa kuvoyera)」と呼ばれるが)についても用いられることがないわけではないので、そちらなのかもしれない。いずれにせよ、乏しい私の知識ではなんとも言えない。

憑依霊によって奪われたキブリを探し出し、取り戻す施術は、そのキブリを奪ったとされる憑依霊(本人なのか、単に同じカテゴリーの霊なのか、そのあたりは曖昧)を持ち霊とする施術師が、その持ち霊に憑依された状態で行う施術であり、一般には奪われたキブリが隠されている霊の棲み処まで行って、そこでキブリを返してもらう(取り返す)というもので、ライカやシェラの施術師によって行われる。

施術師が自分の持ち霊のライカに、誰かのキブリを奪わせ、同じく自分のライカでそれを取り戻してみせる、なんていうマッチポンプのようなことは起こらないのかと、つい勘ぐってしまうが(私だけか?)、ライカについてはそんな可能性を問題にする人に会ったことはない。でも、1950年代に突然流行し始めたというシェラについては、年配の女性たちの中にそうした疑いを持つ人もいる。けっこういる。

特定の憑依霊の施術師になるということは、その憑依霊あるいは憑依霊のグループを「外に出す」(それは患者を「外に出す」ことでもある)施術を受けることである。徹夜のンゴマ(ngoma99)を開き、その場で憑依された患者=憑依霊に対して、その憑依霊の瓢箪子供が差し出される。患者は憑依霊に導かれて(憑依された状態で)夜明けにブッシュに入り、その憑依霊の最も重要な草木を人から教えられることなしに見つけてつかみ取ることで、その能力を証明しなければならない。ライカやシェラなどの、キブリを奪う憑依霊の施術師も、同じプロセスを経ることで施術師となる。しかし施術師としてのキャリアを、いきなりライカやシェラの施術師から始めることはできない。患者にとって最初に「外に出される」憑依霊は、憑依霊の筆頭であるムルング(mulungu87、またはムルング子神88)でなければならないからである。ムルングに続いて、病気になおも苦しめられている患者に対して、他の重要な霊が順番に外に出されていく。その中でライカとシェラは比較的優先順位の高い霊である。

つまりクズザの施術を行うことができる施術師は、それ以前に施術師としてのある程度の経験を積んだものであるということである。

クズザの手順

クズザは単独で行われることもあるが、しばしば他のンゴマ(カヤンバ)と組み合わせて実施される。そちらは具体的事例の中で見ていただくことにして、ここではクズザが単独で行われる場合の手順について簡単に説明しておきたい。といっても、後に述べるように、施術師によってかなりのバリエーションがあるので、おおまかな共通パターンの紹介に限ることになるが。

出発前のカヤンバ

前出のベニィーロ老人の語りにもあるように、一般の人がクズザについて語るときには、施術師が奪われたキブリを探しに出る場面からである場合がほとんどだ。そこからが見ものだから。しかし実際に行われたクズザについて時間をおかずに聞いた場合は、それがまず屋内で患者を座らせてその周りでカヤンバを打つところから、話が始まる(というか語り手が老齢の場合、水場やムズカまでの駆け足はきつくて、ついて行けないからなのかも、だが)。

604 ...(略)...

Hamamoto(H): 一昨日のカヤンバ、何時に始まったっておっしゃってましたっけ? Memose(M): 9時(午後3時108)に始まりましたよ。まず病人に(カヤンバを)打ってあげるところから始まって、その後で施術師に打ってあげたんですよ。 605 Memose(M): 病人が最初にカヤンバを打ってもらったんですよ。そして、さあ、施術師に(カヤンバ演奏の輪の中に)座ってもらったときには、病人はすでに席をたってました。その後施術師がカヤンバを打ってもらい、すぐに憑依状態になりました。そこで、さあ、施術師は(屋敷を)出発して、ムズカ(muzukani14)まで病人(のキブリ)を受け取りに行きました。 Hamamoto(H): どこのムズカだったんですか? M: ああ。さてどこのムズカかは私は知りません。 H: つまり、あなたはムズカにはいらっしゃらなかったと? M: いえ。夕方をすぎるとね、この脚がもう痛くて言うことをきかないんですよ。 ...(略)...

実は最初に行われるこの患者に対するカヤンバは、患者がもっている他の憑依霊たちのためのものだ。カヤンバが開かれているのに、自分が招待されていない(自分のための曲が演奏されない)と、これらの霊たちが嫉妬して施術を妨害するかもしれない。患者がもっている霊が少ない場合、ムルング(mulungu87)と憑依霊アラブ人だけが、さっと演奏されるだけだが、たくさんの霊をもった患者の場合には、この前段階だけで何時間もかかってしまうこともある。憑依霊は嫉妬深い、これはどんなに強調してもしすぎではない。もちろん患者の持ち霊でもある、キブリ誘拐の犯人であるライカやシェラの歌も演奏され、患者もゴロモクァすることが期待されている。

この第一段階が、他のカヤンバとの組み合わせで行われるクズザで省略されたり、簡単に済まされるのは、当然のことである。憑依霊たちはすでに他のカヤンバの方でその欲求を満たされるのであるから。

施術師を囲むカヤンバ

その後、戸外に設置された「池(ziya)」の前に施術師が腰を下ろし、カヤンバ演奏者たちによる演奏が始まる。池とは、搗き臼にライカ等の憑依霊の草木で作成された薬液を入れたものである。カンエンガヤツリ(mukangaga)などが植えてあり(地面に差し込んであるだけだが)、ライカやシェラの棲み処に見立ててある。(下のスケッチ109は1983年「青い芯のトウモロコシ」村で私が初めて見たクズザの際に用意されていた「池」である)

キブリ探索行(maironi)

やがてライカ、あるいはキツィンバカジあるいはシェラなどクズザを行う憑依霊に憑依された施術師が、右手に蝿追いハタキをもって一頻り踊った後、周囲の人々にクフィニャ(kufinya110)の瓢箪のなかの薬を塗ってまわると、いきなり、拐われたキブリが隠されているライカ等の棲み処に向かって勢いよく出発する。施術師はけっして後ろを振り向かない。蝿追いハタキを右手に持ち瓢箪を左手に持った施術師の後ろに、憑依霊に差し出すヒヨコやその他のキリャンゴナ(chiryangona113)を入れた編み袋をもった弟子、カヤンバ演奏隊、見物人たちが続く114。このキブリ探索の過程はマイロあるいはマイロニ(maironi112)とも呼ばれる。この探索行においては、何人たりとも施術師を追い抜いて、その前を行ってはならない(muganga kachirwa)。

キリャンゴナ(chiryangona113)は、白、黒2羽の鶏(ヒヨコ)、バナナ、ココナツ、サトウキビ、揚げ菓子(hamuri115)、ハッカ飴(飴というよりも白い錠菓 peremende116)、トウモロコシ粒、シコクビエ(wimbi)など。施術師によって違いはあるが、2羽の鶏、バナナ、揚げ菓子、ハッカ飴、雑穀の粒はほとんどのクズザで共通しているように思う。灰を水で団子状にした灰ケーキ(mukahe wa ivu)は、施術師によってはマイロニに持っていったり、「池」の周りに並べたりなどの形で、よく使われている。

携行されるキリャンゴナは、それぞれ細かく切られたり、砕かれたり、ときに水に溶かれたりしており、マイロニの途中で立ち止まって撒かれたり(それで方向を変えているように見える)、訪問先のムズカに投げ込むなどの形で捧げられたり、川の深みなどでは水中に撒かれる。2羽の鶏の白い方は、訪問先で屠られるが、黒い鶏の方は羽をむしられて撒かれるだけで生きたまま持ち帰られる。

施術師が何箇所のライカたちの棲み処あるいは滞留場所(chituo117)を回るかは、一定していない。何箇所も回る施術師もいれば一箇所で済ませる施術師もいる(それどころかマイロニにまったく行かない施術師もいたりするが、これは特殊なので、後述しよう)。 一箇所ごとにキリャンゴナのなにがしかを差し出し、ムズカやバオバブなどの大木であれば洞窟や虚穴の中に溜まった塵芥や落ち葉など(これらはマフフト(mafufuto118)と呼ばれ、後に患者を燻したり、薬液に加えたりするのに用いられる)を、川の深みや池であれば水中に入って底の泥や、睡蓮(matoro120)やムニュンブ(munyumbu121)、浮草(vilongozi122)、岸辺のカンエンガヤツリ草(mukangaga123)などを採集して持ち帰る。回った場所の一番重要なところで、白い鶏を屠って捧げ血を撒く。 その際の唱えごとなどは、カヤンバ演奏の騒音でほぼ聞き取ることは不可能である。

一般のドゥルマの人々は、こうして持ち帰ったものの中にキブリが入っていると理解している(何度も出てきたベニィーロ老人の語りからもわかるように)。施術師自身による説明は、少し違っているのだが。

これが済むと、後は屋敷に戻るだけである。帰途はカヤンバも屋敷近く(屋敷への分かれ道に)に着くまで演奏されないし、人々も行きとは違って、ダラダラ雑談しながら歩いて帰る。施術師を追い越してはならないという規則は、帰り道でも有効なはずなのだが、守られていないこともある。チャリの場合、帰りもとっとことっとこ速歩なので、ついて行く方はすごく疲れる。チャリによると、キブリを獲っていった憑依霊がライカ・ムエンド(laika mwendo「高速ライカ」44)の場合は、施術師は大急ぎで走って、また大急ぎで戻ってこなければならないのだという。さもないとせっかく取り返したキブリをまた奪われてしまうのだとか。

キブリを患者に戻す

一行が屋敷に近づくと、カヤンバ演奏が再開される。

一行が帰ってくるまで、患者は小屋の中で床に敷かれた茣蓙(kuchi124)の上で仰向けに横たわり、その上からムルングの黒い(紺色の)布で全身を覆われて、じっと人々の帰りを待っている...。はずなのだが、私がマイロニをサボって屋敷に残っているほとんどの場合、ムウェレは一行が出ていくと、小屋から出てきて屋敷の女性たちと雑談を楽しんでいる。カヤンバの音が聞こえてきて、慌てて立ち上がり小屋の中に入って大人しく寝ていた風を装うのだ。なんだよ~。もっと真面目にやれよ~。

施術師を先頭に戻ってきた一行は、ムウェレが寝ている小屋の周りを時計回りに周回し(一回の場合もあるし複数回周回するときもある)、施術師と助手たち、カヤンバ奏者たちが小屋に入る。この際、施術師によってはまっすぐに入らず、後ろ向きになって背中から小屋に入るという形をとる者もいる。

カヤンバが演奏されている中、持ち帰った瓢箪の栓をとり、瓢箪の口をムウェレの身体の各部分に当てて、強く息を吹き付けていく。耳から始まり、目、鼻、身体の各関節部を経て手足の先まで念入りに。時折瓢箪の中身(液体部分は蜂蜜)を舐めさせたりもする。これによって奪われたキブリを患者に戻すのだという。その後、ムルングの一枚布を助手とともに広げ持ち、寝ている患者の上6~70cmほどの高さに広げ、その布の真中に持ち帰った、川底(池底)の泥、草木類、ムズカの塵芥などを置き、その上から盛大に薬液(vuo)やバケツの水を注ぎながら、布を前後左右に動かして水をムウェレに注いでいく。

続いて、寝ていたムウェレを茣蓙の上に座らせ、再び頭上に広げた泥入りの布にバケツの水を盛大に流し入れ、水を降り注ぐ。その後、クフィニャ(kufinya110)の瓢箪のなかの薬で患者をクツォザ(kutsodza75)する。上述の瓢箪の中身を舐めさせるのを、ここで行う施術師もいる。クツォザの代わりに薬を患者の各関節に擦り込むだけの施術師もいる。

ムウェレを小屋の外に連れ出し、手足を勢いよく振り、蹴り出す動作を行わせる。終了。その後、締めのカヤンバが演奏されることもある。

これでほんとうに終了。

この基本パターンにほぼ忠実なクズザの例(録音等一切しなかったのでフィールドノートのメモのみで、特に事例の中には挙げなかったデータ)

キブリを取り戻すとはどうすることか: 理論的立場の違い

先に紹介したクズザの手順は、多くのクズザにほぼ共通に見られるプロセスであるが、実際には、施術師によるバリエーションが大きい。話しに聞いただけで実際に見たことはないが、なんでも中にはキブリ戻しの際に、施術師が小屋の屋根の日本家屋で言えば棟にあたるところ(sarasara125)に登って草葺の一部を剥がし、その穴から室内に寝ているムウェレの心臟のあたりを狙って薬液を注ぐなどという手続きを踏む施術師もいるという(DB 2408-2409)。トタン葺の屋根だったら難しいと思うが。また同じく話しに聞いただけだが、キブリ探索に手鏡を用いる施術師もいるらしい。こうした細かい工夫の違いをいちいち挙げるつもりはない。

しかしなかには「キブリ探索行」を一切省略する、などという思い切った変異形でクズザをやる施術師がいて、これには私もびっくりした。その施術に出席した後、チャリたちにこの点を尋ねてみたのだがその答えも、当時は私にはよくわからないものだった。どうもこの変異形を巡っては、キブリを取り戻すというこの施術の主眼点について、大きな理論的な立場の違いがあるようだ。なにしろ取り返さねばならないのはキブリという、それ自体とらえどころのない、存在論的にも一筋縄ではいかない対象だ。水底の泥を持ち帰って、それでなぜキブリを取り戻したことになるのか、本当に取り戻せているものは何か、キブリ探索行マイロニ(maironi)が本当に必要なのか、どうして必要なのかについては、あれこれ理論的に模索している施術師がけっこういるようなのである。

施術師ムニャジさんの見解

1990年1月にムルングを「外に出し」施術師としてのキャリアを始めたムニャジさんは、なかなかの理論家でもある。 以下、クズザについてのムニャジとの会話。いろいろ面白い話だったのだが、途中からテープを上書きしてしまった(ごめんなさい)ため、無事だった出だしの部分のみ。最初は、クズザで水のなかに入っていくのが危険だと指摘する施術師が多いという話から...

8090

Munyazi(Mn): その怖いっていうのが、わからないわね。なに? 見てると水の中に沈み込むからって?わからないわね。水の中のなにが怖いっていうの?あんた、何が怖いの? Hamamoto(H): 私はわざわざブーツを脱ぐのが面倒なだけだけどね。 (笑い) H: まあ、水の中にはヘビがいるなんて聞いたけど。 Mn: ああ、くじ運だね。心配しないで。水の中に入っていく人(施術師)が、馬鹿だと思うの? H: いえ、いえ。 (笑い) Hamisi Ruwa(R): えーと、例のキブリですが、それを取り返したら、まるでキブリがとり憑いた人みたいに、あなたは何の仕事もできなくなると聞いたのですが。ただ全速力につぐ全速力で、家まで、病人がいる家まで行くんだと。 Mn: なんのために? R: えーと、例のキブリですが、もしあなたがそれをあちらで取り返したら、あなたはそこからの帰り道で他の用事は何もできない、ただ全速力でまっすぐ病人のいる家まで行くんだと。 Mn: さてさて、あんた、あのつむじ風が通り過ぎて、くるくる回っていく、その動きをあんた、どう見るね? H: とっても速いです。 (笑い)

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Munyazi(Mn): いや、行って、少し停まったかと思うと、ブッ(動きの速いさま)、行ってしまうんじゃないの?進んで、ちょっと止まって、あっという間に行ってしまう。さて、そんなふうに人(人のキブリ)は、つむじ風によって、もって行かれてしまう。だからあんたも、そんな風に(素早く)しなければならない。だって、もしあんたがゆっくりしていると、さあ、キブリはきっと戻ってしまうのよ。 Ruwa(R): キブリは戻ってしまいうるのですか? Mn: あんたは高速で行かないと。 R: キブリは戻ってしまうかもしれない? Mn: そうよ。 R: でも瓢箪の中にいるのでは? Mn: でも戻ってしまうのよ。瓢箪の中にいるからって、何なのよ。戻ってしまうのよ。 (笑い) Hamamoto(H): でもその瓢箪には栓がしてあるのでは? R: そうそう。キブリが入ってくると、すぐ瓢箪には栓がされる。 Mn: それはそのとおりよ。でもね、あなた... R: その後、キブリを病人に戻してあげるそのときに、あなたは栓をあけることになりますよね。

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Munyazi(Mn): まずね、小屋の内側に入ったとしたらね、瓢箪はここのところに最初に置かないといけないのよ。 Ruwa(R): 心臟のところに(rohoni)? Mn: 心臟のところによ。 H: おお、病人のね? Mn: なんでかっていうと、(瓢箪は)そこから出発して、ここ(心臟の場所)に来ないといけないから。 R: 病人の? Mn: 病人のよ。 H: つまり耳から出発する? Mn: そうよ。その意味はね、ここ(耳の中)こそ、その中にまず最初に吹込んでもらう場所なのよ。それからここと、ここと、そして目ね。その後(瓢箪を)ここ(心臟のところ)に座らすのよ。 Ngoloko(Ng): つまり、あなたは両耳と、鼻と、それから両目に吹き込むんですね? Mn: そうよ。 R: そうやってキブリを戻してやるというわけですね? Mn: そう。あなた、もしあちら(霊の棲み処)から本当にキブリをもってきたのなら、そもそもね、あなたがまだ完全に戻し終える前に、病人が早くも踊り始めるのよ。でも踊らないのなら、ああ、あなたは失敗したのよね。 H: というわけで、キブリは、ここと、こことここから入るんですね。

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Ruwa(R): つまりあなたはあの瓢箪で、両耳、鼻、両目、口... Munyazi(Mn): つまり、その人の風(p'ehoze85)が入るようにね。 Hamamoto(H): 要するに、キブリはそれらの風のことなんですか? Mn: そうよ。でもね、それで人は治るのよ。なに?あなたは、人間そのものが(憑依霊に)運んでいかれるって言うの? (笑い) H: そうするとキブリは単に風だと。ところで、もうひとつ質問があるんですけど。あの搗き臼(chinu126)ですが、その意味はなんでしょう。クズザの際の。 Mn: なに?搗き臼? H: はい。クズザの際に、搗き臼が外に置いてあるじゃないですか。それにどんな役目があるんですか? Bora(B): 彩色をしっかり施されてね。 Mn: ああ、あの搗き臼は、その人を獲っていったそいつを、引き寄せるためのものだよ。たとえ、それがあのサンブル(「ジャコウネコの池」村から約60キロ離れた地名)(みたいな遠いところ)にもっていかれていたとしても、結局ここに戻っているようにね。 R: え、そいつって誰のこと? H: ライカのこと、それともシェラ? Mn: あいつライカよ。あなた、あなたはこの近所の人を治療するんでしょ。でも、すごく遠くにいる人(その患者のキブリ)でも治すことができるじゃない?それとも、あなたマイロニでここから出発して、はるばるサンブルまで走っていって、その人のキブリをそこからもってくるとでも言うの? (笑い)

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Hamamoto(H): そりゃ、無理だ。 Munyazi(Mn): だから搗き臼をおいて、その人を引き寄せて、ここに来させないとね。 Ruwa(R): なるほどね。じゃあ、そんな風に人を遠方から来させる、だってあなたはその人を引き寄せるって言うんだから。だから、あなたはその人のキブリを引き寄せると。その搗き臼でね。ということは、池に行ったりする必要はないのでは? Mn: 行くともさ、行くともさ。 R: でもあのキブリは... Ngoloko(Ng): つまり彼のキブリは遠方から持ってこられている。 R: そのいたところからね。 Mn: 知らないのかい?そちら(搗き臼にキブリを呼び込んでおくこと)は施術師の秘技のようなもの(chivuna127)。人々はそれをあまり信用していない。人(のキブリ)はその搗き臼がそのように置かれていることで、そこに(やって来て)とどまっている。さて、施術師は忙しくたちまわって、終わらせる。でも、病人の屋敷の人々は、お前さんが本当に病人にキブリを戻したのかどうか、確信がもてない。お前さんが高速で走ってあげなくちゃ(lazima paka ukaze mairo)128112。というわけで、お前さんはあちら(憑依霊の棲み処の水場など)に行くことになる。でもね、患者(のキブリ)は、そこにいるんだよ。とうの昔に帰ってきている。 R: おお、その人のキブリは搗き臼のところにいるんですね。 Mn: そこにいるとも。だって、そこ(搗き臼の周り)に別の瓢箪が置かれているでしょうが。さあ、その人(のキブリ)はそこ(その瓢箪の中に)にいるのよ。 R: おお、そういうわけで、その点はよく納得できます。でも... Ng: それでは、ひとことで言うと、君には搗き臼の役目がわかったんだね...

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Ruwa(R): うん、なぜなら、あなたは彼ら施術師たちもまた、ライカに奪われたキブリを(病人に)戻そうとするときには(そうしていると)ご存知だから... Munyazi(Mn): 私を「外に出し」てくれたあの女性、あなた知ってるわよね。 Hamamoto(H): うん、知ってます。あのメなんとかさん(Menaniyo129).. Mn: メジェファさんよ。あの人はクズザしないのよ。高速で走りはしないのよ。 H: そうですね。さらにチャリさんを「外に出し」た彼女の施術上の父、ニャマウィさんは、屋敷の中だけでクズザを済ませます。搗き臼のところで。川にも行かない、池にも行かない。 R: おお。ということは、そうするのは(川や池に走っていってキブリを取り戻してみせるのは)施術師たちの単なる目眩まし(vilinge vya aganga131)ってことですか?なんと、搗き臼には役目があるんだ。 Mn: ううむ。施術師の目眩ましとは言いませんよ。高速走りを施術師がやりたいからやってるだけだとも言いませんよ。あなた、私があなたに言うとしましょう。「この私の仕事はすべてここで終わらせますよ」って。そしたらあなたは、私があなたのお金をだましとろうとしていると言うでしょうよ。「お前さん、ムズカにも行く前に、どうやってこの人(のキブリ)を戻すっていうんだい?」そこでもし私があなたに「私ならこの場でできますよ。だって必要なものは全部ここにあるんですから」と言ったとしたら、あなたは言うでしょう。「あなたなんて施術師じゃない。あなたには癒やしの術は無理だ。さあ、お帰りなさい。私は別の人(施術師)を探します。」ってね。そうなの、病人の家の者が、ああいったマイロ(mairo112)を求めているのよ。それっ、それっ、それって(出発を促す掛け声)。戻ってくるときには、あなたがた全員、身体のあちこちがとっても痛い(重労働のせいで)。そうしてこそ、あなたはまさしく施術師ですって言ってもらえるのよ。でも、はっきりさせておきましょう。すべての問題はここ(搗き臼のところ)で解消してたのよ。

8096

Ruwa(R): あの(水場などに)行って調えることは、単に意味のない作業ってこと? Munyazi(Mn): まずね、こんなこともありうるのよ。こんな風に行くと、つむじ風とすれちがうかもしれない。そのつむじ風があなたにその人(のキブリ)をもって来てくれるのよ。つむじ風は進んで、あちらの搗き臼のところで、いったん速度を落とす、ゆっくりゆっくりしたと思うと、ヴッ、去っていく。(つむじ風が運んできた人(のキブリ)は)、もう(搗き臼の下に置いてある瓢箪の)中に戻っている。あなたは(マイロで)向こう(水場など)に行って、到着したときには、もうすっかりここでは用意ができている。そう理解してよね。 Hamamoto(H): そんなわけで、施術師のなかには、搗き臼のところにムコネの木の枝で罠を仕掛けたりする人もいるんですね。 Mn: そうよ、罠をしかけるのよ。 R: ところで、もしそんな風に罠を仕掛けたら、それに(キブリが)かかったかどうか、どうやって知るんですか?

(ああ!残念、この後30分近くに渡って続いたムニャジさんとのやり取りは、その後テープレコーダーの操作ミス(もちろん私の)によって、ろくでもない無駄話の録音によって上書きされてしまった!!しばらく、この手のミスはなかったんだけど、油断していた。おまけに録音しているからと安心して、会話中にメモをとらなくなっていた。その分、会話にちゃんと参加できていたということはあったのだが。この後には、搗き臼に罠を仕掛けることの是非、その他についての興味深い話が続いていたのだが、何も残っていない。)

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施術師ムニャジさんの語りは、若者たち(私を含む?)がよってたかって投げかけた質問に対応する中でそういう事になったのかもしれないが、クズザの施術そのものが含む矛盾した二つの側面を明らかにしている。奪われたキブリを取り戻す二つのやり方があるということに。 一つは、搗き臼のところにライカらキブリを奪う憑依霊が大好きな草木の薬液を用意していて、そこでキブリは回収できるというもの。キブリは搗き臼の脇に置かれてある瓢箪に捕獲される。これは普通の人は知らない話である。でも、施術師なら知っていることのようだ。

もう一つは、誰もが知っているように、施術師がライカの棲み処であるムズカや水場を探し当て、そこからキブリを持ち帰るというもの。普通クズザというと、施術師でない普通の人々が考えているのはこちらである。

問題は、両者を同時にやる意味がないという点。一方でうまくいくのなら、他方は必要がないことになる。ルワ君が執拗に質問を繰り返す。最初は、ライカの棲み処への駆け足で行うキブリ探索(マイロ112)は、する必要がないのではという問いに、「私はしますとも」と答えたムニャジさんだが(そしておそらく実際に彼女自身は自分のクズザの施術ではマイロをやっているに違いない)、自分の施術上の母がクズザをマイロ抜きで行っていること、キブリを奪ったライカの棲み処が超遠方であるケースを自分から持ち出すことで、搗き臼があれば十分だという方に、彼女の重点が移ってしまう。では、なぜ彼女はマイロを必要だと考えるのかと問われ、マイロをしなければ依頼人たちが満足しないという驚くべき答えが提出される。

ただ、マイロの無用性をつくルワ君の質問に対して、マイロを正当化する試みも見られる。マイロを行うと良いこともある。途中でライカとすれ違って、ライカ自身が自分で病人のキブリを返しに行ってくれるからという理由があげられている点には、注意すべきだろう。ライカ自身が、搗き臼のところに自分からキブリを返しに来てくれるというわけである。これはマイロを行わなくても、搗き臼の場所でキブリが回収可能だとする話と、呼応している。搗き臼の役割を尋ねた私の問いに対する、彼女の最初の答えでは、「この人を連れて行ったそいつ(hiye mutu yeriye wawala yuyu)」を引き寄せるとなっており、hiye mutu は、患者(yuyuこの人=病人)を連れて行った者であり、ライカ(あるいはシェラ)であることが示されている。そうすると、搗き臼はライカを呼び寄せる装置だったのだということには、ならないだろうか。

ところで、この日本語訳でムニャジさんが、キブリという言葉を用いずに、「人」がライカによって運び去られるとか、「人」を連れ戻すという言い回しを用いて、私がその都度訳文のなかで括弧内にいちいち「のキブリを」という補足をしていたのだが、この翻訳操作が妥当だったのか若干疑問に感じている。ただムニャジの答えを通して、憑依霊によって連れて行かれ取り戻すべき「人」と、憑依霊によって奪われ取り戻すべきキブリは、ほぼ互換的であることもうかがわれる。むしろ注目すべきは、瓢箪から患者にキブリを戻す肝心の作業について、一貫して「風を戻す」という言い方になっている点である。キブリ=風のようなものという理解でよいのだろうか。このあたりの概念のゆらぎもきちんと押さえて置かねばならないところだろう。

ここでは、施術師の中にはより積極的に罠を仕掛けて搗き臼に患者を引き寄せる者がいるということが録音された最後のトピックになっている。録音はここまでだが、ムニャジさんがそれが可能であることを認めたうえで、続けてそのやり方は妖術っぽいので好まないと語っていたことを最後に付け加えておきたい。

施術師ムリンジ氏の見解

さらに極論で、キブリ探索そのものが不要だと主張する施術師の一人、ムリンジ氏との短い会話を挙げておきたい。まったくためらい無しで、キブリは搗き臼を介して瓢箪の中に呼び込むことができると言う。ここまでためらいが無いと、議論も単純である。

5460 (途中から録音開始。瓢箪の中にキブリが呼び込まれると瓢箪のなかでキラキラ光るのでわかるという。キブリが来ていないと中は真っ暗でなにも見えないのだがと。)

Benyawa Murinzi(BM): お前さんには星が見えるだけ。瓢箪のなかでキラキラと光る。その人(のキブリ)がやって来たんだ。 Hamamoto(H): へえぇ!洞窟であれ、川であれ、どこであれ行く必要はないんですね。 Woman1: そこに採りに行くって、何を採ってくるんだい?葉っぱよ! BM: 搗き臼のところで、つむじ風が旋回しているのが見えるだろうよ。 H: 搗き臼のところでですか? BM: お前さんには、搗き臼のところでつむじ風が回っているのがみえるんだ。パ、パ、パ、パ、パって。さあ、(キブリが)到着した、さあ、お前さんは何を求めてあちら(ムズカや水場)に行くというんだい?その人を持ち上げて(その人のキブリが入った瓢箪を持ち上げて)、行くのもその人と一緒、そしてその人と一緒に帰ってくるだけ。その人はとうの昔にやって来ているんだよ。かつては施術師たちの結社があって、彼らは目撃されると彼らの瓢箪の(中身を)舐めていたもんだよ132。でももしお前さんがそこに来るのに慣れてしまえば、彼らがお前さんを困らせることはない。お前さんは目隠し囲いの中に腰を下ろす。すぐに(瓢箪の中に)病人(のキブリ)を取り込(kumuhega135)んでくれる。さあ、私たちは会話でも楽しむさ。瓢箪子供たちはそこにある。さて、私は道の分かれ目8箇所(の土)と2箇所のムズカ((muzuka14)のマフフト(mafufuto118))を採ってきて、ここに置いておこう。そして(キティティ(chititi137)をジャラジャラ。ちょうど占い(mburuga138)を打つみたいにね。さて、会話でも楽しみましょうか。私は彼に、「ほら、行ってあなたの病人(のキブリ)が到着したかどうか見ておいで」と言う。「行きましたが。ああ、マディワさん、何なんですか?」私は彼に言う。「ちょっと前にお前さんがその瓢箪を見たとき、そんな具合だったかい?」「いいえ、いいえ。」「今はどう?」「瓢箪の中が明るくなってます。まるで(黒い)薬が入ってないみたいに。」「さあ、(キブリを病人に)戻してやりに参りましょう。彼が治るように。」 H: つまり、キブリはそんなふうに取り込む(kuhegerwa139)ことができるんですね。 BM: こんなふうにね。どんなキブリでも、全部。ライカの(に奪われた)キブリであれ、薬(muhaso17)による(薬を用いて妖術使いが奪った)キブリであれ、どんなキブリも捕まえられるさ(vinahegbwa140)。

5461

Hamamoto(H): とすると、洞窟や川に行く必要はないんですね。なんと! Murinzi(BM): そこへはね、そうするのが楽しいの(raha)なら行けばいい。でも仕事はここ、瓢箪子供のところで済むんだよ。 H: ここ、搗き臼のところでね、それと瓢箪でね。つまり、キブリは自分でやってくるんですか? Man1: 自分でやってくるんだよ。 BM: それ自身で翻いて141、そうすると到着だよ。 H: すごく遠方にとりに行かねばならないキブリでさえ? Man1: そうとも、自分からやってくるんだよ。 BM: 海岸部の(に連れて行かれたキブリ)も、到着する。ゾンボ山のも、到着する。そちらから引っ張られて、ここにやってくる。 H: キブリが到着したのがどうやってわかるのですか? Man1: 施術師たちの秘密の知識さ。マジネ(majine15)の施術師は、モンバサにいるお前さん(のキブリ)をここに呼び出すことができるじゃないかい。お前にマジネを送りつけることもできるし。 Man2: 施術師たちは、いい奴らじゃないよ。 H: どうして? Man2: 人(のキブリ)を切る奴は、施術師というより、妖術使いだよ。でも良い施術師は、人を治療して治す人さ。妖術使いは死んだら、火の場所に行く。でも治療ができるお前さんは、火の場所には行かないよ。 (以下はBMに治療を依頼しにやって来た人に名前とクラン所属を尋ねるやりとり) BM: あなたの名前はなんというのですか?あなた、私にそちらに来て欲しいとおっしゃってますね。 Man2: 私はムァゴンベ・ワ・ニャマウィと申します。 BM: どちらの父系氏族の方ですか? Man2: ムァヤワ氏族です。 BM: へえ、あなたがた私をとってるんですね(私の氏族のメンバーにつける名前と同じ名前を付けているんですね143)。

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ここで述べられている見解は、私が聞いた中では最も極端な立場である。キブリ探索取り戻しのマイロ(mairo112)という、一般の人々にとってはクズザを最も特徴づける行為を、まったく意味のない行為として却下している。葉っぱをもって帰ってくるだけだ(発言はムリンジの奥さんだが)とか、そうするのが楽しければやればいい、とか。そして搗き臼と瓢箪子供だけの彼の手法は、雑談の合間にでもできてしまうくらい簡単で、しかも憑依霊に奪われたキブリだけではなく、妖術使いによって奪われたものもこれで取り戻せるとまで豪語。もしかして、妖術系の施術師なのかと思ってしまうほどだ。キブリを取り戻す作業に「罠でとらえる、罠に掛ける」を意味する動詞ク・ヘガ(kuhega135)を多用するところなども。クズザのなかに見られる二極の、こちらに振り切ってしまうと、もはやほとんど妖術系の施術に近いものになってしまう。しかし、ムリンジ氏に限らず、ムニャジさんの語りにもあったように、マイロ抜きのクズザをする施術師も、思ったほど少数派というわけではないのかもしれない。

何を取り戻すのか、何が戻ってくるのか(やって来るのか)については、「キブリ(chi あるいはchivuri)」と明示されている箇所と、「その人(mu あるいはmutuo)」と病人そのものを指している箇所とがある。施術師ムニャジの場合と同じく、「人」とその「キブリ」が等価にとらえられていることがわかる。それ以外には曖昧さの介在する余地はない。ここでは搗き臼は、もっぱらキブリを回収する装置として語られている。

施術師ムァインジ氏の見解

ムァインジとアンザジの夫婦は温厚な施術師夫婦だ。施術には真剣に取り組み、手抜きはない。奇抜な趣向は凝らさず、必要とされる行為を真面目にとりおこなう。もちろんキブリ探索のマイロも省略したりしない。一度など、予定が押してクズザの開始が日没時になってしまった。暗闇にブッシュを走り回るのは許してほしいと思って、私は体調を口実にマイロには同行しなかったが、ムァインジ氏は暗闇のなか1時間近くをかけて遠方の川の深みまで往復してきた。

7733 (クズザにおける搗き臼について)

Hamamoto(H): クズザの際に、皆さん、搗き臼を据えますよね。別の施術師が搗き臼のところに木の棒(複数)を立てて、それに布切れをくくりつけるのを見たことがあります。それらの役目はなんでしょうか? Mwainzi(Mw): ええ、私たちはその池(ziyani32)のところに、それらの布切れを置きます。つまり、あれらの憑依霊(p'ep'o144)をさらに一層引き寄せるのです。それらを置く日もあれば、置かない日もあるのですがね。 H: 憑依霊(nyama)を引き寄せるための罠みたいなものでしょうか? Mw: ええ、罠みたいなものですね。つまり、こちらに木の棒一本、またこちらにも木の棒一本。木はムコネ(mukone149)という木です。さてあちらの棒に布切れ3枚を結びつけます。こちらには揚げます。さあこれでそれらはひらひら翻きます。
罠(?)付き搗き臼(例) kuzuza Oct.28, 1989 施術師はMulongo wa Mwadzomboさん
Murina(Mu): つまり旗ですか? Mw: つまり旗です。 H: あなたは憑依霊を搗き臼のところに引き寄せるのですか、それともキブリを引き寄せるのですか? Mw: ええ、その病人の(nguvu150)をです。そう、風がこんなふうに吹く。さあ、あなたは支度をして、いよいよクズザに出発するのです。 H: なるほど、それがその罠の役割なんですね。

7734 (クズザで水場で何をするのか)

Mwainzi(Mw): 大事なことです。でも、行って、病人のキブリに会う、それが川にいるのを見るのだ、とは言いませんよ。とんでもない。それなら、むしろこの瓢箪にでしょう。あなたはそこにピカッと光るものを見ることができます。 Hamamoto(H): 瓢箪の内側にですね。 Mw: そうです。でもあちらには、体力(nguvu)を採ってくるために行くのです。ムズカにもあなたは体力を採りに行きます。 Murina(Mu): 水場にも、同じように体力を採りに行くんだよ。 Mw: そう水場にも同じように体力を採りに行きます。でも大事なことは、瓢箪子供のところにあります。ムァンザさんという施術師が、一昨日の前の日に開かれたカヤンバで、一人のライカを扱いました。あなたももしお出でになっていたなら、彼がどんなふうに施術するかをご覧になれたでしょうね。というのも、病人はそこで戻されたのですが、すっかり別のやり方でなのです。あなたはムズカにも行かない。あなたはムズカにも行かない。それどころか、その場で(病人の住んでいる敷地に据えられた搗き臼のところで)、(灰で)団子をこねて、それが済んだら、サトウキビを置いてやり、あらゆる(ムズカや水場に持って行って供える)もの113をそこに置いてしまうのです。 H: (そこに据えられた)搗き臼のところにですか? Mw: そうです。その搗き臼の場所にです。さて、病人は小屋の中に横たえられています。さて、その場でクズザしてしまい、その病人に戻してしまうのです。 Mu: なんていうライカだったんだい? Mw: ライカ・ズズ(laika zuzu151)ですよ。

7735

Hamamoto(H): つまりキブリはその場に呼ばれるのですか。 Mwainzi(Mw): はいその場にです。その搗き臼のところにです。そこにあなたの瓢箪子供たちを仕掛けて(uhege anao phapho)おきます。そして瓢箪子供を見ながら、あなたはシコクビエ(wimbi)を撒きます。もしシコクビエをお持ちなら、撒きます。トウモロコシの粒も撒きます。その場にです。それで大事なことはなされたわけです。 H: 川に行く必要はないのですか? Mw: いいえ、彼は川ではクズザしないんです、彼は。病人は屋敷内でクズザされるんです。 H: 少し安上がりですね、だって... Mw: いや、(資金集めに)奮闘するのは同様ですね。だって鶏(複数)が屠られますからね。十分な資金がないと。中途半端だと、人を病気のまま放置することになります。呼ばれても、ただ(病人を)眺めていることしかできません。 H: たしかに、たしかに。それにしても、施術師ごとにクズザの仕方もいろいろですね。 Mw: そう。別の施術師など、クズザに行くのに白い布を(何枚か)握っているのを見ましたよ。 H: 白い布地(複数)ですか? Mw: まるで旗みたいにこんな風に握ってるんですよ。 Murina(Mu): 鏡を使ってやる施術師についてはどうだい? Mw: ああ、鏡を使ってやる人は、私はまだ見たことがないです。 Mu: 癒やしの術は、多様だよね、あんた。

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施術の合間の短い時間でのインタビューだったにもかかわらず、施術の手順の細部についての説明を得意とするムァインジ氏の面目躍如である。キブリ探索のマイロをせずに、クズザをやる施術師について見知ってはいても、だからマイロは不要だという結論にはならない。ただ、施術の多様性を認めるのみである。結構、細部まで観察していることがわかる。

搗き臼にムコネの木の枝を立てて、それに赤白黒の三片の布切れを結びつける施術は、彼も折に触れては行っているらしく、その目的を「憑依霊を引き寄せること」だと明言している点である。私がそれを罠のようなものかと聞くと、そうだと答えるが、クズザを屋敷内で済ませる施術師の施術について解説する際には「瓢箪子供を仕掛けておく(uhege anao phapho)」と語っている。

彼の説明で注目すべき点は、マイロで水場に行く目的を、病人の「体力(nguvu150)」を取り戻しに行くことだとしている点である。念を入れて確認すべきだったのだが、彼は水場で病人のキブリが見えるわけではないと語っている。それは瓢箪のなかの煌めきとしてしか見えない。居合わせたムリナ氏も、当然のように、川にも「体力(nguvu)」を採りに行くのだと述べている。キブリと「体力(nguvu)」は、一応別物だということだろうか。キブリは搗き臼で取り戻すことができるが、「体力」は水場に赴かなければ取り戻せない何かということか。(もっとも彼の妻アンザジさんは、別の短いインタビュー(雑談)の中では「体力」とキブリをほぼ互換的に使用している。アンザジさんは、占いでは感受性の鋭さを見せるが、理論的に詰めるタイプではなさそう。)

実は、ムコネの木の枝に三色の布切れを結びつけて設置される搗き臼は、クズザの場合に限らず、単にライカやシェラに取り憑かれて病気になった者の治療として処方される、「鍋(nyungu30)」や「煎じる草木(mihi ya kujita152)」と合わせて、朝晩浴びる薬液(vuo33)を入れておく「池(ziya32)」としても用いられており、そこではムコネと布切れの役割は「憑依霊を招待する(呼ぶ)(kpwiha nyama)」ことだと言われている。こうした治療ではキブリは治療の対象とはされていない。

ムコネの木の枝を装着した搗き臼は、キブリ捕獲の罠というよりも、憑依霊本体(ライカ・シェラ)を単に呼び寄せるための装置なのかもしれない。
ライカによる病気の治療のための「池(ziya ra koga)」。施術師はChizi wa Gorofaさん。1989/11/04フィールド・ノートからのスキャンなので落書きみたいでごめん。

施術師チャリさんの見解

6459

Chari(C): そこに行く? Hamamoto(H): はい。 C: クズザするためにね?さて、クズザするなら、あれ(瓢箪子供)こそ、あなたが見ているべきものよ。あなたはそこに人(患者)のキブリが見えるのよ。 H: その瓢箪の中にですか? C: そう。さてあなたは行きながら、行っては(瓢箪のなかの)キブリを確認するの。進んではそれを確認。その場所に到着するまでね。あなたは行くことができます。そこに着くと...もしかしたら、その人(患者のキブリ)はそれまでそこにいたんだけど、そこを立ち去ってしまったって場合もある。そうすると、あなたが瓢箪の中をこうして覗いても、その人はもういない。そこを立ち去っちゃったってわかるのよ。 H: へえぇ。 C: うん。あなたが通り過ぎちゃったって場合も。通り過ぎ(たことに気づい)て、目的地に向かうんだけど、そこに着くと、またその人はいない。その人はそこから出されちゃった。となると、もしかしたらあなた、そこでその人を、もう一度連れなおさないと。 H: ううむ。 C: そうなのよ。 H: つまり、その人のキブリを再び探し直す? C: うん。さて、あなたは手に入れたとします。それが済むと、さあ、あなたはその場所の泥を採って、少量を瓢箪のなかに入れます。

6460

Hamamoto(H): うむ。泥を瓢箪の中に入れる。 Chari(C): そう。風(p'eho85)を患者に戻してあげるための泥よ。そこでさて、あなたは手に入れて、水から出てきます。出るとすぐに、(瓢箪に)もう栓をしてしまいます。 H: その瓢箪に? C: そうよ。栓をはずしちゃだめよ。屋敷に戻って、患者に風を戻してあげるときに栓を抜くまではね。 H: おお。 C: そう。というのはね、もし川から出てから家に戻るまで、それを明けたままにして運んだとしたら、その人はあっちに戻ってしまうのよ。 H: その人のキブリがですか? C: その人のキブリが、よ。あっちに戻ってしまうの。 H: ふうむ。 C: でも、この辺りでは、どうしてだかわからないけど、みんな「瓢箪に栓をして」ってわざわざ言わないとしないのよ。 H: 水の中で? C: そう。この辺りの人たちは「その瓢箪に栓をしないと」って言われないとね。 H: みんな栓をしない? C: 全然よ。 Murina(Mu): おまけに瓢箪を別々にもったりしてね。 C: ほんと、別々に握ってるの。

6461

Hamamoto(H): さて、屋敷に戻ると、あなたは病人が地面に寝ているのを見ますね。 Chari(C): 寝ている、そう、横たえられている。 H: 私はあなたがこんなふうにするのを、あなたの瓢箪をもって患者に吹き付けているのを見ます。 C: そうよ。そんな風に吹きつけるのが、その人にキブリを戻すことなの。真剣にやらないとね。だって必死にやらなければ、戻りそこねて、その人が死んでしまうのよ。 H: おおっ。 C: そうなのよ。さて、あなたが屋敷に到着して、次にこの蜂蜜の瓢箪を、その人に舐めさせます。 H: ほう。 C: その人に舐めさせます。その人がまだ眠りからさめたばかりのときには、こんな風に歯をイイイと食いしばってます。あなたはその人に舐めさせるのよ。 H: なるほど。 C: さて、それが終わったら、さあ、あなたは唱えごとをします(unaruma153)。あなたはすべての関節ごとにその人に唱えごとをします。瓢箪を(その関節のところに)もって行って、それが帰ってくるように唱えるのよ。もしライカであれば、「今、ライカよ、私は告げます。私はライカをお戻ししますと。」って。さて、こんな風にあなたは奮闘するのよ。そいつを戻そうとね。さあ、そうすれば、あなたは病人が突然踊り出すのを見ることになります。それは脚から始まるのよ。もしライカが帰ってくればね。片足が始めにトゥクッ(ピクリッ)となります。そうよ、私は実際によく観察しているのよ。片足が痙攣するのが見える。トゥクッ、トゥクッて、最後は跳ねるのよ。ああ、たしかにライカは戻ってきた。今や、こちら側も、カ、カ、カ、カッって震えているのがわかるわ。 Murina(Mu): そいつは同意したんだよ。そいつは(足の)指から戻り始めるんだ。 C: この小指から戻り始めるのよ。

6462

Hamamoto(H): えーと。クズザというのは病人にライカを注ぎ込むことなんですか? Chari(C): クズザが?(病人を)クズザするというのは、その人に風(p'eho)を返してあげることよ。その人はライカに連れて行かれたわけ。だからあなたはその人にその人の風を返してあげる、その人に体力(nguvu)を戻してあげるのよ。 H: おお。ライカをその人につぎ込むことではないと。 C: 違う、違う。その人の体力を戻してあげるのよ。 H: おお。 C: そう。さて、(ライカが)その人を食べる問題は、そいつにあれらの品々(miyo157)を食べさせた。そしてさあ、あなたはその人を戻してあげるのよ、今。 H: では(瓢箪で息を)吹きつけるのは? C: あの息をプゥーッて吹きつけるのは、そんなふうにして自分を守ることの一環よ。だって(病人は)冷たくなっているんだもの。見ると、すっかり血を飲まれてしまっている。そこで後は、そいつライカを追い払ってしまえばいいの。でもそいつは自分の欲しいものはとうに食べてるので、あとは意地でもそいつを取り除くだけよ。というわけで、あなたはその人(のキブリ)を身体に戻してあげるの。(身体の)そこ、ここを冷ましてあげるのね。ここ頭頂部の大泉門があったあたり(luhotsini158)、両耳の中、鼻の穴、足、ここ肋骨の脇(mbavu159)、こちら側の肋骨の脇、さあ、終わりまで。 H: あなたはあらゆる場所に(瓢箪で)息を吹きつける。 C: あらゆる場所に息を吹きかけるのよ。そして、その人に(瓢箪の中の蜂蜜を)舐めさせて、そして(全ての関節に黒い粉状の薬を)(唱えごとをしながら)擦り込む。さあ、さあ、その後は、皆さんカヤンバを打ってください。そして脚のところをよく御覧なさい。 H: うん、跳ね上がるかどうかね。

6463

Chari(C): そう、本当に(ライカが)帰ってくるのだろうか、あなたはその脚をチェックするのよ。こんなふうに震えて震えて、その脚が跳ね上がるのを見たら、さあ希望があるわね。だって見ると、この心臟が、ドゥドゥ、ドゥドゥ、ドゥドゥって。見ると、突然息遣いが速くなる。さあ、ああ頭でも始まります。ああ、もう踊るしか。さて、病人が踊れば、つかんでその人を立ち上がらせます。でもそうならずに、まだ踊っていないなら、あなたはその人をつかんで、その人を座らせます。ライカは戻ってこなかった。それはちょっと厄介な事態です。 Hamamoto(H): おお。なんと、そんなに色々なことがそこにあったとは。私は知らなかったです。だって、ただ見ていただけでしたから。 C: その人の体力(nguvuze)をその人に戻そうとしていたのよ。だって、あなたは持って行かれたのよ。ライカ、そいつがそれらのあなたの体力を持って行った。そうなると、あなたは朝になると、ホーフィ、ため息よ。今くらいの時間(午後5時前頃)には、陽の当たるところにいる(寒気を感じるので)。歩いていくといっても、全く力が出ない。そう、ライカのせいなのよ。 H: ふうむ。 C: クズザしてもらったら、さあ、あなたはもう完全にあなたの体力(nguvu)を戻されるわ。(施術師が)あちらの水場でその人を連れて来る場合で言うと、さあさて、その人の体力だけど、(施術師は)そこらの泥、そこらの塵芥を採って、(屋敷へ戻ると)それらを薬液(mavuoni33)のなかに入れます。こちらでは、それからあなたはこんなふうに何度も振るわれて(unaphetwa phetwa160)、これでその病人は体力を戻してもらえるの。あの瓢箪も、病人に舐めてもらわないとね。あなた、大変な仕事でしょ。耕すべき区画を割り当てられたら、ちゃんと終わらせないとね。もし終わらせられなければ!!ってわけ。 H: ふむふむ。ということは川や水場まで行くことは、必須なんですね? C: そうよ、そうよ、必須よ。

6464

Hamamoto(H): でも施術師のなかにはニャマウィさんのように屋敷内でクズザする者もいます。 Chari(C): (笑いながら) ああ、ニャマウィさん、あの人は臆病者だったのよ。水場に行って怖いことがあったのよ。 H: いったい何に? C: だって大きなヘビがなかにいたんだって。クズザに行ったところに。 Murina(Mu): なんでも、彼の言うことには、行ってみたら、頭の8つあるヘビを見たんだとか。 C: ええ、彼ったら、彼ったら「人はいまだかつて、うゎあ!蛇がいるぞ。人はいまだかつてマクンバ(makumba55)と遭遇したことなどない。あんたがた、冗談じゃないぞ。人がマクンバと遭遇する日があるなんて!」 H: ニャマウィさんが。 C: そうよ。デナ(dena56)のことじゃないの?そこで、ご老人(ニャマウィ氏のこと)を私が拾いに行ったのよ。彼は、そこで、ほんとにほんとにほんとに仕事に精魂尽きてしまったの。 H: そんなわけでニャマウィさんは、以来、搗き臼と自分の瓢箪だけでクズザしていると? C: それだけでね。 H: ところでその搗き臼ですけど、クズザでは何の役にたっているんですか? C: その搗き臼は、大きなキザ(chiza31)って呼ばれているのよ。8つの池のね。つまり大きなキザなの。 H: 8つの池の? C: そう。それは大きな応急治療(hamehame bomu161)とも呼ばれてます。ライカをもっている(ライカにとり憑かれている)人がいて、でも、(占いの指示で)行ってンガタ(ngata26)を結んであげなさい、その人のためにキザを設置してあげなさいって言われたらね、「承知しました」ってわけ。そのキザが大きなキザというのよ。それがあの池(ziya)ね。

6465

Hamamoto(H): さらにクズザでも、同じようにその池を設置しないといけないのですね? Chari(C): そう。搗き臼を設置しないといけません。というのも、あの搗き臼は。この洗面器は(薬液入れのキザとしてよく使われるけど)プラスチックでしょ。あの搗き臼こそ正式なのよ。ここに瓢箪を置くの。搗き臼のお尻(地面に接地するところ)に瓢箪を置かないとね。さて搗き臼のなかにあの水(薬液)を。キブリが、その搗き臼の(にやってきた)キブリが、ここの瓢箪に戻ってくるのよ。 H: なるほど。 C: あなたは搗き臼のなかをチェックして、その後、瓢箪のなかをチェックするのよ。 H: 川に行く前ですよね。 C: まだ川に行く前よ。その時間が来ないとね。だって出発する時間も、与えてもらわないといけないのよ。自分で出発しちゃうんじゃないのよ。蝿追いハタキを握って、それっ、行くぞ、みたいに。とんでもない。その(出発の)時間も与えてもらわないと。 H: ああ、なるほど。キブリが搗き臼にやって来ないと? C: そう。その人が搗き臼にやって来て、搗き臼を出て、瓢箪の中に来ないと。 H: そのときに、あなたはあなたの瓢箪をとって、クズザに出発する。 C: クズザに行きなさいって。 H: なるほど!

6466

Hamamoto(H): とすると、あらゆるものがまるで(キブリを)捕まえるための罠(muhambo)みたい... Murina(Mu): いや、あれ(瓢箪)はコピー(picha165)なんだよ、あれは。覗き眼鏡(darubini166)。そうあの瓢箪は覗き眼鏡なんだよ。 Chari(C): うう。ああ、ねえ、近隣のペサ(近所の憑依霊の施術師の一人)さんの所、彼女、なぜか、風みたいな音をたててるわね。 Mu: それも施術師の覗き眼鏡だよ。 C: ペサさん、彼女の瓢箪ね、フォーブォー Mu: そのフォー、ハゥーそれね。 C: でも彼女、彼女の病人(のキブリ)を捕らえそこなったのよね。 H: ところで、さて、搗き臼のところについてなんですが、施術師のなかには搗き臼の上に罠を仕掛ける人もいますよね。ムコネの木なんだか、何の木かは私は知らないんですが。つまりまるで罠みたいな。搗き臼の上です。その施術師たちは、それに白い布切れ、赤い布切れ、黒い布切れを結び付けています。 C: 私は、そうした罠のことについては、説明することはできないわ。知識の限界までが、私が知っている場所でしょ。ねえ、私はお父さん(ライカとシェラに関するチャリの施術上の父)が罠を仕掛けたのをみたことがないわ。あなたムァインジさんが罠を仕掛けたのを見たことある? H: いえ、いえ。 C: そういうことなのよ。それは全然別の話ね。 H: でも実際に罠を仕掛けている施術師はいますよね。搗き臼に。 C: ええ、罠を仕掛ける者もいるわね。

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施術師チャリさんの見解は、先のムリンジ氏とは正反対の極の立場である。彼女によるとマイロで川や池(その他ムズカ(muzuka14)やバオバブのような大木)のところに行くことは「必須(lazima)」である。そしてキブリを罠で捕まえることについては、それを行っている施術師がいることは知っているが、それについては自分は一切知らないという立場である。しかし彼女のクズザの手続きについての知識と理論は、他の施術師には見られないほど詳細で多岐にわたっている。

まず、マイロに出発する前に、病人とついで施術師にそれぞれカヤンバを打って憑依状態にするという点は、上の書き起こしのなかでは言及されていないが、ほとんどの他の施術師同様である。患者については数曲でごく簡単に終わらせる場合もある。患者が多くの霊を持っている場合は、やや長引く。患者の憑依霊たちにカヤンバについて知らせ、主要な者たちに踊ってもらうのが目的と説明する施術師もいる。患者がライカをもっていることはほぼ確実なので、まず患者のライカを呼ぶという説明をする施術師もいる。

施術師に対するカヤンバは、よりその目的がはっきりしている。施術師はクズザの探索の目的となる憑依霊、ライカやシェラに憑依される必要がある。ライカやシェラの草木の薬液が入った搗き臼が設置されており、周りにカンエンガヤツリをあしらったり、彩色を施したりしてライカたちが好む「池(ziya)」に仕立ててある。それはライカやシェラを引き寄せる。そして患者の連れて行かれてしまったキブリがそこに帰ってくる。憑依霊を招き寄せることが、キブリがやって来ることとどう関係しているのかはチャリも明言していない。ムァインジ氏は、憑依霊を引き寄せるのだと言いつつ、その直後には、憑依霊を引き寄せるのか、キブリを引き寄せるのかという問いに、病人の「体力(nguvu)」を引き寄せるのだと答えていた。ムニャジはまるでキブリはライカが運んで返しに来るかのような説明もおこなっている。

チャリは搗き臼にあえてムコネの木の枝による「罠」めいたものは設置しない。逆に、キブリが自分(?)からやってくるのをじっと待つことになる。事例でも紹介するように、チャリのクズザはマイロに出発するまでに、場合によっては数時間かかることがある。チャリはときおり搗き臼を覗き込んでキブリが着いているかどうかを確認する。キラキラ光るのでわかるのだという。そしてやって来たキブリは搗き臼の前に置いてある瓢箪の中に入る。瓢箪も頻繁に覗いてキブリがすでに入ったかどうかをチェックする。キブリが入るとキラッと光るのだという。それを確認して、マイロに走り出す。

すでに述べたように、クズザにおけるキブリを呼び寄せる搗き臼と、その後の憑依霊たちの棲み処への探索行の二本立ての意味が、私には謎だった。搗き臼ですでにキブリが戻っているのであれば、わざわざ憑依霊の棲み処に行って取り戻す必要はない。ムリナとチャリの夫妻は、この問題を不思議な形で解決している。その中でキブリが煌めく瓢箪は、ムリナ氏の言い方を借りると覗き眼鏡であり、それをその都度チェックしつつ患者(のキブリ)が連れ去られた憑依霊の棲み処に導かれるのだ。ムリナ氏は瓢箪のなかのキブリは「コピー(picha)」だとすら言っている。つまり本体の在り処へ導くための「像」ということか。でもキブリって、そもそも鏡とかに映る「像」だったよな。うむ、よくわからない。 瓢箪のなかで完全に見えなくなってしまったら、もう一度その場所でキブリを取り戻さないとならないとチャリは言う。どうやって?と聞きそこねてしまった。とにかくもう一度瓢箪の中にキラキラ光るものを出現させねばならないのだろう。そして水底の泥を少し瓢箪に加えて、大急ぎで栓をして、大急ぎで帰宅することになる。

なお憑依霊の棲み処で、持参した鶏の一つが屠られ水に(あるいは洞窟に)投げ込まれ、用意されたその他の品々(viryangona113)も撒かれるのだが、おそらくそこは私もよく知っている自明の作業だということなのだろうか、どの施術師たちもあえて説明では明言していない。

このキブリ探索については、チャリたちも他の施術師の多くと同様に、その「人物」「人」を連れてくるのだという言い方で語る。それはキブリの言い換えだと理解しているのだが、そこから実際に何を持ち帰るのかというと、チャリもムァインジ同様に、その人の「体力(nguvu)」を持ち帰るのだと語っている(ムニャジは「体力」という言葉は一度も使用していない)。具体的にはそれは水場から持ち帰る睡蓮その他の草木、水底の泥であり、ムズカやバオバブの木の場合は洞窟の中の塵芥や落ち葉である。

ベニィロ老人のような一般人にはこれらの泥や草木は「キブリがそこにおるんじゃ」ということになるが、施術師たちは、あきらかにそれらはキブリそのものとは区別しているようである。

さて、これらを持ち帰ったあとの処置については、ムニャジもキブリを吹き込む順序など詳しく述べているが、やはりチャリの解説が最も詳しい。今、改めて日本語訳するために熟読すると、当時は気が付かなかった多くの興味深い記述がみられる。

チャリの説明は順序がいろいろ前後するが、彼女の実際のクズザの観察と合わせて時間順に整理するとこんな感じになる。水場でのあれこれを終えて、屋敷に戻ると、病人は小屋のなかで茣蓙の上に仰向けに横たわっている。最初に行う作業は、キブリを患者に戻す(チャリは「その人を身体に戻してあげる」と表現している)ことである。ムニャジが詳しく順序を教えてくれたように、瓢箪の栓をとって瓢箪の口に施術師は自分の口を当てて、患者の身体の各部に強く息を吹きかける。

続いてムルングの紺色の布を助手と二人で、横たわっている患者の上方60cm~70cmほどのところに(測定したわけじゃないので目分量だが)広げ、水場で採ってきた泥や睡蓮などの草木、ムズカの塵芥などをその上に空け、布を前後に揺らしながら、同じく水場で採ってきた泥などを加えた薬液と大量の水を上から注ぎ、患者に振り撒く。チャリは述べていないが、さらに患者を座らせて、同じくムルングの布経由で薬液と水をザバザバ患者に掛ける。これが患者の「体力」を戻す作業である。

この瓢箪の吹きつけと大量の泥水薬液浴びで、患者から患者の血を飲んで体力を奪っていたライカを追い払ってしまい、患者の身体に体力を戻すことになるとチャリは説明している。ライカは、マイロの際にその棲み処で鶏やその他の食べ物をあたえられたので、患者をもう「食べない」ことに同意しているはずなのだ。

この場面をライカの追い払いとする説明は、チャリ以外からは聞いたことがない。私が尋ねなかったからかもしれないが。

次に施術師は、今や茣蓙の上に脚を投げ出して座っている患者に、瓢箪のなかの蜂蜜(瓢箪子供の「血」とされるが、それにはライカなどの草木を炒って作った黒い薬や香料が含まれている)を舐めさせる。そして続いて瓢箪のなかの薬を身体のすべての関節部に擦り込みながらライカに戻ってくるよう唱えごとをする。この説明を聞きながら、私はかなり混乱した。ライカに奪われたキブリを戻す施術なのに、ライカに戻ってくるように訴えるのはどういうことだろう。上に述べたように、患者に「体力」を戻す作業では、患者がもっているライカは追い払われる。しかし患者に体力が戻った今、再び患者の身体に、正常な形でライカを戻してやるのだ。カヤンバが演奏される中、患者の脚の小指からライカは患者の身体にもどってくる。それを見届け、ライカに心ゆくまで踊らせることが、施術師の最後の仕事になる。

施術師ムニャジも、少し意味合いが違うが、最後に患者が踊るべきだと語っていた。キブリを持ち帰るのに成功していたら、キブリを戻している過程で病人は早くも踊り始める。もし踊らなければクズザは失敗だというのである。まるでキブリが憑依霊であるかのようだが、演奏されているのはライカの歌だから、それで踊るとすれば、踊っているのは憑依霊ライカのはずだ。しらんけど。

しかし患者に悪さをしていたライカから、キブリと体力を取り返し、ライカをいったん追い出しておいて、その後で再びライカを迎え入れるというのは、どういうことなのだろう。一般人の目にはクズザは、施術師とライカとのあいだでのキブリの取り合い、施術師とライカとのキブリをめぐる格闘と見えているだけに、このチャリの説明は、一見筋が通っていないように見える。

しかし思い出そう。ドゥルマの憑依霊は、一部の子供を殺してしまう憑依霊を除いて、めったに除霊の対象にはならない。除霊は失敗すると患者の健康を永久に破壊してしまう危険な施術だと考えられている。そもそも憑依霊の施術師は除霊をしない。「身体の憑依霊は出してしまうことはできない(nyama a mwirini10 kaalaviwa.(DB 2397)」と言われるように、いったん目を付けられて(惚れられて)とり憑かれてしまうと憑依霊は一生引き剥がすことはできない。できることは、施術師の助けを借りながら、その憑依霊との間に良好な関係を維持することだけである。

チャリによる彼女がおこなうクズザについての説明からわかるのは次のことである。

  1. クズザの前には、ライカは自分がとり憑いた患者のキブリを自分の棲み処に連れて行ってしまい、さらに患者の身体に座り込んで血を飲むことによって、患者の健康を大きくそこなっている。

  2. つまり患者と、それがもっているライカとの関係性は劣悪である。

  3. クズザの作業とは、このように患者ときわめて不適切な関係にあるライカに対して、その棲み処を探し当て、そこでライカにお好みの食べ物を提供し、それと引き換えに患者のキブリと体力を取り戻す了解を取りつけることである

  4. 患者の身体に、患者のキブリと体力を戻す過程では、ライカはいったん追い出される。

  5. その作業が済むと、患者のすべての関節に薬を擦り込みつつ、ライカに戻ってくるよう訴える(カヤンバがすぐ近くで演奏されているので、唱えごとはほぼ聞こえない)。

  6. カヤンバが演奏される中、施術師は患者の様子を観察する。ライカは脚の小指から戻って来るとされる。ライカが戻ってくるとまず脚が痙攣し、跳ね上がるようになり、体全体が震え、ついにライカは頭に到着する。患者は完全に憑依状態になり踊る。それを見て、施術師は患者の手を取って立ち上がらせ、ライカは上機嫌で踊りまくることになる。

  7. ここでのチャリの説明にはないが、この後kufinya110あるいはkufungira167の瓢箪の薬でクツォザ(kutsodza75)したり、患者が母親の場合、患者やその子供たちのキブリが再び奪われることのないようにライカのンガタ(ngata26)が命名に装着されたりするかもしれない。ンガタはライカがやってきても患者の身体の上に座ってしまったり、子供にちょっかいを出したりしないようにライカに差し出す「椅子」であるとされる。

  8. つまりクズザとは、ライカと気心が通じている施術師の媒介によって、劣悪化した宿主と憑依霊との関係性を正常化し、一種の永続的な共生関係にまでもっていこうとするプロジェクトなのだと言える。

クズザは観察者の目には、雑多な要素が入り混じった、首尾一貫していない施術に見える。キブリはライカの棲み処まで獲りにいかねばならないのか、患者のいる場所に呼び戻せるのか、キブリ取り戻しにおいて施術師とライカは競合的なのか取引関係なのか、患者はキブリが戻ったので踊るのか憑依されて踊るのか、チャリはこうした不整合な要素を、上手に理論化し、首尾一貫したものとして言語化しているのかもしれない。

まとめに代えて

施術師たちは憑依霊の存在や振る舞いにある意味、精通している人たちだ。でも彼らにとっても憑依霊がそもそも何なのかについて、よくわからないことがあり、気心の知れた施術師仲間と会うと、そうした話題で盛り上がる(例えば「霊は厄介な存在 (DB 5591-5599)」「霊はどこに棲んでいるのか: クズザの際に訪れた水中洞窟のヤバさについて語り合う施術したちの会話(DB 5583-5587)」どちらもいつか翻訳したい)。憑依霊自体が、理解しがたい存在である上に、キブリという、これまたとらえどころのないものが関係してくるクズザの施術が、難問を抱えているのは当然だと言えるだろう。もちろん、学んだ施術のやり方を忠実に実行しているだけの施術師もいるが、なかにはこうした問題に理論的に取り組んでいる者も多い。

ここで紹介した4人の施術師の見解のなかにその一端を認めていただけると幸いだ。一つのエピソードを日記から紹介したい。 シェラとライカについて「外に出す」ンゴマを何度か見て、私に一つの疑問が浮かんだ。この二人の憑依霊を外に出す際には、いずれもが患者のキブリを奪うタイプの霊なのでクズザは必須の手続きになっている。キナンゴで一緒にお買い物をした後、チャリとムリナの家で一休みした際に私は二人に疑問をぶつけてみた。

(Dec.23, 1993, Thu, kpwisha の日記より)

...帰宅後kuzuzaについて、疑問点を聞く。録音はせず。laikaとsheraの2重kuzuzaのはらんでいる論理的矛盾を突いたのだが、Chariはそこには気付かない。しかしMurinaは私の質問に含まれている問題にいちはやく気付いて即座に独自の理論による解決を出して来る。MurinaがChariのugangaの理論化に果たしている役割はかなり大きいことがわかる。 私の問い: 人は複数のchivuriをもっているのか?kuzuzaにおいて、laikaのkuzuza で患者にchivuriを返したのちに、再びsheraのkuzuzaに出発しまたchivuriを取り戻している。最初のkuzuzaで、すでにchivuriは戻ってきているのでは? この私の問いに対してMurinaは chivuriそのものは、人の中にとどまっている。laikaやsheraが奪うのはchivuri そのものではなく、そのnguvuだ。 これで確かにlaikaとsheraの二重kuzuzaの矛盾は解決する。が、一般にlaikaや sheraはchivuriそのものを奪うと語られているので、一般の理解からは乖離してしまう。

その一方、チャリはクズザで自分が実際に経験することに重きを置く。クズザで何が起こるかを聞かれてのチャリの語り。ガンディーニから来る施術師を私の調査小屋(ガンディーニへの街道のジャンクションの近くにあった)で待ちながら、Ngoloko君、Katana君、そして私との雑談の中で。 7940

Chari(C): そうね、私がクズザに行くとしたらね...まずね、私はクズザに行く、でも、私のやり方で行くのよ。自分ではどこに行くのかわからない。自分ではどちらの方面へ行くのかもわからない。あのライカたちと、例のあいつ(おそらく世界導師のことと思われる)が一緒に混じり合うと、あなたはあなたの頭の中のものがわからなくなるのよ。あなたは行った先で妖術を掛けられたみたいになるかも知れない。でも薬(妖術をかけるための)はそこにはないの。それでいて、あなたに病気を注ぎ込むのよ。 Katana(K): えー、本当? C: そう本当よ! K: もしかしたら妖術じゃないんじゃ? C: あなた、ここを立ち去ることができます。だってクズザに行くんじゃないの?すると行く先に人がいるの。何か物で通せんぼしてるの。そしてあなたはそこで言われます。「お行きなさい。どこそこの場所に着いたら、しかじかの分かれ道に出たら、しかじかの道は進んではならない。これこれの道を進みなさい。」そしてあなたがそこに着いたら、あなたは確かに(災難を)回避したのよ。 K: ええ、あなたは回避した。 C: でも、(ムズカに)行って、「入らせてください(hodi168)、入らせてください」って言うじゃない?で、頭のなかには憑依霊はいない。なのにそのまま進んでいく人がいる。「人はムズカに行くものだよ」って。本当に帰ってこれないから。そうなのよ!あなたに教えてくれる人がいなかったら、ね!癒やしの術って、不思議なものなのよ、あなた。 K: さて、ええ、あなたに教えてくれる者がいて、あなたに示してくれる... C: この先には、これこれのことがあるよって。

7941

Katana(K): はい、はい。「この中にはしかじかの人がいる。普通の人か、あるいは普通じゃない人(妖術使い)か。」 Chari(C): あなたにはわからない。 K: あなたには教えてくれる人がいない。さて、あなたは(マイロを終えて)屋敷に戻ります... C: あなたは屋敷に戻ります。でも身体には風が入り込んでるの。油断してたら(字義通りには「ちょっといい加減なことをしたら」)、あなた、死んでしまうわ。 K: なんと、そういうことをわざとやる人間がいるものね。 C: そういう奴は、「ちょっと行って、(妖術の薬を仕掛けるなど)してこよう」ってね。ところで、私、ときどき考えちゃうことがあるのよ、あなた。ちょっと聞いてちょうだい。 ときどき私、人がクズザするのを見るわ。クズザに出向くわけ。そしてクズザの目的地に行って、また屋敷に戻ってくる。私は普通のクズザのやり方は知ってます。クズザにお行きなさい。行ってライカをたしかに手玉に取れたら、屋敷にお戻りなさい。でもカヤンバといっしょにお行きなさい、あなたの憑依霊といっしょにお行きなさい。そこからどんなふうに戻りますか?その憑依霊、もしあなたがキブリを捕獲したら、そしてまだ患者にそれを戻していないなら、途中の道筋で、あなたはどうして憑依を解かれちゃうの、あなた? K: そして、そのまま(素面の状態で)戻っていく、そして... C: そんなふうに戻って、あとで狂気を煮(ukajite k'oma169)直すのよ。 K: あなたは突然カチャカチャ(カヤンバを)打ち出す。 C: 屋敷が近づくと、そこで狂気を煮るの、そして病人にキブリを戻しに行くのよ。なによそれ。

7942

Ngoloko(Ng): つまりそうすることは許されないと.. Chari(C): あなたが病人に風を戻し終わるまでは、その憑依霊は頭の中から出ていかないの。 Katana(K): そうしてから、あなたも憑依を解かれることになる。 C: そこであなたは憑依を解かれるの。それにあなたの憑依解除にしても、しばらくは気が狂っているような状態よ。もし、あなたが本物の癒やし手であったらね、それは。 K: うーむ。 C: だけど、出発して、川で泥をとって、さてそれから、戻る。蝿追いハタキはダラリと垂れて!見たら、蝿追いハタキはずっと腰をかがめたままじゃない。屋敷に戻っていくあいだも、楽しく雑談よ。施術師が便意を催したら、弟子たちは終わるのを待ってて、本人は自分の用を足し、排便が終わったら、ほら、来たわ。

チャリは、クズザの行きも帰りも憑依状態のままで、本人も言うように自分の頭の中のものがわからなくなっているらしい。でもそこで憑依霊が、進む方向や、その先で何があるか教えてくれるので、クズザをこなせる。施術師のなかには水場での作業を終えると、後はみんなと雑談しながらのんびり屋敷まで歩いて帰る者もいる。けっこういる。チャリのクズザに同行するのは大変だ。行きも帰りもほとんど駆け足、屋敷に近づいて、ああこれで休めると思うと、何故か別のところへ直行。そんなわけで大勢で出発しても途中離脱者が多い。

ムァインジ夫妻にしても、ムニャジさんにしても、チャリのつきあう施術師たちは、クソ真面目な人たちが多い。

事例

  1. 「青い芯のトウモロコシ」の村での「嗅ぎ出し」カヤンバ初体験

最初の調査地「青い芯のトウモロコシ」村で、はじめて憑依霊によって奪われたキブリ2を探し出し、取り戻す施術が存在することを知った。カヤンバがあるということで、見に行ったところ「嗅ぎ出しのカヤンバ」だったという、いきなりの遭遇。

  1. ムランダの嗅ぎ出し治療

「ジャコウネコの池」村。ワタシ的には「嗅ぎ出しのカヤンバ」は、音楽付きのパントマイムみたいな感じで、言語資料的にはあまり魅力的ではなかったので、肝心の水場への行進をパスしたり、途中で帰ったりみたいな、気のない調査をしていた。これはなんとなく行進にもついていき、最初から最後まで見た初めての事例。

  1. チャリの「重荷下ろし」とシェラ、ディゴ人、ライカを「外に出す」ンゴマ: 屋敷での嗅ぎ出し

施術師チャリが、新たにライカ、シェラ、ディゴ人について癒やしの術を「外に出す」、つまりそれらの憑依霊に関する施術師に就任する大規模なカヤンバが開かれた。「嗅ぎ出し」、徹夜のカヤンバ、シェラに対する「重荷下ろし」を2日間かけて実施。その中で行われた「嗅ぎ出し」は、屋敷内から一歩も外に出ない、つまり水場までのキブリ探しの過程を一切含まないものだった。私が見た中でも、もっとも異色というか型破りの「嗅ぎ出し」であった。

  1. マフフの屋敷における出産祈願の瓢箪子供を差し出すカヤンバにおける嗅ぎ出し

施術師チャリが3週間前に「外に出」して施術師にしたトゥシェを助手として行った瓢箪子供を差し出すカヤンバでの「嗅ぎ出し」施術。日記部分の写真、および、フィールド・ノートにおける手順の簡単な紹介(言語データなし)

  1. ムァナコンボの嗅ぎ出し治療

  1. Kuzuza at Japhet's homestead

日記、及び、フィールドノートのみ。書き起こしテキストの翻訳なし

注釈


1 クズザ(ku-zuza)は「嗅ぐ、嗅いで探す」を意味する動詞。憑依霊の文脈では、もっぱらライカ(laika)等の憑依霊によって奪われたキブリ(chivuri2)を探し出して患者に戻す治療(uganga wa kuzuza)のことを意味する。ライカ(laika3)やシェラ(shera62)などいくつかの憑依霊は、人のキブリ(chivuri2)つまり「影」あるいは「魂」を奪って、自分の棲み処に隠してしまうとされている。キブリを奪われた人は体調不良に苦しみ、占いでそれがこうした憑依霊のせいだと判明すると、キブリを奪った霊の棲み処を探り当て、そこに行って奪われたキブリを取り戻し、身体に戻すことが必要になる。その手続が「嗅ぎ出し」である。それはキツィンバカジ、ライカやシェラをもっている施術師によって行われる。施術師を取り囲んでカヤンバを演奏し、施術師はこれらの霊に憑依された状態で、カヤンバ演奏者たちを引き連れて屋敷を出発する。ライカやシェラが患者のchivuriを奪って隠している洞穴、池や川の深みなどに向かい、鶏などを供犠し、そこにある泥や水草などを手に入れる。出発からここまでカヤンバが切れ目なく演奏され続けている。屋敷に戻り、手に入れた泥などを用いて、取り返した患者のキブリ(chivuri)を患者に戻す。その際にもカヤンバが演奏される。キブリ戻しは、屋内に仰向けに寝ている患者の50cmほど上にムルングの布を広げ、その中に手に入れた泥や水草、睡蓮の根などを入れ、大量の水を注いで患者に振りかける。その後、患者のキブリを捕まえてきた瓢箪の口を開け、患者の目、耳、口、各関節などに近づけ、口で吹き付ける動作。これでキブリは患者に戻される。その後、屋外に患者も出てカヤンバの演奏で踊る。それがすむと、屋外に患者も出てカヤンバの演奏で踊る。クズザ単独で行われる場合は、この後、患者は、再びキブリをうばわれることのないようにクツォザ(kutsodza75)を施され、ンガタ26を与えられる。やり方の細部は、施術師によってかなり異なる。
2 キヴリ(chivuri)。人間の構成要素。いわゆる日本語でいう霊魂的なものだが、その違いは大きい。chivurivuriは物理的な影や水面に写った姿などを意味するが、chivuriと無関係ではない。chivuriは妖術使いや(chivuriの妖術)、ある種の憑依霊によって奪われることがある。人は自分のchivuriが奪われたことに気が付かない。妖術使いが奪ったchivuriを切ると、その持ち主は死ぬ。憑依霊にchivuriを奪われた人は朝夕悪寒を感じたり、頭痛などに悩まされる。chivuriは夜間、人から抜け出す。抜け出したchivuriが経験することが夢になる。妖術使いによって奪われたchivuriを手遅れにならないうちに取り返す治療がある。chivuriの妖術については[浜本, 2014『信念の呪縛:ケニア海岸地方ドゥルマ社会における妖術の民族誌』九州大学出版,pp.53-58]を参照されたい。また憑依霊によって奪われたchivuriを探し出し患者に戻すku-zuza1と呼ばれる手続きもある。詳しくは別項を参照されたい。
3 ライカ(laika)、ラライカ(lalaika)とも呼ばれる。複数形はマライカ(malaika)。きわめて多くの種類がいる。多いのは「池」の住人(atu a maziyani)。キツィンバカジ(chitsimbakazi4)は、単独で重要な憑依霊であるが、池の住人ということでライカの一種とみなされる場合もある。ある施術師によると、その振舞いで三種に分れる。(1)ムズカのライカ(laika wa muzuka5) ムズカに棲み、人のキブリ(chivuri2)を奪ってそこに隠す。奪われた人は朝晩寒気と頭痛に悩まされる。 laika tunusi6など。(2)「嗅ぎ出し」のライカ(laika wa kuzuzwa) 水辺に棲み子供のキブリを奪う。またつむじ風の中にいて触れた者のキブリを奪う。朝晩の悪寒と頭痛。laika mwendo44,laika mukusi45など。(3)身体内のライカ(laika wa mwirini) 憑依された者は白目をむいてのけぞり、カヤンバの席上で地面に水を撒いて泥を食おうとする laika tophe46, laika ra nyoka46, laika chifofo49など。(4) その他 laika dondo50, laika chiwete51=laika gudu52), laika mbawa53, laika tsulu54, laika makumba55=dena56など。三種じゃなくて4つやないか。治療: 屋外のキザ(chiza cha konze31)で薬液を浴びる、護符(ngata26)、「嗅ぎ出し」施術(uganga wa kuzuza1)によるキブリ戻し。深刻なケースでは、瓢箪子供を授与されてライカの施術師になる。
4 キツィンバカジ(chitsimbakazi)。別名カツィンバカジ(katsimbakazi)。空から落とされて地上に来た憑依霊。ムルングの子供。ライカ(laika)の一種だとも言える。mulungu mubomu(大ムルング)=mulungu wa kuvyarira(他の憑依霊を産んだmulungu)に対し、キツィンバカジはmulungu mudide(小ムルング)だと言われる。男女あり。女のキツィンバカジは、背が低く、大きな乳房。laika dondoはキツィンバカジの別名だとも。「天空のキツィンバカジ(chitsimbakazi cha mbinguni)」と「池のキツィンバカジ(chitsimbakazi cha ziyani)」の二種類がいるが、滞在している場所の違いだけ。キツィンバカジに惚れられる(achikutsunuka)と、頭痛と悪寒を感じる。占いに行くとライカだと言われる。また、「お前(の頭)を破裂させ気を狂わせる anaidima kukulipusa hata ukakala undaayuka.」台所の炉石のところに行って灰まみれになり、灰を食べる。チャリによると夜中にやってきて外から挨拶する。返事をして外に出ても誰もいない。でもなにかお前に告げたいことがあってやってきている。これからしかじかのことが起こるだろうとか、朝起きてからこれこれのことをしろとか。嗅ぎ出しの施術(uganga wa kuzuza)のときにやってきてku-zuzaしてくれるのはキツィンバカジなのだという。
5 ライカ・ムズカ(laika muzuka)。ライカ・トゥヌシ(laika tunusi)の別名。またライカ・ヌフシ(laika nuhusi)、ライカ・パガオ(laika pagao)、ライカ・ムズカは同一で、3つの棲み処(池、ムズカ(洞窟)、海(baharini))を往来しており、その場所場所で異なる名前で呼ばれているのだともいう。ライカ・キフォフォ(laika chifofo)もヌフシの別名とされることもある。
6 ライカ・トゥヌシ(laika tunusi)。ヴィトゥヌシ(vitunusi)は「怒りっぽさ」。トゥヌシ(tunusi)は人々が祈願する洞窟など(muzuka)の主と考えられている。別名ライカ・ムズカ(laika muzuka)、ライカ・ヌフシ。症状: 血を飲まれ貧血になって肌が「白く」なってしまう。口がきけなくなる。(注意!): ライカ・トゥヌシ(laika tunusi)とは別に、除霊の対象となるトゥヌシ(tunusi)がおり、混同しないように注意。ニューニ(nyuni7)あるいはジネ(jine)の一種とされ、女性にとり憑いて、彼女の子供を捕らえる。子供は白目を剥き、手脚を痙攣させる。放置すれば死ぬこともあるとされている。女性自身は何も感じない。トゥヌシの除霊(ku-kokomola)は水の中で行われる(DB 2404)。
7 ニューニ(nyuni)。「キツツキ」。道を進んでいるとき、この鳥が前後左右のどちらで鳴くかによって、その旅の吉凶を占う。ここから吉凶全般をnyuniという言葉で表現する。(行く手で鳴く場合;nyuni wa kumakpwa 驚きあきれることがある、右手で鳴く場合;nyuni wa nguvu 食事には困らない、左手で鳴く場合;nyuni wa kureja 交渉が成功し幸運を手に入れる、後で鳴く場合;nyuni wa kusagala 遅延や引き止められる、nyuni が屋敷内で鳴けば来客がある徴)。またnyuniは「上の霊 nyama wa dzulu8」と総称される鳥の憑依霊、およびそれが引き起こす子供の引きつけを含む様々な病気の総称(ukongo wa nyuni)としても用いられる。(nyuniの病気には多くの種類がある。施術師によってその分類は異なるが、例えば nyuni wa joka:子供は泣いてばかり、wa nyagu(別名 mwasaga, wa chiraphai):手脚を痙攣させる、その他wa zuni、wa chilui、wa nyaa、wa kudusa、wa chidundumo、wa mwaha、wa kpwambalu、wa chifuro、wa kamasi、wa chip'ala、wa kajura、wa kabarale、wa kakpwang'aなど。これらの「上の霊」のなかには母親に憑いて、生まれてくる子供を殺してしまうものもおり、それらは危険な「除霊」(kukokomola)の対象となる。
8 ニャマ・ワ・ズル(nyama wa dzulu, pl. nyama a dzulu)。「上の動物、上の憑依霊」。ニューニ(nyuni、直訳するとキツツキ7)と総称される、主として鳥の憑依霊だが、ニューニという言葉は乳幼児や、この病気を持つ子どもの母の前で発すると、子供に発作を引き起こすとされ、忌み言葉になっている。したがってニューニという言葉の代わりに婉曲的にニャマ・ワ・ズルと言う言葉を用いるという。多くの種類がいるが、この病気は憑依霊の病気を治療する施術師とは別のカテゴリーの施術師が治療する。時間があれば別項目を立てて、詳しく紹介するかもしれない。ニャマ・ワ・ズル「上の憑依霊」のあるものは、女性に憑く場合があるが、その場合も、霊は女性をではなく彼女の子供を病気にする。病気になった子供だけでなく、その母親も治療される必要がある。しばしば女性に憑いた「上の霊」はその女性の子供を立て続けに殺してしまうことがあり、その場合は除霊(kukokomola9)の対象となる。
9 ク・ココモラ(ku-kokomola)。「除霊する」。憑依霊を2つに分けて、「身体の憑依霊 nyama wa mwirini10」と「除去の憑依霊 nyama wa kuusa1112と呼ぶ呼び方がある。ある種の憑依霊たちは、女性に憑いて彼女を不妊にしたり、生まれてくる子供をすべて殺してしまったりするものがある。こうした霊はときに除霊によって取り除く必要がある。ペポムルメ(p'ep'o mulume19)、カドゥメ(kadume35)、マウィヤ人(Mawiya36)、ドゥングマレ(dungumale39)、ジネ・ムァンガ(jine mwanga40)、トゥヌシ(tunusi41)、ツォビャ(tsovya43)、ゴジャマ(gojama38)などが代表例。しかし除霊は必ずなされるものではない。護符pinguやmapandeで危害を防ぐことも可能である。「上の霊 nyama wa dzulu8」あるいはニューニ(nyuni「キツツキ」7)と呼ばれるグループの霊は、子供にひきつけをおこさせる危険な霊だが、これは一般の憑依霊とは別個の取り扱いを受ける。これも除霊の主たる対象となる。動詞ク・シンディカ(ku-sindika「(戸などを)閉ざす、閉める、閉め出す」)、ク・ウサ(ku-usa「除去する」)、ク・シサ(ku-sisa「(客などを)送っていく、見送る、送り出す(帰り道の途中まで同行して)、殺す」)も同じ除霊を指すのに用いられる。スワヒリ語のku-chomoa(「引き抜く」「引き出す」)から来た動詞 ku-chomowa も、ドゥルマでは「除霊する」の意味で用いられる。ku-chomowaは一つの霊について用いるのに対して、ku-kokomolaは数多くの霊に対してそれらを次々取除く治療を指すと、その違いを説明する人もいる。
10 ニャマ・ワ・ムウィリニ(nyama wa mwirini, pl. nyama a mwirini)「身体の憑依霊」。除霊(kukokomola9)の対象となるニャマ・ワ・クウサ(nyama wa kuusa, pl. nyama a kuusa)「除去の憑依霊」との対照で、その他の通常の憑依霊を「身体の憑依霊」と呼ぶ分類がある。通常の憑依霊は、自分たちの要求をかなえてもらうために人に憑いて、その人を病気にする。施術師がその霊と交渉し、要求を聞き出し、それを叶えることによって病気は治る。憑依霊の要求に応じて、宿主は憑依霊のお気に入りの布を身に着けたり、徹夜の踊りの会で踊りを開いてもらう。憑依霊は宿主の身体を借りて踊り、踊りを楽しむ。こうした関係に入ると、憑依霊を宿主から切り離すことは不可能となる。これが「身体の憑依霊」である。こうした霊を除霊することは極めて危険で困難であり、事実上不可能と考えられている。
11 ニャマ・ワ・クウサ(nyama wa kuusa, pl. nyama a kuusa12)。「除去の憑依霊」。憑依霊のなかのあるものは、女性に憑いてその女性を不妊にしたり、その女性が生む子供を殺してしまったりする。その場合には女性からその憑依霊を除霊する(kukokomola9)必要がある。これはかなり危険な作業だとされている。イスラム系の霊のあるものたち(とりわけジネと呼ばれる霊たち15)は、イスラム系の妖術使いによって攻撃目的で送りこまれる場合があり、イスラム系の施術師による除霊を必要とする。妖術によって送りつけられた霊は、「妖術の霊(nyama wa utsai)」あるいは「薬の霊(nyama wa muhaso)」などの言い方で呼ばれることもある。ジネ以外のイスラム系の憑依霊(nyama wa chidzomba18)も、ときに女性を不妊にしたり、その子供を殺したりするので、その場合には除霊の対象になる。ニャマ・ワ・ズル(nyama wa dzulu, pl.nyama a dzulu8)「上の霊」あるいはニューニ(nyuni7)と呼ばれる多くは鳥の憑依霊たちは、幼児にヒキツケを引き起こしたりすることで知られており、憑依霊の施術師とは別に専門の施術師がいて、彼らの治療の対象であるが、ときには成人の女性に憑いて、彼女の生む子供を立て続けに殺してしまうので、除霊の対象になる。内陸系の霊のなかにも、女性に憑いて同様な危害を及ぼすものがあり、その場合には除霊の対象になる。こうした形で、除霊の対象にならない憑依霊たちは、自分たちの宿主との間に一生続く関係を構築する。要求がかなえられないと宿主を病気にするが、友好的な関係が維持できれば、宿主にさまざまな恩恵を与えてくれる場合もある。これらの大多数の霊は「除去の憑依霊」との対照でニャマ・ワ・ムウィリニ(nyama wa mwirini, pl. nyama a mwirini10)「身体の憑依霊」と呼ばれている。
12 クウサ(ku-usa)。「除去する、取り除く」を意味する動詞。転じて、負っている負債や義務を「返す」、儀礼や催しを「執り行う」などの意味にも用いられる。例えば祖先に対する供犠(sadaka)をおこなうことは ku-usa sadaka、婚礼(harusi)を執り行うも ku-usa harusiなどと言う。クウサ・ムズカ(muzuka)あるいはミジム(mizimu)とは、ムズカに祈願して願いがかなったら云々の物を供犠します、などと約束していた場合、成願時にその約束を果たす(ムズカに「支払いをする(ku-ripha muzuka)」ともいう)ことであったり、妖術使いがムズカに悪しき祈願を行ったために不幸に陥った者が、それを逆転させる措置(たとえば「汚れを取り戻す」13など)を行うことなどを意味する。
13 ノンゴ(nongo)。「汚れ」を意味する名詞だが、象徴的な意味ももつ。ノンゴの妖術 utsai wa nongo というと、犠牲者の持ち物の一部や毛髪などを盗んでムズカ14などに隠す行為で、それによって犠牲者は、「この世にいるようで、この世にいないような状態(dza u mumo na dza kumo)」になり、何事もうまくいかなくなる。身体的不調のみならずさまざまな企ての失敗なども引き起こす。治療のためには「ノンゴを戻す(ku-udza nongo)」必要がある。「悪いノンゴ(nongo mbii)」をもつとは、人々から人気がなくなること、何か話しても誰にも聞いてもらえないことなどで、人気があることは「良いノンゴ(nongo mbidzo)」をもっていると言われる。悪いノンゴ、良いノンゴの代わりに「悪い臭い(kungu mbii)」「良い臭い(kungu mbidzo)」と言う言い方もある。
14 ムズカ(muzuka)。特別な木の洞や、洞窟で霊の棲み処とされる場所。また、そこに棲む霊の名前。ムズカではさまざまな祈願が行われる。地域の長老たちによって降雨祈願が行われるムルングのムズカと呼ばれる場所と、さまざまな霊(とりわけイスラム系の霊)の棲み処で個人が祈願を行うムズカがある。後者は祈願をおこないそれが実現すると必ず「支払い」をせねばならない。さもないと災が自分に降りかかる。妖術使いはしばしば犠牲者の「汚れ13」をムズカに置くことによって攻撃する(「汚れを奪う」妖術)という。「汚れを戻す」治療が必要になる。
15 マジネ(majine)はジネ(jine)の複数形。イスラム系の妖術。イスラムの導師に依頼して掛けてもらうという。コーランの章句を書いた紙を空中に投げ上げるとそれが魔物jineに変化して命令通り犠牲者を襲うなどとされ、人(妖術使い)に使役される存在である。自らのイニシアティヴで人に憑依する憑依霊のジネ(jine)と、一応区別されているが、あいまい。フィンゴ(fingo16)のような屋敷や作物を妖術使いから守るために設置される埋設呪物も、供犠を怠ればジネに変化して人を襲い始めるなどと言われる。
16 フィンゴ(fingo, pl.mafingo)。私は「埋設薬」という翻訳を当てている。(1)妖術使いが、犠牲者の屋敷や畑を攻撃する目的で、地中に埋設する薬(muhaso17)。(2)妖術使いの攻撃から屋敷を守るために屋敷のどこかに埋設する薬。いずれの場合も、さまざまな物(例えば妖術の場合だと、犠牲者から奪った衣服の切れ端や毛髪など)をビンやアフリカマイマイの殻、ココヤシの実の核などに詰めて埋める。一旦埋設されたフィンゴは極めて強力で、ただ掘り出して捨てるといったことはできない。妖術使いが仕掛けたものだと、そもそもどこに埋められているかもわからない。それを探し出して引き抜く(ku-ng'ola mafingo)ことを専門にしている施術師がいる。詳しくは〔浜本満,2014,『信念の呪縛:ケニア海岸地方ドゥルマ社会における妖術の民族誌』九州大学出版会、pp.168-180〕。妖術使いが仕掛けたフィンゴだけが危険な訳では無い。屋敷を守る目的のフィンゴも同様に屋敷の人びとに危害を加えうる。フィンゴは定期的な供犠(鶏程度だが)を要求する。それを怠ると人々を襲い始めるのだという。そうでない場合も、例えば祖父の代の誰かがどこかに仕掛けたフィンゴが、忘れ去られて魔物(jine15)に姿を変えてしまうなどということもある。この場合も、占いでそれがわかるとフィンゴ抜きの施術を施さねばならない。
17 ムハソ muhaso (pl. mihaso)「薬」、とりわけ、土器片などの上で焦がし、その後すりつぶして黒い粉末にしたものを指す。妖術(utsai)に用いられるムハソは、瓢箪などの中に保管され、妖術使い(および妖術に対抗する施術師)が唱えごとで命令することによって、さまざまな目的に使役できる。治療などの目的で、身体に直接摂取させる場合もある。それには、muhaso wa kusaka 皮膚に塗ったり刷り込んだりする薬と、muhaso wa kunwa 飲み薬とがある。muhi(草木)と同義で用いられる場合もある。10cmほどの長さに切りそろえた根や幹を棒状に縦割りにしたものを束ね、煎じて飲む muhi wa(pl. mihi ya) kunwa(or kujita)も、muhaso wa(pl. mihaso ya) kunwa として言及されることもある。このように文脈に応じてさまざまであるが、妖術(utsai)のほとんどはなんらかのムハソをもちいることから、単にムハソと言うだけで妖術を意味する用法もある。
18 ニャマ・ワ・キゾンバ(nyama wa chidzomba, pl. nyama a chidzomba)。「イスラム系の憑依霊」。イスラム系の霊は「海岸の霊 nyama wa pwani」とも呼ばれる。イスラム系の霊たちに共通するのは、清潔好き、綺麗好きということで、ドゥルマの人々の「不潔な」生活を嫌っている。とりわけおしっこ(mikojo、これには「尿」と「精液」が含まれる)を嫌うので、赤ん坊を抱く母親がその衣服に排尿されるのを嫌い、母親を病気にしたり子供を病気にし、殺してしまったりもする。イスラム系の霊の一部には夜女性が寝ている間に彼女と性交をもとうとする霊がいる。男霊(p'ep'o mulume19)の別名をもつ男性のスディアニ導師(mwalimu sudiani20)がその代表例であり、女性に憑いて彼女を不妊にしたり(夫の精液を嫌って排除するので、子供が生まれない)、生まれてくる子供を全て殺してしまったり(その尿を嫌って)するので、最後の手段として危険な除霊(kukokomola)の対象とされることもある。イスラム系の霊は一般に獰猛(musiru)で怒りっぽい。内陸部の霊が好む草木(muhi)や、それを炒って黒い粉にした薬(muhaso)を嫌うので、内陸部の霊に対する治療を行う際には、患者にイスラム系の霊が憑いている場合には、このことについての許しを前もって得ていなければならない。イスラム系の霊に対する治療は、薔薇水や香水による沐浴が欠かせない。このようにきわめて厄介な霊ではあるのだが、その要求をかなえて彼らに気に入られると、彼らは自分が憑いている人に富をもたらすとも考えられている。
19 ペーポームルメ(p'ep'o mulume)。ムルメ(mulume)は「男性」を意味する名詞。男性のスディアニ Sudiani、カドゥメ Kadumeの別名とも。女性がこの霊にとり憑かれていると,彼女はしばしば美しい男と性交している夢を見る。そして実際の夫が彼女との性交を求めても,彼女は拒んでしまうようになるかもしれない。夫の方でも勃起しなくなってしまうかもしれない。女性の月経が終ったとき、もし夫がぐずぐずしていると,夫の代りにペポムルメの方が彼女と先に始めてしまうと、たとえ夫がいくら性交しようとも彼女が妊娠することはない。施術師による治療を受けてようやく、彼女は妊娠するようになる。その治療が功を奏さない場合には、最終的に除霊(ku-kokomola9)もありうる。逆に女性のスディアニもいて、こちらは夢の中で男性を誘惑し、不能にする。
20 スディアニ(sudiani)。スーダン人だと説明する人もいるが、ザンジバルの憑依を研究したLarsenは、スビアーニ(subiani)と呼ばれる霊について簡単に報告している。それはアラブの霊ruhaniの一種ではあるが、他のruhaniとは若干性格を異にしているらしい(Larsen 2008:78)。もちろんスーダンとの結びつきには言及されていない。スディアニには男女がいる。厳格なイスラム教徒で綺麗好き。女性のスディアニは男性と夢の中で性関係をもち、男のスディアニは女性と夢の中で性関係をもつ。同じふるまいをする憑依霊にペポムルメ(p'ep'o mulume, mulume=男)がいるが、これは男のスディアニの別名だとされている。いずれの場合も子供が生まれなくなるため、除霊(ku-kokomola)してしまうこともある(DB 214)。スディアニの典型的な症状は、発狂(kpwayuka)して、水、とりわけ海に飛び込む。治療は「海岸の草木muhi wa pwani」21による鍋(nyungu30)と、飲む大皿と浴びる大皿(kombe34)。白いローブ(zurungi,kanzu)と白いターバン、中に指輪を入れた護符(pingu27)。
21 ムヒ(muhi、複数形は mihi)。植物一般を指す言葉だが、憑依霊の文脈では、治療に用いる草木を指す。憑依霊の治療においては霊ごとに異なる草木の組み合わせがあるが、大きく分けてイスラム系の憑依霊に対する「海岸部の草木」(mihi ya pwani(pl.)/ muhi wa pwani(sing.))、内陸部の憑依霊に対する「内陸部の草木」(mihi ya bara(pl.)/muhi wa bara(sing.))に大別される。冷やしの施術や、妖術の施術22においても固有の草木が用いられる。muhiはさまざまな形で用いられる。搗き砕いて香料(mavumba23)の成分に、根や木部は切り彫ってパンデ(pande24)に、根や枝は煎じて飲み薬(muhi wa kunwa, muhi wa kujita)に、葉は水の中で揉んで薬液(vuo)に、また鍋の中で煮て蒸気を浴びる鍋(nyungu30)治療に、土器片の上で炒ってすりつぶし黒い粉状の薬(muhaso, mureya)に、など。ミヒニ(mihini)は字義通りには「木々の場所(に、で)」だが、施術の文脈では、施術に必要な草木を集める作業を指す。
22 ウガンガ(uganga)。癒やしの術、治療術、施術などという訳語を当てている。病気やその他の災に対処する技術。さまざまな種類の術があるが、大別すると3つに分けられる。(1)冷やしの施術(uganga wa kuphoza): 安心安全に生を営んでいくうえで従わねばならないさまざまなやり方・きまり(人々はドゥルマのやり方chidurumaと呼ぶ)を犯した結果生じる秩序の乱れや災厄、あるいは外的な事故がもたらす秩序の乱れを「冷やし」修正する術。(2)薬の施術(uganga wa muhaso): 妖術使い(さまざまな薬を使役して他人に不幸や危害をもたらす者)によって引き起こされた病気や災厄に対処する、妖術使い同様に薬の使役に通暁した専門家たちが提供する術。(3)憑依霊の施術(uganga wa nyama): 憑依霊によって引き起こされるさまざまな病気に対処し、憑依霊と交渉し患者と憑依霊の関係を取り持ち、再構築し、安定させる癒やしの術。
23 マヴンバ(mavumba)。「香料」。憑依霊の種類ごとに異なる。乾燥した草木や樹皮、根を搗き砕いて細かくした、あるいは粉状にしたもの。イスラム系の霊に用いられるものは、スパイスショップでピラウ・ミックスとして購入可能な香辛料ミックス。
24 パンデ(pande, pl.mapande)。草木の幹、枝、根などを削って作る護符25。穴を開けてそこに紐を通し、それで手首、腰、足首など付ける箇所に結びつける。
25 「護符」。憑依霊の施術師が、憑依霊によってトラブルに見舞われている人に、処方するもので、患者がそれを身につけていることで、苦しみから解放されるもの。あるいはそれを予防することができるもの。ンガタ(ngata26)、パンデ(pande24)、ピング(pingu27)、ヒリジ(hirizi28)、ヒンジマ(hinzima29)など、さまざまな種類がある。ピング(pingu)で全部を指していることもある。憑依霊ごとに(あるいは憑依霊のグループごとに)固有のものがある。勘違いしやすいのは、それを例えば憑依霊除けのお守りのようなものと考えてしまうことである。施術師たちは、これらを憑依霊に対して差し出される椅子(chihi)だと呼ぶ。憑依霊は、自分たちが気に入った者のところにやって来るのだが、椅子がないと、その者の身体の各部にそのまま腰を下ろしてしまう。すると患者は身体的苦痛その他に苦しむことになる。そこで椅子を用意しておいてやれば、やってきた憑依霊はその椅子に座るので、患者が苦しむことはなくなる、という理屈なのである。「護符」という訳語は、それゆえあまり適切ではないのだが、それに代わる適当な言葉がないので、とりあえず使い続けることにするが、霊を寄せ付けないためのお守りのようなものと勘違いしないように。
26 ンガタ(ngata)。護符25の一種。布製の長方形の袋状で、中に薬(muhaso),香料(mavumba),小さな紙に描いた憑依霊の絵などが入れてあり、紐で腕などに巻くもの、あるいは帯状の布のなかに薬などを入れてひねって包み、そのまま腕などに巻くものなど、さまざまなものがある。
27 ピング(pingu)。薬(muhaso:さまざまな草木由来の粉)を布などで包み、それを糸でぐるぐる巻きに球状に縫い固めた護符25の一種。厳密にはそうなのだが、護符の類をすべてピングと呼ぶ使い方も広く見られる。
28 ヒリジ(hirizi, pl.hirizi)。スワヒリ語では、コーランの章句を書いて作った護符を指す。革で作られた四角く縫い合わされた小さな袋状の護符で、コーランの章句が書かれた紙などが折りたたまれて封入されている。紐が通してあり、首などから掛ける。ドゥルマでも同じ使い方もされるが、イスラムの施術師が作るものにはヒンジマ(hinzima29)という言葉があり、ヒリジは、ドゥルマでは非イスラムの施術師によるピングなどの護符を含むような使い方も普通にされている。
29 ヒンジマ(hinzima, pl. hinzima)。革で作られた四角く縫い合わされた小さな袋状の護符で、コーランの章句が書かれた紙などが折りたたまれて封入されている。紐が通してあり、首などから掛ける。イスラム教の施術師によって作られる。スワヒリ語のヒリジ(hirizi)に当たるが、ドゥルマではヒリジ(hirizi28)という語は、非イスラムの施術師が作る護符(pinguなど)も含む使い方をされている。イスラムの施術師によって作られるものを特に指すのがヒンジマである。
30 ニュング(nyungu)。nyunguとは土器製の壺のような形をした鍋で、かつては煮炊きに用いられていた。このnyunguに草木(mihi)その他を詰め、火にかけて沸騰させ、この鍋を脚の間において座り、すっぽり大きな布で頭から覆い、鍋の蒸気を浴びる(kudzifukiza; kochwa)。それが終わると、キザchiza31、あるいはziya(池)のなかの薬液(vuo)を浴びる(koga)。憑依霊治療の一環の一種のサウナ的蒸気浴び治療であるが、患者に対してなされる治療というよりも、患者に憑いている霊に対して提供されるサービスだという側面が強い。https://www.mihamamoto.com/research/mijikenda/durumatxt/pot-treatment.htmlを参照のこと
31 キザ(chiza)。憑依霊のための草木(muhi主に葉)を細かくちぎり、水の中で揉みしだいたもの(vuo=薬液)を容器に入れたもの。患者はそれをすすったり浴びたりする。憑依霊による病気の治療の一環。室内に置くものは小屋のキザ(chiza cha nyumbani)、屋外に置くものは外のキザ(chiza cha konze)と呼ばれる。容器としては取っ手のないアルミの鍋(sfuria)が用いられることも多いが、外のキザには搗き臼(chinu)が用いられることが普通である。屋外に置かれたものは「池」(ziya32)とも呼ばれる。しばしば鍋治療(nyungu30)とセットで設置される。
32 ジヤ(ziya, pl.maziya)。「池、湖」。川(muho)、洞窟(pangani)とともに、ライカ(laika)、キツィンバカジ(chitsimbakazi),シェラ(shera)などの憑依霊の棲み処とされている。またこれらの憑依霊に対する薬液(vuo33)が入った搗き臼(chinu)や料理鍋(sufuria)もジヤと呼ばれることがある(より一般的にはキザ(chiza31)と呼ばれるが)。
33 ヴオ(vuo, pl. mavuo)。「薬液」、さまざまな草木の葉を水の中で揉みしだいた液体。すすったり、phungo(葉のついた小枝の束)を浸して雫を患者にふりかけたり、それで患者を洗ったり、患者がそれをすくって浴びたり、といった形で用いる。
34 コンベ(kombe)は「大皿」を意味するスワヒリ語。kombe はドゥルマではイスラム系の憑依霊の治療のひとつである。陶器、磁器の大皿にサフランをローズウォーターで溶いたもので字や絵を描く。描かれるのは「コーランの章句」だとされるアラビア文字風のなにか、モスクや月や星の絵などである。描き終わると、それはローズウォーターで洗われ、瓶に詰められる。一つは甘いバラシロップ(Sharbat Roseという商品名で売られているもの)を加えて、少しずつ水で薄めて飲む。これが「飲む大皿 kombe ra kunwa」である。もうひとつはバケツの水に加えて、それで沐浴する。これが「浴びる大皿 kombe ra koga」である。文字や図像を飲み、浴びることに病気治療の効果があると考えられているようだ。
35 カドゥメ(kadume)は、ペポムルメ(p'ep'o mulume)、ツォビャ(tsovya)などと同様の振る舞いをする憑依霊。共通するふるまいは、女性に憑依して夜夢の中にやってきて、女性を組み敷き性関係をもつ。女性は夫との性関係が不可能になったり、拒んだりするようになりうる。その結果子供ができない。こうした点で、三者はそれぞれの別名であるとされることもある。護符(ngata)が最初の対処であるが、カドゥメとツォーヴャは、取り憑いた女性の子供を突然捕らえて病気にしたり殺してしまうことがあり、ペポムルメ以上に、除霊(kukokomola)が必要となる。
36 マウィヤ(Mawiya)。民族名の憑依霊、マウィヤ人(Mawia)。モザンビーク北部からタンザニアにかけての海岸部に居住する諸民族のひとつ。同じ地域にマコンデ人(makonde37)もいるが、憑依霊の世界ではしばしばマウィヤはマコンデの別名だとも主張される。ともに人肉を食う習慣があると主張されている(もちデマ)。女性が憑依されると、彼女の子供を殺してしまう(子供を産んでも「血を飲まれてしまって」育たない)。症状は別の憑依霊ゴジャマ(gojama38)と同様で、母乳を水にしてしまい、子供が飲むと嘔吐、下痢、腹部膨満を引き起こす。女性にとっては危険な霊なので、除霊(ku-kokomola)に訴えることもある。
37 マコンデ(makonde)。民族名の憑依霊、マコンデ人(makonde)。別名マウィヤ人(mawiya)。モザンビーク北部からタンザニアにかけての海岸部に居住する諸民族のひとつで、マウィヤも同じグループに属する。人肉食の習慣があると噂されている(デマ)。女性に憑依して彼女の産む子供を殺してしまうので、除霊(ku-kokomola)の対象とされることもある。
38 ゴジャマ(gojama)。憑依霊の一種、ときにゴジャマ導師(mwalimu gojama)とも語られ、イスラム系とみなされることもある。狩猟採集民の憑依霊ムリャングロ(Muryangulo/pl.Aryangulo)と同一だという説もある。ひとつ目の半人半獣の怪物で尾をもつ。ブッシュの中で人の名前を呼び、うっかり応えると食べられるという。ブッシュで追いかけられたときには、葉っぱを撒き散らすと良い。ゴジャマはそれを見ると数え始めるので、その隙に逃げれば良いという。憑依されると、人を食べたくなり、カヤンバではしばしば斧をかついで踊る。憑依された人は、人の血を飲むと言われる。彼(彼女)に見つめられるとそれだけで見つめられた人の血はなくなってしまう。カヤンバでも、血を飲みたいと言って子供を追いかけ回す。また人肉を食べたがるが、カヤンバの席で前もって羊の肉があれば、それを与えると静かになる。ゴジャマをもつ者は、普段の状況でも食べ物の好みがかわり、蜂蜜を好むようになる。また尿に血や膿が混じる症状を呈することがある。さらにゴジャマをもつ女性は子供がもてなくなる(kaika ana)かもしれない。妊娠しても流産を繰り返す。その場合には、雄羊(ng'onzi t'urume)の供犠でその血を用いて除霊(kukokomola9)できる。雄羊の毛を縫い込んだ護符(pingu)を女性の胸のところにつけ、女性に雄羊の尾を食べさせる。
39 ドゥングマレ(dungumale)。母親に憑いて子供を捕らえる憑依霊。症状:発熱mwiri moho。子供泣き止まない。嘔吐、下痢。nyama wa kuusa(除霊ku-kokomola9の対象になる)12。黒いヤギmbuzi nyiru。ヤギを繋いでおくためのロープ。除霊の際には、患者はそのロープを持って走り出て、屋敷の外で倒れる。ドゥングマレの草木: mudungumale=muyama
40 ジネ・ムァンガ(jine mwanga)。イスラム系の憑依霊ジネの一種。別名にソロタニ・ムァンガ(ムァンガ・サルタン(sorotani mwanga))とも。ドゥルマ語では動詞クァンガ(kpwanga, ku-anga)は、「(裸で)妖術をかける、襲いかかる」の意味。スワヒリ語にもク・アンガ(ku-anga)には「妖術をかける」の意味もあるが、かなり多義的で「空中に浮遊する」とか「計算する、数える」などの意味もある。形容詞では「明るい、ギラギラする、輝く」などの意味。昼夜問わず夢の中に現れて(kukpwangira usiku na mutsana)、組み付いて喉を絞める。症状:吐血。女性に憑依すると子どもの出産を妨げる。ngataを処方して、出産後に除霊 ku-kokomolaする。
41 トゥヌシ(tunusi)。ヴィトゥヌシ(vitunusi)とも。憑依霊の一種。別名トゥヌシ・ムァンガ(tunusi mwanga)。イスラム系の憑依霊ジネ(jine15)の一種という説と、ニューニ(nyuni7)の仲間だという説がある。女性がトゥヌシをもっていると、彼女に小さい子供がいれば、その子供が捕らえられる。ひきつけの症状。白目を剥き、手足を痙攣させる。女性自身が苦しむことはない。この症状(捕らえ方(magbwiri))は、同じムァンガが付いたイスラム系の憑依霊、ジネ・ムァンガ42らとはかなり異なっているので同一視はできない。除霊(kukokomola9)の対象であるが、水の中で行われるのが特徴。
42 ムァンガ(mwanga)。憑依霊の名前。「ムァンガ導師 mwalimu mwanga」「アラブ人ムァンガ mwarabu mwanga」「ジネ・ムァンガ jine mwanga」あるいは単に「ムァンガ mwanga」と呼ばれる。「スルタン(sorotani)」、「スルタン・ムァンガ」も同じ憑依霊か。イスラム系の憑依霊。昼夜を問わず、夢の中に現れて人を組み敷き、喉を絞める。主症状は吐血。子供の出産を妨げるので、女性にとっては極めて危険。妊娠中は除霊できないので、護符(ngata)を処方して出産後に除霊を行う。また別に、全裸になって夜中に屋敷に忍び込み妖術をかける妖術使いもムァンガ mwangaと呼ばれる。kpwanga(=ku-anga)、「妖術をかける」(薬などの手段に訴えずに、上述のような以上な行動によって)を意味する動詞(スワヒリ語)より。これらのイスラム系の憑依霊が人を襲う仕方も同じ動詞で語られる。
43 ツォビャ(tsovya)。子供を好まず、母親に憑いて彼女の子供を殺してしまう。夜、夢の中にやってきて彼女と性関係をもつ。ニューニ7の一種に加える人もいる。鋭い爪をもった憑依霊(nyama wa mak'ombe)。除霊(kukokomola9)の対象となる「除去の霊nyama wa kuusa12」。see p'ep'o mulume19, kadume35
tsovyaの別名とされる「内陸部のスディアニ」の絵
44 ライカ・ムェンド(laika mwendo)。動きの速いことからムェンド(mwendo)と呼ばれる。mwendoという語はスワヒリ語と共通だが、「速度、距離、運動」などさまざまな意味で用いられる。唱えごとの中では「風とともに動くもの(mwenda na upepo)」と呼びかけられる。別名ライカ・ムクシ(laika mukusi)。すばやく人のキブリを奪う。「嗅ぎ出し」にあたる施術師は、大急ぎで走っていって,また大急ぎで戻ってこなければならない.さもないと再び chivuri を奪われてしまう。症状: 激しい狂気(kpwayuka vyenye)。
45 ライカ・ムクシ(laika mukusi)。クシ(kusi)は「暴風、突風」。キククジ(chikukuzi)はクシのdim.形。風が吹き抜けるように人のキブリを奪い去る。ライカ・ムェンド(laika mwendo) の別名。
46 ライカ・トブェ(laika tophe)。トブェ(tophe)は「泥」。症状: 口がきけなくなり、泥や土を食べたがる。泥の中でのたうち回る。別名ライカ・ニョカ(laika ra nyoka)、ライカ・マフィラ(laika mwafira47)、ライカ・ムァニョーカ(laika mwanyoka48)、ライカ・キフォフォ(laika chifofo)。
47 ライカ・ムァフィラ(laika mwafira)、fira(mafira(pl.))はコブラ。laika mwanyoka、laika tophe、laika nyoka(laika ra nyoka)などの別名。
48 ライカ・ムァニョーカ(laika mwanyoka)、nyoka はヘビ、mwanyoka は「ヘビの人」といった意味、laika chifofo、laika mwafira、laika tophe、laika nyokaなどの別名
49 ライカ・キフォフォ(laika chifofo)。キフォフォ(chifofo)は「癲癇」あるいはその症状。症状: 痙攣(kufitika)、口から泡を吹いて倒れる、人糞を食べたがる(kurya mavi)、意識を失う(kufa,kuyaza fahamu)。ライカ・トブェ(laika tophe)の別名ともされる。
50 ライカ・ドンド(laika dondo)。dondo は「乳房 nondo」の aug.。乳房が片一方しかない。症状: 嘔吐を繰り返し,水ばかりを飲む(kuphaphika, kunwa madzi kpwenda )。キツィンバカジ(chitsimbakazi4)の別名ともいう。
51 ライカ・キウェテ(laika chiwete)。片手、片脚のライカ。chiweteは「不具(者)」の意味。症状: 脚が壊れに壊れる(kuvunza vunza magulu)、歩けなくなってしまう。別名ライカ・グドゥ(laika gudu)
52 ライカ・グドゥ(laika gudu)。ku-gudula「びっこをひく」より。ライカ・キウェテ(laika chiwete)の別名。
53 ライカ・ムバワ(laika mbawa)。バワ(bawa)は「ハンティングドッグ」。病気の進行が速い。もたもたしていると、血をすべて飲まれてしまう(kunewa milatso)ことから。症状: 貧血(kunewa milatso)、吐血(kuphaphika milatso)
54 ライカ・ツル(laika tsulu)。ツル(tsulu)は「土山、盛り土」。腹部が土丘(tsulu)のように膨れ上がることから。
55 マクンバ(makumba)。憑依霊デナ(dena56)の別名。
56 デナ(dena)。憑依霊の一種。ギリアマ人の長老。ヤシ酒を好む。牛乳も好む。別名マクンバ(makumbaまたはmwakumba)。突然の旋風に打たれると、デナが人に「触れ(richimukumba mutu)」、その人はその場で倒れ、身体のあちこちが「壊れる」のだという。瓢箪子供に入れる「血」はヒマの油ではなく、バター(mafuha ga ng'ombe)とハチミツで、これはマサイの瓢箪子供と同じ(ハチミツのみでバターは入れないという施術師もいる)。症状:発狂、木の葉を食べる、腹が腫れる、脚が腫れる、脚の痛みなど、ニャリ(nyari57)との共通性あり。治療はアフリカン・ブラックウッド(muphingo)ムヴモ(muvumo/Premna chrysoclada)ミドリサンゴノキ(chitudwi/Euphorbia tirucalli)の護符(pande24)と鍋。ニャリの治療もかねる。要求:鍋、赤い布、嗅ぎ出し(ku-zuza)の仕事。ニャリといっしょに出現し、ニャリたちの代弁者として振る舞う。
57 ニャリ(nyari)。憑依霊のグループ。内陸系の憑依霊(nyama a bara)だが、施術師によっては海岸系(nyama a pwani)に入れる者もいる(夢の中で白いローブ(kanzu)姿で現れることもあるとか、ニャリの香料(mavumba)はイスラム系の霊のための香料だとか、黒い布の月と星の縫い付けとか、どこかイスラム的)。カヤンバの場で憑依された人は白目を剥いてのけぞるなど他の憑依霊と同様な振る舞いを見せる。実体はヘビ。症状:発狂、四肢の痛みや奇形。要求は、赤い(茶色い)鶏、黒い布(星と月の縫い付けがある)、あるいは黒白赤の布を継ぎ合わせた布、またはその模様のシャツ。鍋(nyungu)。さらに「嗅ぎ出し(ku-zuza)1」の仕事を要求することもある。ニャリはヘビであるため喋れない。Dena56が彼らのスポークスマンでありリーダーで、デナが登場するとニャリたちを代弁して喋る。また本来は別グループに属する憑依霊ディゴゼー(digozee58)が出て、代わりに喋ることもある。ニャリnyariにはさまざまな種類がある。ニャリ・ニョカ(nyoka): nyokaはドゥルマ語で「ヘビ」、全身を蛇が這い回っているように感じる、止まらない嘔吐。よだれが出続ける。ニャリ・ムァフィラ(mwafira):firaは「コブラ」、ニャリ・ニョカの別名。ニャリ・ドゥラジ(durazi): duraziは身体のいろいろな部分が腫れ上がって痛む病気の名前、ニャリ・ドゥラジに捕らえられると膝などの関節が腫れ上がって痛む。ニャリ・キピンデ(chipinde): ku-pindaはスワヒリ語で「曲げる」、手脚が曲がらなくなる。ニャリ・キティヨの別名とも。ニャリ・ムァルカノ(mwalukano): lukanoはドゥルマ語で筋肉、筋(腱)、血管。脚がねじ曲がる。この霊の護符pande24には、通常の紐(lugbwe)ではなく野生動物の腱を用いる。ニャリ・ンゴンベ(ng'ombe): ng'ombeはウシ。牛肉が食べられなくなる。腹痛、腹がぐるぐる鳴る。鍋(nyungu)と護符(pande)で治るのがジネ・ンゴンベ(jine ng'ombe)との違い。ニャリ・ボコ(boko): bokoはカバ。全身が震える。まるでマラリアにかかったように骨が震える。ニャリ・ボコのカヤンバでの演奏は早朝6時頃で、これはカバが水から出てくる時間である。ニャリ・ンジュンジュラ(junjula):不明。ニャリ・キウェテ(chiwete): chiweteはドゥルマ語で不具、脚を壊し、人を不具にして膝でいざらせる。ニャリ・キティヨ(chitiyo): chitiyoはドゥルマ語で父息子、兄弟などの同性の近親者が異性や性に関する事物を共有することで生じるまぜこぜ(maphingani/makushekushe)がもたらす災厄を指す。ニャリ・キティヨに捕らえられると腰が折れたり(切断されたり)=ぎっくり腰、せむし(chinundu cha mongo)になる。胸が腫れる。
58 ディゴゼー(digozee)。憑依霊ドゥルマ人の一種とも。田舎者の老人(mutumia wa nyika)。極めて年寄りで、常に毛布をまとう。酒を好む。ディゴゼーは憑依霊ドゥルマ人の長、ニャリたちのボスでもある。ムビリキモ(mubilichimo59)マンダーノ(mandano60)らと仲間で、憑依霊ドゥルマ人の瓢箪を共有する。症状:日なたにいても寒気がする、腰が断ち切られる(ぎっくり腰)、声が老人のように嗄れる。要求:毛布(左肩から掛け一日中纏っている)、三本足の木製の椅子(紐をつけ、方から掛けてどこへ行くにも持っていく)、編んだ肩掛け袋(mukoba)、施術師の錫杖(muroi)、動物の角で作った嗅ぎタバコ入れ(chiko cha pembe)、酒を飲むための瓢箪製のコップとストロー(chiparya na muridza)。治療:憑依霊ドゥルマの「鍋」、煙浴び(ku-dzifukiza 燃やすのはボロ布または乳香)。
59 ムビリキモ(mbilichimo)。民族名の憑依霊、ピグミー(スワヒリ語でmbilikimo/(pl.)wabilikimo)。身長(kimo)がない(mtu bila kimo)から。憑依霊の世界では、ディゴゼー(digozee)と組んで現れる。女性の霊だという施術師もいる。症状:脚や腰を断ち切る(ような痛み)、歩行不可能になる。要求: 白と黒のビーズをつけた紺色の(ムルングの)布。ビーズを埋め込んだ木製の三本足の椅子。憑依霊ドゥルマ人の瓢箪に同居する。
60 マンダーノ(mandano)。憑依霊。mandanoはドゥルマ語で「黄色」。女性の霊。つねに憑依霊ドゥルマ人とともにやってくる。独りでは来ない。憑依霊ドゥルマ人、ディゴゼー、ムビリキモ、マンダーノは一つのグループになっている。施術師によっては、マンダーノをレロニレロ61とともにディゴ系の霊とする、あるいはシェラ62の別名だとするなど、見解の違いもある。症状: 咳、喀血、息が詰まる。貧血、全身が黄色くなる、水ばかり飲む。食べたものはみな吐いてしまう。要求: 黄色いビーズと白いビーズを互違いに通した耳飾り、青白青の三色にわけられた布(二辺に穴あき硬貨(hela)と黄色と白のビーズ飾りが縫いつけられている)、自分に捧げられたヤギ。草木: mutundukula、mudungu
61 レロニレロ(rero ni rero)。レロ(rero)はドゥルマ語で「今日」を意味する。憑依霊シェラ(shera62)の別名ともいう。施術師によっては、憑依霊ドゥルマ人のグループに入れる者もいる。男性の霊。一日のうちに、ビーズ飾り作り、嗅ぎ出し(kuzuza1)、カヤンバ(kayamba)、「重荷下ろし(kuphula mizigo)63」、「外に出す(ku-lavya konze74)まですべて済ませてしまわねばならないことから「今日は今日だけ(rero ni rero)」と呼ばれる。シェラ自体も、比較的最近になってドゥルマに入り込んだ霊だが、それをことさらにレロニレロと呼んで法外な治療費を要求する施術師たちを、非難する昔気質の施術師もいる。草木: mubunduki
62 シェラ(shera, pl. mashera)。憑依霊の一種。laikaと同じ瓢箪を共有する。同じく犠牲者のキブリを奪う。症状: 全身の痒み(掻きむしる)、ほてり(mwiri kuphya)、動悸が速い、腹部膨満感、不安、動悸と腹部膨満感は「胸をホウキで掃かれるような症状」と語られるが、シェラという名前はそれに由来する(ku-shera はディゴ語で「掃く」の意)。シェラに憑かれると、家事をいやがり、水汲みも薪拾いもせず、ただ寝ることと食うことのみを好むようになる。気が狂いブッシュに走り込んだり、川に飛び込んだり、高い木に登ったりする。要求: 薄手の黒い布(gushe)、ビーズ飾りのついた赤い布(ショールのように肩に纏う)。治療:「嗅ぎ出し(ku-zuza)1、クブゥラ・ミジゴ(kuphula mizigo 重荷を下ろす63)と呼ばれるほぼ一昼夜かかる手続きによって治療。イキリク(ichiliku65)、おしゃべり女(chibarabando66)、重荷の女(muchet'u wa mizigo67)、気狂い女(muchet'u wa k'oma68)、狂気を煮立てる者(mujita k'oma69)、ディゴ女(muchet'u wa chidigo71、長い髪女(mwadiwa72)などの多くの別名をもつ。男のシェラは編み肩掛け袋(mukoba73)を持った姿で、女のシェラは大きな乳房の女性の姿で現れるという。
63 憑依霊シェラに対する治療。シェラの施術師となるには必須の手続き。シェラは本来素早く行動的な霊なのだが、重荷(mizigo64)を背負わされているため軽快に動けない。シェラに憑かれた女性が家事をサボり、いつも疲れているのは、シェラが重荷を背負わされているため。そこで「重荷を下ろす」ことでシェラとシェラが憑いている女性を解放し、本来の勤勉で働き者の女性に戻す必要がある。長い儀礼であるが、その中核部では患者はシェラに憑依され、屋敷でさまざまな重荷(水の入った瓶や、ココヤシの実、石などの詰まった網籠を身体じゅうに掛けられる)を負わされ、施術師に鞭打たれながら水辺まで進む。水辺には木の台が据えられている。そこで重荷をすべて下ろし、台に座った施術師の女助手の膝に腰掛けさせられ、ヤギを身体じゅうにめぐらされ、ヤギが供犠されたのち、患者は水で洗われ、再び鞭打たれながら屋敷に戻る。その過程で女性がするべきさまざまな家事仕事を模擬的にさせられる(薪取り、耕作、水くみ、トウモロコシ搗き、粉挽き、料理)、ついで「夫」とベッドに座り、父(男性施術師)に紹介させられ、夫に食事をあたえ、等々。最後にカヤンバで盛大に踊る、といった感じ。まさにミメティックに、重荷を下ろし、家事を学び直し、家庭をもつという物語が実演される。またシェラの癒やしの術を外に出すンゴマにおいても、「重荷下ろし」はその重要な一部として組み込まれている。
64 ムジゴ(muzigo, pl.mizigo)。「荷物」「重荷」。
65 イキリクまたはキリク(ichiliku)。憑依霊シェラ(shera62)の別名。シェラには他にも重荷を背負った女(muchet'u wa mizigo)、長い髪の女(mwadiwa=mutu wa diwa, diwa=長い髪)、狂気を煮たてる者(mujita k'oma)、高速の女((mayo wa mairo) もともととても素速い女性だが、重荷を背負っているため速く動けない)、気狂い女(muchet'u wa k'oma)、口軽女(chibarabando)など、多くの別名がある。無駄口をたたく、他人と折り合いが悪い、分別がない(mutu wa kutsowa akili)といった属性が強調される。
66 キバラバンド(chibarabando)。「おしゃべりな人、おしゃべり」。shera62の別名の一つ。「雷鳴」とも結びついている。唱えごとにおいて、Huya chibarabando, musindo wa vuri, musindo wa mwaka.「あのキバラバンド、小雨季の雷鳴、大雨季の雷鳴」と唱えられている。おしゃべりもけたたましいのだろう。
67 ムチェツ・ワ・ミジゴ(muchet'u wa mizigo)。「重荷の女」。憑依霊シェラ62の別名。治療には「重荷下ろし」のカヤンバ(kayamba ra kuphula mizigo)が必要。重荷下ろしのカヤンバ
68 ムチェツ・ワ・コマ(muchet'u wa k'oma)。「きちがい女」。憑依霊シェラ62の別名ともいう。
69 ムジタ・コマ(mujita k'oma)。「狂気を煮立てる者」。憑依霊シェラ(shera62)の別名の一つ。憑依霊ディゴ人(ムディゴ(mudigo70))の別名ともされる。
70 ムディゴ(mudigo)。民族名の憑依霊、ディゴ人(mudigo)。しばしば憑依霊シェラ(shera=ichiliku)もいっしょに現れる。別名プンガヘワ(pungahewa, スワヒリ語でku-punga=扇ぐ, hewa=空気)、ディゴの女(muchet'u wa chidigo)。ディゴ人(プンガヘワも)、シェラ、ライカ(laika)は同じ瓢箪子供を共有できる。症状: ものぐさ(怠け癖 ukaha)、疲労感、頭痛、胸が苦しい、分別がなくなる(akili kubadilika)。要求: 紺色の布(ただしジンジャjinja という、ムルングの紺の布より濃く薄手の生地)、癒やしの仕事(uganga)の要求も。ディゴ人の草木: mupholong'ondo, mup'ep'e, mutundukula, mupera, manga, mubibo, mukanju
71 ムチェツ・ワ・キディゴ(muchet'u wa chidigo)。「ディゴ女」。憑依霊シェラ62の別名。あるいは憑依霊ディゴ人(mudigo70)の女性であるともいう。
72 ムヮディワ(mwadiwa)。「長い髪の女」。憑依霊シェラの別名のひとつともいう。ディワ(diwa)は「長い髪」の意。ムヮディワをマディワ(madiwa)と発音する人もいる(特にカヤンバの歌のなかで)。mayo mwadiwa、mayo madiwa、nimadiwaなどさまざまな言い方がされる。
73 ムコバ(mukoba)。持ち手、あるいは肩から掛ける紐のついた編み袋。サイザル麻などで編まれたものが多い。憑依霊の癒しの術(uganga)では、施術師あるいは癒やし手(muganga)がその瓢箪や草木を入れて運んだり、瓢箪を保管したりするのに用いられるが、癒しの仕事を集約する象徴的な意味をもっている。自分の祖先のugangaを受け継ぐことをムコバ(mukoba)を受け継ぐという言い方で語る。また病気治療がきっかけで患者が、自分を直してくれた施術師の「施術上の子供」になることを、その施術師の「ムコバに入る(kuphenya mukobani)」という言い方で語る。患者はその施術師に4シリングを払い、施術師はその4シリングを自分のムコバに入れる。そして患者に「ヤギと瓢箪いっぱいのヤシ酒(mbuzi na kadzama)」(20シリング)を与える。これによりその患者はその施術師の「ムコバ」に入り、その施術上の子供になる。施術上の子供を辞めるときには、ただやめてはいけない。病気になる。施術上の子供は施術師に「ヤギと瓢箪いっぱいのヤシ酒(mbuzi na kadzama)」を支払い、4シリングを返してもらう。これを「ムコバから出る(kulaa mukobani)」という。
74 ク・ラヴャ・コンゼ(ンゼ)(ku-lavya konze, ku-lavya nze)は、字義通りには「外に出す」だが、憑依の文脈では、人を正式に癒し手(muganga、治療師、施術師)にするための一連の儀礼のことを指す。人を目的語にとって、施術師になろうとする者について誰それを「外に出す」という言い方をするが、憑依霊を目的語にとってたとえばムルングを外に出す、ムルングが「出る」といった言い方もする。同じく「癒しの術(uganga)」が「外に出る」、という言い方もある。憑依霊ごとに違いがあるが、最も多く見られるムルング子神を「外に出す」場合、最終的には、夜を徹してのンゴマ(またはカヤンバ)で憑依霊たちを招いて踊らせ、最後に施術師見習いはトランス状態(kugolomokpwa)で、隠された瓢箪子供を見つけ出し、占いの技を披露し、憑依霊に教えられてブッシュでその憑依霊にとって最も重要な草木を自ら見つけ折り取ってみせることで、一人前の癒し手(施術師)として認められることになる。
75 ク・ツォザ・ツォガ(ku-tsodza tsoga)。妖術の治療などにおいて皮膚に剃刀で切り傷をつけ(ku-tsodza)、そこに薬(muhaso)を塗り込む行為。ツォガ(tsoga)は薬を塗り込まれた傷。憑依霊は、とりわけイスラム系の憑依霊は、自分の憑いている者がこうして黒い薬を塗り込まれることを嫌う。したがって施術には前もって憑依霊の同意を取って行う必要がある。
76 ク・ズザは隣接するディゴの言語では、妖術使いが仕掛けた埋設薬(fingo)を取り除く行為(施術)を指しており、「引き抜く」を意味する動詞ク・ズラ(ku-zula)(ドゥルマ語では同じ動詞も用いられるが、妖術使いの仕掛けた薬を取り除く行為にはク・ンゴラ(ku-ng'ola)を用いる方が普通である)と同義で用いられているらしい(compiled by Joseph Mwalonya et.al., 2004, Mgombato: Digo-English-Swahili Dictionary,Nairobi: BTL(East Africa))。なぜこんな話から始めるかというと、ク・ズザ(ku-zuza)は動詞ク・ズラ(ku-zula)の使役形(causative)と考えると、なんとなく筋が通るからだ。言語学に詳しい方、どうなんでしょう?ku-zuza という動詞は隣接するギリアマの言語には見当たらない(古い英・ギリアマ辞書(Taylor,W.E.,1891, Giryama Vocabulary and Collections, London: Society for Promoting Christian Knowledge))。同じく隣接するラバイの言語ではク・スサ(ku-susa)と言う動詞が「引き抜く」という意味で用いられており、それを専門とするムスシ(mususi)という施術師がいたと説明されている(Krapf & Rebmann, 1887, A Nyika-English Dictionary, London: Society for Promoting Christian Knowledge)。でも、どうなんだろう。ディゴ地域出身の施術師もドゥルマ地域で、ドゥルマ人の施術師と同じようなク・ズザの施術をやっているから、抗妖術施術の「引き抜き」とは関係ないと思うのだが。
77 キブリについては、祖霊(koma78)との関係で、調査の比較的初期に簡単な議論を公表している。今から見てもそれほど間違ったことを書いてはいないが、不十分な点もある。個々の概念それ自体も内容に揺れがあり、他の概念との関係においても必ずしも体系的に首尾一貫していない、そんな概念群(単語群)を、なんでも無理やり辻褄があうように整理する私の悪い癖で、過度に単純化して提示したきらいがあるのだ。というわけで、ここではその点を補うことに主眼を置く。
78 コマ(k'oma)。「祖霊」。祖霊は夢に現れてさまざまなメッセージを子孫に伝える。祖霊は子孫に対して様々な要求を課し、それを夢にあらわれて伝える。無視していると災いを送ってくる。憑依の文脈では、祖先に強力な施術師がいた場合、その持ち霊を子孫が継承し、施術師になる場合が多い。祖霊自身がそれを要求しているのだとされる場合もある。祖霊の要求をすぐに叶えることができない場合は、夢を見た者は、明け方、あるいは夕刻に小屋の戸口(あるいは死者の墓で)クハツァ(kuhatsa79)という行為をおこなう。水で溶いたトウモロコシ粉を巻きながら、今は余裕がないので待ってほしいと祖霊に許しを乞うのである。子供を残した者のみが死後、祖霊になる。子供を残さずに死んだものは、埋葬の際に火がついている木の枝(直前に水に入れて火を消される)を、その背中側に置かれ、「お前は子供を残さずに死んだ。これがお前の子供だ。やって来て人に夢を見せるな」と唱えられる。k'omaという言葉はドゥルマ語では「夢」ndoso の同義語でもある(ディゴ語では「夢」の意味では用いられないようだが、ドゥルマ語にはない「狂気」という意味もある)。コマの観念についての概略は浜本, 1992,「ドゥルマにおけるコマの観念」『九州人類学会報』Vol.20:30-51参照。ちょっと古いけど。
79 クハツァ(ku-hatsa)。文脈に応じて「命名する kuhatsa dzina」、娘を未来の花婿に「与える kuhatsa mwana」、「祖霊の祝福を祈願する kuhatsa k'oma」、自分が無意識にかけたかもしれない「呪詛を解除する」、「カヤンバなどの開始を宣言する kuhatsa ngoma」などさまざまな意味をもつ。なんらかのより良い変化を作り出す言語行為を指す言葉と考えられる。憑依の文脈では、特定の霊の施術師になるための「外に出す(kulavya nze74)」ンゴマにおいて、その霊に固有の草木を折り取らせる最終テストの際に、見事に折り取った草木を主宰する施術師はクハツァして、テストに合格した者に正式に与える必要がある(これは後日、その他の草木を教える際にも繰り返される)。また、憑依霊を呼び出すンゴマ(カヤンバ)の場で、患者(ムウェレ(muwele80)がなかなか憑依状態に入らない(踊らない場合)があり、それが患者に対して心の中になにか怒り(ムフンド(mufundo84))をもっている親族(父母、夫など)がいるせいだとされることがある。その場合は、そうした怒りを感じている人に、その怒りの内容をすべて話し、唾液(あるいは口に含んだ水)を患者に対して吹きかけるという、呪詛の解除と同じ手続きがとられることがある。この行為もクハツァと呼ばれる。ンゴマやカヤンバにおいてムウェレが踊らない問題についてはリンク先を参照のこと。
80 ムウェレ(muwele)。その特定のンゴマがその人のために開催される「患者」、その日のンゴマの言わば「主人公」のこと。彼/彼女を演奏者の輪の中心に座らせて、徹夜で演奏が繰り広げられる。主宰する癒し手(治療師、施術師 muganga)は、彼/彼女の治療上の父や母(baba/mayo wa chiganga)81であることが普通であるが、癒し手自身がムエレ(muwele)である場合、彼/彼女の治療上の子供(mwana wa chiganga)である癒し手が主宰する形をとることもある。
81 憑依霊の癒し手(治療師、施術師 muganga)は、誰でも「治療上の子供(mwana wa chiganga)」と呼ばれる弟子をもっている。もし憑依霊の病いになり、ある癒し手の治療を受け、それによって全快すれば、患者はその癒し手に4シリングを払い、その癒やし手の治療上の子供になる。この4シリングはムコバ(mukoba73)に入れられ、施術師は患者に「ヤギと瓢箪いっぱいのヤシ酒(mbuzi na kadzama)」(20シリング)を与える。これによりその患者は、その癒やし手の「ムコバに入った」と言われる。こうした弟子は、男性の場合はムァナマジ(mwanamadzi,pl.anamadzi)、女性の場合はムテジ(muteji, pl.ateji)とも呼ばれる。これらの言葉を男女を問わず用いる人も多い。癒やし手(施術師)は、彼らの治療上の父(男性施術師の場合 baba wa chiganga)82や母(女性施術師の場合 mayo wa chiganga)83ということになる。弟子たちは治療上の親であるその癒やし手の仕事を助ける。もし癒し手が新しい患者を得ると、弟子たちも治療に参加する。薬液(vuo)や鍋(nyungu)の材料になる種々の草木を集めたり、薬液を用意する手伝いをしたり、鍋の設置についていくこともある。その癒し手が主宰するンゴマ(カヤンバ)に、歌い手として参加したり、その他の手助けをする。その癒し手のためのンゴマ(カヤンバ)が開かれる際には、薪を提供したり、お金を出し合って、そこで供されるチャパティやマハムリ(一種のドーナツ)を作るための小麦粉を買ったりする。もし弟子自身が病気になると、その特定の癒し手以外の癒し手に治療を依頼することはない。治療上の子供を辞めるときには、ただやめてはいけない。病気になる。治療上の子供は癒やし手に「ヤギと瓢箪いっぱいのヤシ酒(mbuzi na kadzama)」を支払い、4シリングを返してもらう。これを「ムコバから出る」という。
82 ババ(baba)は「父」。ババ・ワ・キガンガ(baba wa chiganga)は「治療上の(施術上の)父」という意味になる。所有格をともなう場合、例えば「彼の治療上の父」はabaye wa chiganga などになる。「施術上の」関係とは、特定の癒やし手によって治療されたことがきっかけで成立する疑似親族関係。詳しくは「施術上の関係」81を参照されたい。
83 マヨ(mayo)は「母」。マヨ・ワ・キガンガ(mayo wa chiganga)は「治療上の(施術上の)母」という意味になる。所有格を伴う場合、例えば「彼の治療上の母」はameye wa chiganga などになる。「施術上の」関係とは、特定の癒やし手によって治療されたことがきっかけで成立する疑似親族関係。詳しくは「施術上の関係」81を参照されたい。
84 ムフンド(mufundo)。フンド(fundo)は縄などの「結び目」であるが、心の「しこり」の意味でも用いられる。特に mufundo は人が自分の子供などの振る舞いに怒りを感じたときに心のなかに形成され、持ち主の意図とは無関係に、怒りの原因となった子供に災いをもたらす。唾液(あるいは口に含んだ水)を相手の胸(あるいは口中に)吹きかけることによって解消できる。この手続きをkuhatsa79と呼ぶ。知らず知らずのうちに形成されているmufundoを解消するためには、抱いたかもしれない怒りについて口に出し、水(唾液)を自分の胸に吹きかけて解消することもできる。本人も忘れている取るに足らないしこりが、例えばンゴマやカヤンバで患者が踊ることを妨げることがある。muweleがいつまでたっても憑依されないときには、夫によるkuhatsaの手続きがしばしば挿入される。ムフンドは典型的には親から子へと発動するが、夫婦などそれ以外の関係でも生じるとも考えられている。
85 ペーホ(p'eho)。「風」「冷たさ」「涼しさ」「悪寒」。...wa p'eho =adj. 「冷たい」。スワヒリ語で「風」を意味するウペポ(upepo)とも関係しているが、こちらは「風」以外の意味はなく、また形容詞としての用法もない。憑依霊を意味するp'ep'oとも関係あるような気がするが証拠はない。
86 ロホ(roho, pl.roho, maroho)。この言葉については、後にやや詳しく論じる。ここではJM氏は、臓器としての心臟と「魂」の両方の意味で用いている。
87 ムルング(mulungu)。ムルングはドゥルマにおける至高神で、雨をコントロールする。憑依霊のムァナムルング(mwanamulungu)88との関係は人によって曖昧。憑依霊につく「子供」mwanaという言葉は、内陸系の憑依霊につける敬称という意味合いも強い。一方憑依霊のムルングは至高神ムルング(女性だとされている)の子供だと主張されることもある。私はムァナムルング(mwanamulungu)については「ムルング子神」という訳語を用いる。しかし単にムルング(mulungu)で憑依霊のムァナムルングを指す言い方も普通に見られる。このあたりのことについては、ドゥルマの(特定の人による理論ではなく)慣用を尊重して、あえて曖昧にとどめておきたい。
88 ムァナムルング(mwanamulungu)。「ムルング子神」と訳しておく。憑依霊の名前の前につける"mwana"には敬称的な意味があると私は考えている。しかし至高神ムルング(mulungu)と憑依霊のムルング(mwanamulungu)の関係については、施術師によって意見が分かれることがある。多くの人は両者を同一とみなしているが、天にいるムルング(女性)が地上に落とした彼女の子供(女性)だとして、区別する者もいる。いずれにしても憑依霊ムルングが、すべての憑依霊の筆頭であるという点では意見が一致している。憑依霊ムルングも他の憑依霊と同様に、自分の要求を伝えるために、自分が惚れた(あるいは目をつけた kutsunuka)人を病気にする。その症状は身体全体にわたる。その一つに人々が発狂(kpwayuka)と呼ぶある種の精神状態がある。また女性の妊娠を妨げるのも憑依霊ムルングの特徴の一つである。ムルングがこうした症状を引き起こすことによって満たそうとする要求は、単に布(nguo ya mulungu と呼ばれる黒い布 nguo nyiru (実際には紺色))であったり、ムルングの草木を水の中で揉みしだいた薬液を浴びることであったり(chiza31)、ムルングの草木を鍋に詰め少量の水を加えて沸騰させ、その湯気を浴びること(「鍋nyungu」)であったりする。さらにムルングは自分自身の子供を要求することもある。それは瓢箪で作られ、瓢箪子供と呼ばれる89。女性の不妊はしばしばムルングのこの要求のせいであるとされ、瓢箪子供をムルングに差し出すことで妊娠が可能になると考えられている90。この瓢箪子供は女性の子供と一緒に背負い布に結ばれ、背中の赤ん坊の健康を守り、さらなる妊娠を可能にしてくれる。しかしムルングの究極の要求は、患者自身が施術師になることである。ムルングが引き起こす症状で、すでに言及した「発狂kpwayuka」は、ムルングのこの究極の要求につながっていることがしばしばである。ここでも瓢箪子供としてムルングは施術師の「子供」となり、彼あるいは彼女の癒やしの術を助ける。もちろん、さまざまな憑依霊が、癒やしの仕事(kazi ya uganga)を欲して=憑かれた者がその霊の癒しの術の施術師(muganga 癒し手、治療師)となってその霊の癒やしの術の仕事をしてくれるようになることを求めて、人に憑く。最終的にはこの願いがかなうまでは霊たちはそれを催促するために、人を様々な病気で苦しめ続ける。憑依霊たちの筆頭は神=ムルングなので、すべての施術師のキャリアは、まず子神ムルングを外に出す(徹夜のカヤンバ儀礼を経て、その瓢箪子供を授けられ、さまざまなテストをパスして正式な施術師として認められる手続き)ことから始まる。
89 ムァナ・ワ・ンドンガ(mwana wa ndonga)。ムァナ(mwana, pl. ana)は「子供」、ンドンガ(ndonga)は「瓢箪」。「瓢箪の子供」を意味する。「瓢箪子供」と訳すことにしている。瓢箪の実(chirenje)で作った子供。瓢箪子供には2種類あり、ひとつは施術師が特定の憑依霊(とその仲間)の癒やしの術(uganga)をとりおこなえる施術師に就任する際に、施術上の父と母から授けられるもので、それは彼(彼女)の施術の力の源泉となる大切な存在(彼/彼女の占いや治療行為を助ける憑依霊はこの瓢箪の姿をとった彼/彼女にとっての「子供」とされる)である。一方、こうした施術師の所持する瓢箪子供とは別に、不妊に悩む女性に授けられるチェレコchereko(ku-ereka 「赤ん坊を背負う」より)とも呼ばれる瓢箪子供90がある。瓢箪子供の各部の名称については、図92を参照。
90 チェレコ(chereko)。「背負う」を意味する動詞ク・エレカ(kpwereka)より。不妊の女性に与えられる瓢箪子供89。子供がなかなかできない(ドゥルマ語で「彼女は子供をきちんと置かない kaika ana」と呼ばれる事態で、連続する死産、流産、赤ん坊が幼いうちに死ぬ、第二子以降がなかなか生まれないなども含む)原因は、しばしば自分の子供がほしいムルング子神88がその女性の出産力に嫉妬して、その女性の妊娠を阻んでいるためとされる。ムルング子神の瓢箪子供を夫婦に授けることで、妻は再び妊娠すると考えられている。まだ一切の加工がされていない瓢箪(chirenje)を「鍋」とともにムルングに示し、妊娠・出産を祈願する。授けられた瓢箪は夫婦の寝台の下に置かれる。やがて妻に子供が生まれると、徹夜のカヤンバを開催し施術師はその瓢箪の口を開け、くびれた部分にビーズ ushangaの紐を結び、中身を取り出す。夫婦は二人でその瓢箪に心臓(ムルングの草木を削って作った木片mapande24)、内蔵(ムルングの草木を砕いて作った香料23)、血(ヒマ油91)を入れて「瓢箪子供」にする。徹夜のカヤンバが夜明け前にクライマックスになると、瓢箪子供をムルング子神(に憑依された妻)に与える。以後、瓢箪子供は夜は夫婦の寝台の上に置かれ、昼は生まれた赤ん坊の背負い布の端に結び付けられて、生まれてきた赤ん坊の成長を守る。瓢箪子どもの血と内臓は、切らさないようにその都度、補っていかねばならない。夫婦の一方が万一浮気をすると瓢箪子供は泣き、壊れてしまうかもしれない。チェレコを授ける儀礼手続きの詳細は、浜本満, 1992,「「子供」としての憑依霊--ドゥルマにおける瓢箪子供を連れ出す儀礼」『アフリカ研究』Vol.41:1-22を参照されたい。
91 ニョーノ(nyono)。ヒマ(mbono, mubono)の実、そこからヒマの油(mafuha ga nyono)を抽出する。さまざまな施術に使われるが、ヒマの油は閉経期を過ぎた女性によって抽出されねばならない。ムルングの瓢箪子供には「血」としてヒマの油が入れられる。
92 ンドンガ(ndonga)。瓢箪chirenjeを乾燥させて作った容器。とりわけ施術師(憑依霊、妖術、冷やしを問わず)が「薬muhaso」を入れるのに用いられる。憑依霊の施術師の場合は、薬の容器とは別に、憑依霊の瓢箪子供 mwana wa ndongaをもっている。内陸部の霊たちの主だったものは自らの「子供」を欲し、それらの霊のmuganga(癒し手、施術師)は、その就任に際して、医療上の父と母によって瓢箪で作られた、それらの霊の「子供」を授かる。その瓢箪は、中に心臓(憑依霊の草木muhiの切片)、血(ヒマ油、ハチミツ、牛のギーなど、霊ごとに定まっている)、腸(mavumba=香料、細かく粉砕した草木他。その材料は霊ごとに定まっている)が入れられている。瓢箪子供は施術師の癒やしの技を手助けする。しかし施術師が過ちを犯すと、「泣き」(中の液が噴きこぼれる)、施術師の癒やしの仕事(uganga)を封印してしまったりする。一方、イスラム系の憑依霊たちはそうした瓢箪子供をもたない。例外が世界導師とペンバ人なのである(ただしペンバ人といっても呪物除去のペンバ人のみで、普通の憑依霊ペンバ人は瓢箪をもたない)。瓢箪子供については〔浜本 1992〕に詳しい(はず)。
93 グロプ(gulopu, pl.gulopu)。「(フィラメント)電球」(英)globe より。
94 すでに出版された2冊の民族誌『秩序の方法』と『信念の呪縛』(いずれも買うには値段が高すぎ)の草稿とか校正用pdfが格納されています。IDとpasswordが必要ですので、そうまでしてでも読みたい方はご連絡ください。
95 これらについては[浜本, 2014『信念の呪縛:ケニア海岸地方ドゥルマ社会における妖術の民族誌』九州大学出版,pp.53-58]を参照されたい。
96 スワヒリ語ではアラビア語を語源とするロホは1.「心、気持ち、性格」2.「生命」3.「息」4.「のど、くび」5.「貪欲」(和崎洋一,1980,『スワヒリ・日本語辞典』養徳社)、あるいは1.soul,spirit,life,vital principle; 2. breath; 3. throat; 4.character, individuality; 5. greediness(A Standard Swahili-English Dictionary Nairobi: Oxford Univ. Press, 1995(originally published 1939)以下SSEDと略す)。「首」という身体部位に言及する用法もあるが、基本はより抽象的な生命原理や霊魂、人格、心的な状態などを指す言葉である。一方スワヒリ語のモヨは、1.「心臟」2.「心、気持ち、勇気、希望、願い」(和崎 1980)。1.the heart(the physical organ); 2. the heart, feelings, soul, mind, will self; 3. inmost part, core, pith, center; 4. courage, resolution; 5. special favourite, chiel delight; 6. desire, hope(SSED)である。こちらは臓器としての心臟が第一義で、それに様々な心的状態に言及する用法が続く。英語の heart とも似た感じか。そしてスワヒリ語のキブリは、1.「陰、影」2.「亡霊」(和崎 1980)、1.shade, shadow; 2. apparition, ghost(SSED)。スワヒリ語においては霊的な自己はrohoで言及され、臓器としての心臟とそれに結びついた心的状態がmoyoとして言及され、chivuliは人の構成要素とはみなされていないように見える。和崎 1980によると、rohoは死後、地下の死者の世界(kuzimu)に行き、死霊(muzimu)となる。肉体は持たないが影kivuliだけがあり、自分たちを思い出さない子孫に災いをなすとされている(和崎 1980: 469)。
97 アキリ(akili, pl.akili)。「知恵、知性、分別」などを意味する名詞。スワヒリ語とも共通。脳の頭蓋骨の大泉門があった辺りの下がアキリの場所とされている。
98 憑依霊の施術師は、自分で自分を治療することはできないとされている。仲間の施術師に頼んで、自分を困らせている憑依霊と交渉してもらうしかない。通常はその施術師の施術上の父や母に施術してもらうが、稀に施術上の子供にしてもらうことも、新たな施術師に依頼する場合もある。
99 ンゴマ(ngoma)。「太鼓」あるいは太鼓演奏を伴う儀礼。木の筒にウシの革を張って作られた太鼓。または太鼓を用いた演奏の催し。憑依霊を招待し、徹夜で踊らせる催しもンゴマngomaと総称される。太鼓には、首からかけて両手で打つ小型のチャプオ(chap'uo, やや大きいものをp'uoと呼ぶ)、大型のムキリマ(muchirima)、片面のみに革を張り地面に置いて用いるブンブンブ(bumbumbu)などがある。ンゴマでは異なる音程で鳴る大小のムキリマやブンブンブを寝台の上などに並べて打ち分け、旋律を出す。熟練の技が必要とされる。チャプオは単純なリズムを刻む。憑依霊の踊りの催しには太鼓よりもカヤンバkayambaと呼ばれる、エレファントグラスの茎で作った2枚の板の間にトゥリトゥリの実(t'urit'uri100)を入れてジャラジャラ音を立てるようにした打楽器の方が広く用いられ、そうした催しはカヤンバあるいはマカヤンバと呼ばれる。もっとも、使用楽器によらず、いずれもンゴマngomaと呼ばれることも多い。特に太鼓だということを強調する場合には、そうした催しは ngoma zenye 「本当のngoma」と呼ばれることもある。また、そこでは各憑依霊の持ち歌が歌われることから、この催しは単に「歌(wira101)」と呼ばれることもある。
100 ムトゥリトゥリ(mut'urit'uri)。和名トウアズキ。憑依霊ムルング他の草木。Abrus precatorius(Pakia&Cooke2003:390)。その実はトゥリトゥリと呼ばれ、カヤンバ楽器(kayamba)や、占いに用いる瓢箪(chititi)の中に入れられる。
101 ウィラ(wira, pl.miira, mawira)。「歌」。しばしば憑依霊を招待する、太鼓やカヤンバ102の伴奏をともなう踊りの催しである(それは憑依霊たちと人間が直接コミュニケーションをとる場でもある)ンゴマ(99)、カヤンバ(102)と同じ意味で用いられる。
102 カヤンバ(kayamba)。憑依霊に対する「治療」のもっとも中心で盛大な機会がンゴマ(ngoma)あるはカヤンバ(makayamba)と呼ばれる歌と踊りからなるイベントである。どちらの名称もそこで用いられる楽器にちなんでいる。ンゴマ(ngoma)は太鼓であり、カヤンバ(kayamba, pl. makayamba)とはエレファントグラスの茎で作った2枚の板の間にトゥリトゥリの実(t'urit'ti100)を入れてジャラジャラ音を立てるようにした打楽器で10人前後の奏者によって演奏される。実際に用いられる楽器がカヤンバであっても、そのイベントをンゴマと呼ぶことも普通である。カヤンバ治療にはさまざまな種類がある。また、そこでは各憑依霊の持ち歌が歌われることから、この催しは単に「歌(wira101)」と呼ばれることもある。
103 キヒ(chihi, pl.vihi)。「椅子」を意味する普通名詞だが、憑依の文脈では、憑依霊に対して差し出される「護符25」を指す。私は pingu、ngata、pande、hanzimaなどをすべて「護符」と訳しているが、いわゆる魔除け的な防御用の呪物と考えてはならない。ここでの説明にあるように、それは患者が身につけるものだが、憑依霊たちが来て座るための「椅子」なのだ。もし椅子がなければ、やってきた憑依霊は患者の身体に、各臓器や関節に腰をおろしてしまう。すると患者は病気になる。そのために「椅子」を用意しておくことが病気に対する予防・治療になる。カヤンバのときにも、椅子に座るよう説得することで、憑依霊が別の憑依霊を妨害することを防ぐことができる。同様な役割を果たすものに「馬(farasi)」104がある。
104 ファラシ(farasi, pl.farasi)。スワヒリ語で「馬」。ドゥルマでもそのままこの言葉を用いる。憑依の文脈では、とりわけイスラム系の憑依霊が、宿主の身体のかわりに滞在する依代(という訳語を使って良いものか、躊躇いはあるが)。憑依霊は宿主のところにやってくると、もしこうした場所が用意されなければ、宿主の身体のどこかに腰を下ろしてしまう。そうすると宿主は身体に苦痛を感じる。病気とはこうした形での憑依霊の到来である場合もある。というわけで、憑依霊が滞在する場所を用意してやることが、治療の一部となる。通常、こうした場所は「椅子(chihi103)」と呼ばれるが、具体的には施術師が患者に作って身に付けさせるピング(pingu)、ヒリシ(hirizi,herizi)、パンデ(pande)、ンガタ(ngata)など、とりあえず護符とでも呼んでおくが、こうした身に付けるなにかである。憑依霊はやってきたらこれらの椅子に座って、患者の身体に座らないので、患者は苦痛を感じずに済むのである。憑依霊を追い返すのではなく、むしろ迎え入れ滞在させてあげるものなので、魔除けを連想させる「護符」という言葉は不適切なのだが、あいにく代わりの言葉がない。それに対して、患者の「外」に憑依霊の滞在場所を確保する場合が「馬」である。鶏やその他の家畜が「馬」として差し出されると、憑依霊は患者の身体に座るかわりにその「馬」にまたがってくれるわけである。必ずしも生き物であるわけではない。除霊などの際に用いられる泥人形も「馬」と呼ばれることがある。
105 キユガアガンガ(chiyugaaganga)。ルキ(luki106)、キツィンバカジ(chitsimbakazi4)と同じ、あるいはそれらの別名とも。男性の霊。キユガアガンガという名前は、ku-yuga aganga つまり「施術師(muganga pl. aganga)たちを困らせる(ku-yuga)」から来ており、病気が長期間にわたり、施術師を困らせるからとか、カヤンバを打ってもなかなか踊らず泣いてばかりいて施術師を困らせるからとも言う。症状: 泥や灰を食べる、水のあるところに行きたがる、発狂。要求: 「嗅ぎ出し(ku-zuza)」の仕事
106 ルキ(luki)。憑依霊の一種。唱えごとの中ではデナ56、ニャリ57、ムビリキモ59などと並列して言及されるが、施術師によってはライカ(laika3)の一種だとする者もいる。症状: 発狂(kpwayuka)。要求: 赤、白、黒の鶏、黒い(ムルングの紺色の)布(nguo nyiru ya mulungu)、「嗅ぎ出し(kuzuza)」の治療術
107 ガーシャ(gasha)。憑依霊の一種。チャリの唱えごとの中では常に'kare na gasha'という形で言及される。デナ(dena56)といっしょに出現する。一本の脚が長く、他方が短い姿。びっこを引きながら歩く。占い(mburuga)と嗅ぎ出し(ku-zuza)の力をもつ。症状は腰が壊れに壊れる(chibiru kuvunzika vunzika)で、ガーシャの護符(pande)で治療。デナやニャリ(nyari57)の引き起こす症状に類するが、どちらにも同一視される(別名であるとされる)ことはない。デナと瓢箪子供を共有するが、瓢箪子どもの中身にガーシャ固有の成分が加えられるわけではない。ガーシャのビーズ(赤、白、紺のビーズを連ねた)をデナの瓢箪に巻くだけ。他にデナの瓢箪を共有する憑依霊にはニャリとキユガアガンガ(chiyuga aganga105)がいる。ソマリア内に残存するバントゥ系(ソマリに文化的には同質化している)ゴシャ(Gosha)人である可能性もある。その場合、民族名をもつ憑依霊というカテゴリーに属すると言えるかもしれない。施術師によっては、ガーシャをディゴ系の憑依霊だとし、rero ni reroやmandanoを同じグループに入れる人もいる。
108 ドゥルマの時間の捉え方は、イスラム世界(スワヒリ世界)におけるそれに類している。一日は日没に始まり、次の日の日没までである。日本の呼び方で午後7時は、スワヒリ・ドゥルマではsaa mwenga(saa moja in Kiswahili)つまり1時で、一日の最初の1時間が経過したことを示す。日本の正午(12時)はスワヒリ・ドゥルマではsaa sita、つまり6時である。日本の呼び方で午後6時はスワヒリ・ドゥルマではsaa kumi na mphiri(mbiri in Kiswahili)で、日没もこれを少し過ぎた頃。という訳でドゥルマ語で8時(saa nane)といえば、日本の呼び方では夜中の2時、あるいは昼の午後2時を指すことになる。
109 ウェブ頁にときおり手書きの図や絵が挙げられているが、フィールドノートにこうしたスケッチが描かれているわけではない。小屋に戻った際に暇があったら清書してみるみたいな感じで描いたもので、その数も少ない。そもそも絵は下手だし恥ずかしいが、写真もあまり真面目に撮ってないので、あれば仕方なくウェブで利用したというところ。フィールドノート内にあるのは、トホホな落書きばかりだ。

こんな感じの。
110 ク・フィニャ(ku-finya)。「覆う、閉ざす」を意味する動詞。eg. ku-finya matso「目を閉じる」。「予防的対処をする」意味でも用いられる。患者を主語にする場合には受動形 ku-finywa。eg. yunenda akafinywe nyongoo「彼女はニョンゴー111の予防施術をしてもらいに行く」, kufinya chilume 妖術使いの攻撃に対して全身を防御するための施術 etc.。ライカやシェラによって影あるいはキヴリ(chivuri2を奪われないようにする施術もク・フィニャと呼ばれ、ライカやシェラ、デナ、ニャリなどの施術師は通常の瓢箪子供の他にク・フィニャの瓢箪を所持している。この瓢箪の中身の薬(muhaso)は、キブリ探索行(maironi112)に同行する弟子たちが危険に遭わないように彼らに塗ってやったり、クズザ(kuzuza1)を終えた患者をクツォザ(kutsodza75)するのに用いられる。
111 ニョンゴー(nyongoo)。妊娠中の女性がかかる、浮腫み、貧血、出血などを主症状とする病気。妖術によってかかるとされる。さまざまな種類がある。nyongoo ya mulala: mulala(椰子の一種)のようにまっすぐ硬直することから。nyongoo ya mugomba: mugomba(バナナ)実をつけるときに膨れ上がることから。nyongoo ya nundu: nundu(こうもり)のようにkuzyondoha(尻で後退りする)し不安で夜どおし眠れない。nyongoo ya dundiza: 腹部膨満。nyongoo ya mwamberya(ツバメ): 気が狂ったようになる。nyongoo chizuka: 土のような膚になる、chizuka(土人形)を治療に用いる。nyongoo ya nyani: nyani(ヒヒ)のような声で泣きわめき、ヒヒのように振る舞う。nyongoo ya diya(イヌ): できものが体内から陰部にまででき、陰部が悪臭をもつ、腸が腐って切れ切れになる。nyongoo ya mbulu: オオトカゲのようにざらざらの膚になる。nyongoo ya gude(ドバト): 意識を失って死んだようになる。nyongoo ya nyoka(蛇): 陰部が蛇(コブラ)の頭のように膨満する。nyongoo ya chitema: 関節部が激しく痛む、背骨が痛む、動詞ku-tema「切る」より。nyongooの種類とその治療で論文一本書けるほどだが、そんな時間はない。
112 マイロ(mairo -gaga)。名詞として「速いこと、高速」。形容詞、副詞として「速い」「速く、高速に」。憑依の文脈では、「嗅ぎ出しku-zuza」の施術において、施術師が奪われたキブリを探しながら早足で(ほとんど走るように)人々を先導していく過程を、マイロニ(maironi)という言葉で表現する。
113 キリャンゴナ(chiryangona, pl. viryangona)。施術師(muganga)が施術(憑依霊の施術、妖術の施術を問わず)において用いる、草木(muhi)や薬(muhaso, mureya など)以外に必要とする品物。妖術使いが妖術をかける際に、用いる同様な品々。施術の媒体、あるいは補助物。治療に際しては、施術師を呼ぶ際にキリャンゴナを確認し、依頼者側で用意しておかねばならない。施術に必要なものは少量なので、なにかを少しだけ用いる際にも、これは単なるキリャンゴナだよ、などと言ったりもする。
114 施術師によっては、自分が先頭に立たず助手に瓢箪を持たせて先頭を行かせる者もいる。瓢箪をもった助手はけっして後ろを振り向いてはならないとされる。
115 ハムリ(hamuri, pl. mahamuri)。(ス)hamriより。一種のドーナツ、揚げパン。アンダジ(andazi, pl. maandazi)に同じ。
116 ペレメンデ(peremende, pl.maperemende)。スワヒリ語で(ドゥルマ語でも)「飴、キャンディ」、とくに「ハッカ飴。ペパーミント。」英語の peppermint より。いくつかの憑依霊の治療でも用いられる。
117 キトゥオ(chituo, pl.vituo)「中継地、仮泊まり場、駅」。スワヒリ語のkituo(p. vituo)に同じ。憑依の文脈では、憑依霊たちが移動の過程で滞留する場所。人にとっては危険な場所でもある。
118 フフト(fufuto, pl. mafufuto)。ムズカ14に溜まった枯れ葉やゴミ。これらを持ち帰って燻し(kufukiza119)に用いる。妖術使いが奪ったとされる犠牲者の汚れを取り戻す際に必要な手続き。
119 ク・フキザ(ku-fukiza)。「煙を当てる、燻す」。kudzifukizaは自分に煙を当てる、燻す、鍋の湯気を浴びる。ku-fukiza, kudzifukiza するものは「鍋nyungu」以外に、乳香ubaniや香料(さまざまな治療において)、洞窟のなかの枯葉やゴミ(mafufuto)(力や汚れをとり戻す妖術系施術 kuudzira nvubu/nongo)、池などから掴み取ってきた水草など(単に乾燥させたり、さらに砕いて粉にしたり)(laikaやsheraの施術)、ぼろ布(videmu)(憑依霊ドゥルマ人などの施術)などがある。
120 トロ(toro、pl.matoro)は「睡蓮」、Nymphaea nouchali zanzibariensis。憑依霊ディゴ人(mudigo)、シェラの草木(shera)。「睡蓮子神(mwana matoro)」はムルング(mulungu, mwanamulungu88)の別名。
121 ムニュンブ(munyumbu, pl.minyumbu)。Lannea schweinfurthii(Pakia&Cooke2003:386). 憑依霊ムルングの草木。冷やしの施術(uganga wa kuphoza)に用いる草木の一つ。
122 キロンゴジ(chilongozi, pl.vilongozi)。浮草の一種。Water Lettuce= pistia stratiotes
123 ムカンガガ(mukangaga, pl.mikangaga)水辺に生える葦のような草木, 正確にはカンエンガヤツリ Cyperus exaltatus、屋根葺きに用いられる(Pakia2003a:377)。ムルングやライカなど水辺系(池系)の憑依霊(achina maziyani)の薬液をキザ(chiza31)、池(ziya32)として据える際に、その周りに植える(地面に差し込む)など頻繁に用いられる。またムカンガガ子神(mwana mukangaga)は、憑依霊ムルング(mwanamulungu88)の別名の一つである。
124 クチ(kuchi, pl. makuchi)。エダウチヤシ(mulala、Hyphaene compressa)の葉で編んだマット。ディゴ地域ではエダウチヤシではなく、野生ナツメヤシ(mukindu, Phoenix reclinata)が用いられている。
125 サラサラ(sarasara, pl.sarasara)。小屋の屋根の棟
126 キヌ(chinu)。「搗き臼」。憑依の文脈では、laikaやsheraのための薬液(vuo)を入れる容器として用いられる。そのときはそれは「キザ(chiza)」「池(ziya)」などと呼ばれる。
127 キヴナ(chivuna)。動詞ク・ヴナ(ku-vuna)「収穫する、利益を得る」から、豊穣性、生命力、不思議な能力などの意味をもつ。
128 ク・カザ(ku-kaza)。「走る」を意味する動詞。また動詞の原形を後ろに従えて(ku-kaza + ku-~)「突然~する程度が上がる」。Mwero ukaza kutsowa akili「ムエロは急に分別をわきまえなくなった」。
129 子供を産んだ女性は、その第一子の名前に由来する「子供名(dzina ra mwana)130」を与えられ、その名前で呼ばれるようになる。例えば、第一子が女の子で、夫が自分の父の姉妹の名前(たとえばニャンブーラNyamvula)をその子に与えた場合、妻はそれ以降、周囲の人々(夫も含めて)から敬意を込めてメニャンブーラ(Menyamvula)と呼ばれることになる。第一子が男児でその名前がムエロ(Mwero)であればメムエロ(Memwero)になる。naniyoはドゥルマ語で「誰それさん」を意味するので、Menaniyoは「メ誰それさん」、つまり女性が与えられる子供名一般を代理する言葉となる。Mefulaniも同じ。同様に父親も子供の名前のまえにBeをつけたBenaniyoで呼ばれることになる。
130 ジナ・ラ・ムヮナ(dzina ra mwana)。「子供名」夫婦は第一子をもうけると、敬意をこめてその子供の名前にちなんだ「子供名」で呼ばれるようになる。第一子の名前は、それぞれのクラン(ukulume)ごとに、子供の祖父の世代の人名から一定の規則に従って選ばれた名前がつけられるが(たとえばムァニョータ・クランの場合は、長子には男児であれば、その子の父親の父の名前が、女児であればその子の父親の父の姉妹の名前がつけられる、といった具合に)、以後、夫はその子供の名前(例えばムエロ(Mwero))にちなんでその名前の前にベ(Be)をつけて(たとえばBemweroというふうに)、妻は子供の名前の前にメ(Me)をつけて(たとえばMemweroというふうに)呼ばれることになる。これが「子供名」である。
131 キリンゲ(chilinge, pl.vilinge)。妖術使いや施術師がおこなう、人々を驚かせるようなあれこれ。不思議。施術師たちについても、治療に際してそうした人を驚かせる不思議を見せる施術師たちがいると、よく言われる。これはいわゆる、見せかけのトリックのようなものも含むが、かならずしもすべてがインチキとされているわけではない。ただの見せかけのインチキもあるかもしれないが、実際に不思議を起こしている場合もあると。
132 ク・コポラ(ku-kop'ola133)は、スプーンなどの道具を用いて何かをよそい分ける動作を指す動詞であるが、施術の文脈では瓢箪のなかの薬を、瓢箪の舌(lulimi134)やその他の棒をつかって取り出す行為を指す。ここでは結社の施術師たちが、自分たちの集会を目撃した人物に術をかけるために、瓢箪の中身を舐めることを婉曲的に表現している。
133 ク・コポラ(ku-kop'ola)。何か道具を用いて料理などをすくいわける動作を指す動詞。「よそう」。施術のコンテクストでは、患者に舐めさせるために、あるいは自分自身が舐めるために、瓢箪の栓(「舌(lulimi)」)あるいは棒などを用いて、瓢箪の中の粉薬や蜂蜜に混ざった薬などをとりだす行為を指す。
134 ルリミ(lulimi)。「舌」を意味する名詞。ndonga(瓢箪)の栓の瓢箪内部に入っている部分もlulimi舌と呼ばれる。瓢箪子供の各部の名称については図92を見よ。
135 ク・ヘガ(ku-hega)。「罠にかける、罠でとらえる、罠を仕掛ける」。妖術の最も一般的な方法は薬(muhaso136)を用いて、犠牲者を罠にかけるというやり方である。ちなみにテープレコーダで(今日ならvoice recorderだろうか)録音することはドゥルマ語ではク・ヘガ・サウティ(ku-hega sauti)「声を罠でとらえる」である。
136 ムハソ(muhaso, pl. mihaso)。「薬」。ムハソ(muhaso)という言葉は、冷やしの施術(uganga wa kuphoza)や憑依霊の治療(uganga wa nyama)において用いられる生の草木(muhi, pl.mihi)、あるいは煎じて飲まれる草木なども含む広い概念であるが、単にムハソというと、ムレヤ(mureya, pl. mireya)あるいはムグラレ(mugurare, pl.migurare)と呼ばれる、さまざまな材料を黒い炭になるまで炒めて粉にした形態のものが、含意されている。こちらには妖術で邪悪な意図で用いられるものが多数あり、そのため、単になんらかの不幸や病気がムハソによるものだと言うことで、それが妖術によるものだと言うのと同義に解釈される。
137 キティティ(chititi)。占い(mburuga)に用いる、中にトウアズキ(t'urit'uri)の実を入れた小型瓢箪のマラカス。
138 ムブルガ(mburuga)。「占いの一種」。ムブルガをすることをドゥルマ語ではムブルガを「打つ(kupiga mburuga)」と表現する。相談者が占いに相談に行くことを婉曲的に「山に行く(kpwenda vilimani)」と言う言い方もある。ムブルガ(mburuga)は憑依霊の力を借りて行う占い。客は占いをする施術師の前に黙って座り、何も言わない。占いの施術師は、自ら客の抱えている問題を頭から始まって身体を巡るように逐一挙げていかねばならない。中にトウアズキ(t'urit'uri)の実を入れたキティティ(chititi)と呼ばれる小型瓢箪を振って憑依霊を呼び、それが教えてくれることを客に伝える。施術師の言うことが当たっていれば、客は「そのとおり taire」と応える。あたっていなければ、その都度、「まだそれは見ていない」などと言って否定する。施術師が首尾よく問題をすべてあげることができると、続いて治療法が指示される。最後に治療に当たる施術師が指定される。客は自分が念頭に置いている複数の施術師の数だけ、小枝を折ってもってくる。施術師は一本ずつその匂いを嗅ぎ、そのなかの一本を選び出して差し出す。それが治療にあたる施術師である。それが誰なのかは施術師も知らない。その後、客の口から治療に当たる施術師の名前が明かされることもある。このムブルガに対して、ドゥルマではムラムロ(mulamulo)というタイプの占いもある。こちらは客のほうが自分から問題を語り、イエス/ノーで答えられる問いを発する。それに対し占い師は、何らかの道具を操作して、客の問いにイエス/ノーのいずれかを応える。この2つの占いのタイプが、そのような問題に対応しているのかについて、詳しくは浜本満1993「ドゥルマの占いにおける説明のモード」『民族学研究』Vol.58(1) 1-28 を参照されたい。
139 「罠に掛ける」を意味する動詞ク・ヘガ(ku-hega)のprepositional formであるku-hegeraの受動態。
140 「罠に掛ける」を意味する動詞ク・ヘガ(ku-hega)の受動態。
141 ここで「翻(はため)く」と訳した動詞ku-phephaは布や旗が風でひらひらするさまを表す動詞である。キブリが翻くというのはおかしい気がするが、一応二つの解釈が可能である。(1)クズザの搗き臼にはしばしばムコネの枝がアーチ状に架けられ、それに三色の短冊状の布(chidemu142)が結びつけられている。これをキブリを捕らえる「罠(muhambo)」だと語る施術師もいる。それが翻くとキブリが到着した徴であるというのは筋が通っている。(2)他方、もしku-phephaphepha という動詞もあり、こちらは鳥が羽ばたいて飛ぶさまを表す動詞である。それならキブリが自分で飛んでやってくるという意味にもとりうる。とはいうものの、実際に使われている動詞はku-phephaであり、ムリンジ氏の説明ではキブリを瓢箪の中に引き込むことをku-hega「罠に掛ける」という動詞を用いて表現しているので、(1)の解釈が妥当であろうと判断した。短冊状の布切れ(chidemu)はキブリ(chivuri)と同じ名詞クラスに属しているので、ku-phepha はキブリが主語である場合と同じ現在形 chinaphepha になる。主語が明示されていないので、どちらともとれるのである。
142 キデム(chidemu)は布の端布一般を指す言葉だが、憑依霊の文脈では、施術の過程で必要となる3種の短冊状の布を指す。それぞれの憑依霊に応じて、白cheruphe 赤cha kundu 黒(実際には紺色)cha mulunguが用いられる。この場合、白はlaika及びイスラム系、赤はshera、黒はmulunguとarumwengu(他の内陸系憑依霊全般)を表す。
143 ドゥルマの14ある父系クランのそれぞれは、その成員にそのクラン独自の名前を与えている。子供が生まれると父親は、その子に自分の親の世代に属する名前の中から一定の規則(クランごとに若干異なる)に従って命名する。男児であれば、父の兄弟の名前(父の名前も含む)のなかから、女児であれば例えば父の姉妹の名前の中から。規則はある程度の自由度があり、生まれてきた子供の祖父母の世代の誰かが、生まれてきた子の耳をもって自分の名前を与えるといったことも許されている。名前のなかには、複数のクランに共通して見られる名前もある。命名された子供は、命名のもととなった祖父母世代の人の、あだ名や子供名130も受け継ぐので、名前のセットが継承される形になる。
144 ペーポー(p'ep'o, pl. map'ep'o)。p'ep'oは憑依霊一般を指すが、憑依霊アラブ人(Mwarabu)と同義に用いられる場合もある。ペーポー子神(mwana p'ep'o)という呼称は、憑依霊アラブ人に対する呼称。なお憑依霊一般については p'ep'oの他に、shetani145もあるが、ドゥルマ地域ではnyama(「動物」を意味する普通名詞146)という言葉が最も一般的に用いられる。
145 シェタニ(shetani, pl.mashetani)。憑依霊を指す一般的な言葉の一つ。スワヒリ語。他にドゥルマ語ではペーポ(p'ep'o, pl.map'ep'o)、ニャマ(nyama, pl.nyama)。p'ep'o はpeho「風、冷気、冷たさ」と関係ありか。nyama は「動物、肉」を意味する普通名詞。
146 ニャマ(nyama)。憑依霊について一般的に言及する際に、最もよく使われる名詞がニャマ(nyama)という言葉である。これはドゥルマ語で「動物」の意味。ペーポー(p'ep'o144)、シェターニ(shetani145スワヒリ語)も、憑依霊を指す言葉として用いられる。名詞クラスは異なるが nyama はまた「肉、食肉」の意味でも用いられる。憑依霊はさまざまな仕方で分類される。その一つは「ニャマ・ワ・ムウィリニ(nyama wa mwirini10)」と「ニャマ・ワ・クウサ(nyama wa kuusa11)」の区別。前者は「身体にいる憑依霊」の意味で人に憑いて一生続く関係をもつ憑依霊。憑依霊の施術師たちの手を借りて交渉し、霊たちの要求を満たしてやることで、霊と比較的安定して友好的(?)な関係を維持することができる。このタイプの霊の多くは除霊できない。後者は「除去の憑依霊」の意味で、女性に憑くが、その子供を殺してしまうので除霊(kukokomola9)が必要な霊。後者の多くは、妖術使いによって送りつけられたジネ系の霊で、イスラム教徒の施術師による除霊を必要とする。他にも「上の霊(nyama wa dzulu)」と呼ばれる鳥の霊たちがあり、こちらはドゥルマの施術師によって除霊できる。この分類とは別に憑依霊を、「海岸部の憑依霊(nyama wa pwani147)」あるいは「イスラム系の憑依霊(nyama wa chidzomba18)」と「内陸部の憑依霊(nyama wa bara148)」の2つに分ける区別もある。
147 ニャマ・ワ・プワニ(nyama wa pwani, pl.nyama a pwani)。「海岸部の憑依霊」。イスラム系の霊(nyama wa chidzomba18)に同じ。非イスラム系の土着の憑依霊たち、ニャマ・ワ・バラ(nyama wa bara)との対比で、この名で呼ばれる。
148 ニャマ・ワ・バラ(nyama wa bara, pl. nyama a bara)。「内陸系の憑依霊。」イスラム系の霊がニャマ・ワ・プワニ(nyama wa pwani, pl. nyama a pwani)、つまり「海岸部の憑依霊」と呼ばれるのに対比して、内陸部の非イスラム的な憑依霊をこの名前で呼ぶ。
149 ムコネ(mukone, pl.mikone)。冷やしの施術に欠かせない「冷たい草木(muhi wa peho)」。実は食用になる。Grewia plagiophylla(Pakia&Cooke2003:394,Maundu&Tengnas2005:255-256)
150 ングヴ(nguvu)。「力」「体力」「強さ」などを意味する名詞。人について用いられるとき、単に力持ち的な意味での人が行使できる「力」については別にムコツェ(mukotse)という単語がある。ングヴはいわゆる基礎体力的な意味での力である。クズザ(kuzuza1)の施術においては、ライカなどの憑依霊が奪ったキブリを、奪われた患者に「戻してやる(ku-udzira)」施術であるが、同時に患者のングヴを戻してやるという言い方も用いられている。
151 ライカ・ズズ(laika zuzu)。ズズ(-zuzu)は「愚かな」を意味する形容詞。属性などについては不明。ライカ・ズズによって奪われたキブリを戻す「嗅ぎ出し」を得意とする施術師がいるという話を1993年に聞く。この施術師は通常の「嗅ぎ出し」とは異なり屋敷内ですべてを行った。川にも池にもムズカにも行くことなく屋敷の庭に据えたchizaに奪われたキブリを呼び戻して瓢箪に入れ、それを患者に戻すという施術。
152 ムヒ・ワ・クジタ(muhi wa kujita)。「煎じる草木」。「煎じる薬(muhaso wa kujita)」ともいう。憑依霊の草木(憑依霊ごとに異なるかもしれない)の根や幹、枝を10cmほどの長さに切って束ねたもの。煎じてその液を飲む。ムヒ・ワ・クヌワ(muhi wa kunwa)「飲む草木」(あるいは「飲む薬(muhaso wa kunwa)」)ともいう。
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153 ク・ルマ(ku-ruma)。「唱える、唱えごとをする」。ク・ココテラ(ku-kokot'era)も同じ意味だが、ク・ルマは黒い粉状の薬(ムハソ(muhaso)やムレヤ(mureya))に対する唱えごとだと、区別する人もいる。名詞はマルミ(marumi154)で「唱えごと」の意。。
154 マルミ(marumi, -gaga)。唱えごと。マココテリ(makokot'eri155)と同じ。動詞、ク・ルマ(ku-ruma)「唱えごとをする」より。ku-ruma は薬(muhasoとくにmureya)に対するもの、ku-kokot'era は憑依霊に対するもの、と区別する人もいる。
155 マココテリ(makokot'eri)。「唱えごと」。動詞 ku-kokot'era「唱える 156」より。同じ意味の言葉に動詞ク・ルマ(ku-ruma153)から派生したマルミ(marumi154)がある。ku-ruma は薬(muhaso, とくにmureya)に対するもの、ku-kokot'eraは憑依霊に対するもの、と区別する人もいる。
156 ク・ココテラ(ku-kokot'era)。「唱えごとをする」を意味する動詞。唱えごとはマココテリ(makokot'eri)。ク・ルマ(ku-ruma153)も同じく「唱えごとをする」の意味だが、ク・ルマは黒い粉状の薬(ムハッソ(muhaso)やムレヤ(mureya))に対する唱えごとだと、区別する人もいる。
157 ムウィヨ(mwiyo, pl. miiyo)。「品物」全般を指す言葉で、具体的にはそれぞれの文脈で「容器、所持品、道具、入れ物」などと訳せる。ここではクズザの場で、憑依霊たち(ライカまたはシェラたち)に与えるためのキリャンゴナ(chiryangona113)を指している。
158 ルホツィ(luhotsi, pl mahotsi)。(赤ん坊の)泉門、ひよめき、頭頂部
159 ムバヴ(mbavu sing. pl.)。ルバヴ(lubavu,pl.mbavu)とも。「脇腹」正確には肋骨の側面部。
160 ク・ブェタ(ku-pheta)。箕などを用いて搗き臼で搗いたトウモロコシの粒を薄皮(wiswa)とふるい分ける動作を指す動詞だが、性行為や殺害の婉曲表現としても用いられる。憑依のコンテクストでは、憑依霊に奪われたキブリ(chivuri2)を取り戻すクズザ(kuzuza1)において、水場などから持ち帰った泥や草木をムルングの布に置いたムルングの紺色の布を横たわる患者の上1mほどの高さに広げ、それに大量の水を掛けながら、その布を2名で握った施術師の助手たちが、上下・前後に激しくゆり動かす動作を指す動詞としてのク・ブェタがある。
161 ハメハメ(hamehame, pl.hamehame)。本格的に治療する(ku-lagula162)する前に、とりあえず症状の緩和を目指して行う暫定的な応急治療や対処。ク・ヘンダ・ハメハメ(ku-henda hamehame)「ハメハメを行う。応急治療を行う」。
162 ク・ラグラ(ku-lagula)。「治療する」行為を意味する動詞。私が「治療する」「治す」と訳している動詞には他に、ク・ブォザ(ku-phoza163、字義通りには「冷やす」)やク・ティブ(ku-tibu164スワヒリ語で「治療する」「癒やす」)がある。本格的治療であるク・ラグラの前に、一時的に対処する治療はハメハメ(hamehame161)と呼ばれる。
163 ク・ブォザ(ku-phoza)は第一義的には「冷ます」を意味する動詞だが、人の病気を「治す」「治療する」という意味でも用いる。ク・ブォラ(ku-phola)は「冷める」「治る」。治療する行為そのものを指す動詞としてはク・ラグラ(ku-lagula162)がある。またスワヒリ語のク・ティブ(ku-tibu164)も同様に用いられる。
164 ク・ティブ(ku-tibu)。スワヒリ語で「治療する」「癒やす」を意味する動詞。ドゥルマでも普通に使われる。英語における cure, heal, treat(medically)などの意味をカバーしている。治療する行為を指すにはク・ラグラ(ku-lagula162)、「癒やす」、「治す」の意味にはク・ブォザ(ku-phoza163)がより一般的に用いられている。
165 ピチャ(picha, pl.picha)。「写真、絵」もちろん英語の pictureから来ている。しかしピチャは単なる「写真、絵」だけではなく、「模型」「模像」さらには「コピー」の意味も持つ。たとえば、私は帰国する際に施術師チャリから瓢箪子供をプレゼントされたことがあるが、このときチャリは「この瓢箪は、なかに心臟(削って作った木片)も血(ヒマの油)も薬(muhaso17)も入ってないただのピチャだから、心配しなくて良い」と言ってくれた。
166 ダルビーニ(darubini, pl.darubini)。ペルシャ語のdo-rbinに由来する外来語。「望遠鏡、双眼鏡、顕微鏡」などを意味する。特定できない場合には「覗き眼鏡」というやや古い言葉を用いることにした。
167 ク・フンガ(ku-funga)。「縛る、封印する、封じる、閉じる、結ぶ」などの意味の動詞。施術の文脈では、憑依霊や妖術によって縛られる状態を指す。この動詞の prepositional formであるク・フンギラ(ku-fungira)は悪いことが起こらないように防御するの意味ももつ。ク・フィニャ(ku-finya)「覆う、(目などを)閉じる」もku-fungiraと同じような意味で用いられる。
168 ホディ(hodi)。スワヒリ語で、家や部屋など様々な場所について、「入る許しを乞う」際の呼びかけの言葉。ドゥルマでも使われているが、エーニェ(enye)「(字義通りには)所有者の皆さま」という呼びかけのほうが普通。
169 ク・ジタ・コマ(ku-jita k'oma)。「狂気を煮る、狂気を煮立てる」。ク・ゴロモクヮ(ku-golomokpwa)とほぼ同じ意味。k'omaはドゥルマ語では「祖霊、夢」だが、ここでのk'omaはディゴ語で「狂気」を意味する。狂気を煮るとは、施術師の説明によると具体的には "aratu nyama akale asiru, ahende kazi haraka"(「それらの憑依霊を高ぶらせて(字義通りには「獰猛にして」)、彼らに仕事を速めさせる」)ことだという。mujita k'oma「狂気を煮立たせる者」は憑依霊シェラ(shera62)(または憑依霊ディゴ人)の別名。