動詞ク・ズザ(ku-zuza1)は、憑依霊に関する施術のコンテクスト以外ではほとんど使われていない動詞だが、「(何かを)匂いを嗅ぐことで探し出す、嗅いで探し出す」という意味だと説明される76。単に匂いを嗅ぐの意味でなら、ク・ヌツァ(ku-nutsa)が普通に用いられる動詞である。実際の施術では、別にクンクン嗅ぎ回るような所作も見られない。「嗅ぎ出し」という訳語は、より適切なものに今後、変える必要が出てくるかもしれない、がとりあえずこのまま使い続けることにしたい。
憑依霊の中には、人のキブリ(chivuri)を奪い去る者がいる。彼(それ)らによって、犠牲者のキブリがどこに連れ去られたかを見つけ、それを取り戻して、犠牲者に戻してやる施術がク・ズザである。その説明をする前に、キブリについて簡単に説明しておきたい。
人はさまざまな構成要素からできている。ある要素は人から分離することができる。別の要素は分離できない。人が死ぬときに分離する要素もある。キブリもそうしたものの一つで、 人(あるいは人格)から分離可能な実体である77。
キブリとは何かと尋ねたときに、もっとも普通に返ってくる答えは夢の経験である。キブリは夜、人が眠っている間に身体を抜け出す。夢とは眠っている間にその人のキブリが経験していることだ、という。
Hamamoto(H): 聞くところによると、人がもし別の土地を夢で見たとしたら、その人のキブリが実際にその土地に行ったということだと。 Murina(M): そうとも。あなたは誰それさんに夢の中で会うことができるね。あなたはその人物そのものに会っていると思うかもしれない。いえ、いえ。それはその人物のキブリなんだよ。つまりあなたのキブリが夜に出歩いて、その人物のキブリに出会ったというわけさ。 H: つまり、夜(夢の中で)しかじかのものを見ているのはキブリなんですか?それを見ているのはあなた自身じゃないと? M: あなたは見てませんよ。だって眠っていて、目を閉じてるじゃないかい?どうやってあなたにものが見えるっていうんだい。夢の中でものを見ているのは、あなたのキブリなんだよ。 (浜本注: この最後の理屈、気に入ってます!)
キブリは、祖霊(k'oma)78と関係づけられて語られることが多い。人が死ぬとその人のキブリが祖霊になると語る人は多い。祖霊(k'oma)は祖霊(k'oma)で、キブリとは違うという異論ももちろんあるが。キブリと祖霊の結び付きは、祖霊が生きている人々の前に現れるのがもっぱら夢の中でだという事実と関係があるだろう。祖霊は子孫に対する自らの要求が満たされないという理由で、子孫にさまざまな災いをもたらすが、その要求は夢の中でそれとなく(あるいははっきりと)示される。夢の中で祖霊に会っているのは、夢を見ている人のキブリなので、祖霊も当然キブリなんだろうということになる。
「青い芯のトウモロコシ」でお世話になった「懐疑主義」の長老で、私の哲学的対話相手だった方のお話をどうぞ。彼は、全ては「風(p'eho)85」だという独自の「風」一元論の持ち主だが、そこだけは差し引いて、祖霊とキブリの結び付き(こちらはドゥルマでごく一般的)に注目。(以下は抄訳です。段落冒頭の数字をクリックすると該当のドゥルマ語データ(全訳つき)に飛びます。興味のある方はそちらもどうぞ)
Hamamoto(H): ところでこのコマ(k'oma)78とは、どんなものなんでしょうか? ...夢を見せるコマそのものは、お前自身の夢のなかにいる。例えばお前は夢を見る。お前は夢を見る。知っている人たちがいる。お前はその人たちと交流する。それがコマと呼ばれる。 ロホ(roho)86は、言わば、人間の中に安置してあるものだよ。というのも、ロホはまさにこの辺(胸の中心部)にある。さあ、私はわからないんだけど、お前が夢を見れば、このロホが...。お前が夢を見るのは、お前が生きているからだね。でももしお前が死んでしまったら、お前はもはや夢を見ることはできない。もしかしたら(死んでも)夢をみるのかも。でも夢を見ていることは、私たちにはわからないだろう。それ以上にね、(死んだら)お前さんはやって来て人に夢を見させる者になるんだよ。
Jawa Mwero(JM): 本当のことを言えば、ロホはキブリだと言えるね。それ(死んだ人のロホ)は単に風(「気」?)だよ。そしてその風はというと、空気中にしか存在できない。それは上昇していくかもしれないし、別のところにいくかもしれない、でも、空気中にいる。だって、お前さんが眠っているそのときにそれはやって来ることができるんだから。お前さんは(夢の中で)、人がやって来るのを見る、その人はやって来てあなたに挨拶をする。「ご機嫌いかがですか」「何も問題はありません。あなたはどうですか」。そしてお前さんがその人をよく見ると、まさに彼(死んだ人)その人だ。お前さんはその人と挨拶し合う。 ねえ、私は思うに、そこにいるのは風なんだよ。もしお前さんが死ぬと、その風はお前さんから出ていく。だって、人間が死ぬっていうのは、風に殺されるってこと。それらの風が(人の身体から)出ていってしまうにつれて、風が身体の内部で減少してしまう。それまでさ。人は二度と息を戻すことはできない。あのロホっていうのは、ねえ、風なんだよ。身体の中のね。風が全部外に出てしまうと、お前さんにはもう望みはない。 ...(中略)... というわけで、それは風なんだ。(死ぬと)風は天に向かっていく。ここ風の領域を周回していくんだ。
Hamamoto(H): ところでコマ(k'oma)は、キブリ(chivuri)なんだと言われますが、そうなんですか? Jawa Mwero(JM): そう。キブリにすぎない。風なんだよ。人が死んだら、人が死んだら、この身体(mwiri)は土塊(udongo)だって聞いたことないかい?でも、そのキブリ、そのキブリは風のようなもの。なぜならムルング(mulungu87)によって中に置かれた(特定の臓器のような)モノなんかじゃないから。(モノだとしたら)それが変化して、そこから出ていって、あちこち動き回って、別の場所に出かけていくなんて、私が思うに、難しい話だよ。お前が(この世から)去るときには、お前はただ去っていくだけ。出ていくものは風だけさ。ところで人に夢を見せることだけど、(お前は死んだら)人に夢を見せる。お前は彼(自分の子孫)の道を知っているので、彼の風のところにやって来ることができるのさ。そうとも!
という訳で、祖霊(k'oma)とは死後身体を離れたキブリ(chivuri)にほかならない、という理論が誰もが認めるものかどうかは別として、両者が夢を軸に強く連想づけられていることは疑い得ないだろう。
キブリという言葉は、物体の影や陰、水面や鏡に映った像を指す言葉としても用いられる。物体の影や陰を指すにはキブリブリ(chivurivuri)という別の言葉もあるが、鏡に映っている像などは単にキブリと呼ばれる。こうした用法は最初の調査地「青い芯のトウモロコシ」でドゥルマ語の語彙を集めていたときに、すでに入手していた。この調査地で、はじめてキブリ戻しの「嗅ぎ出し」カヤンバを経験したのだが、帰国後、カタナ君がそれらに関する情報を自分で集めて、手紙で伝えてくれた。その中にこうした用法が実際に示されている。
「君が鏡のなかの自分自身を見れば,君に見えているのは自分のキブリである.」399
キブリは身体の部位としては、目(dzitso)、とりわけ瞳孔(mwana wa dzitso、字義通りには「目の子供」)と結びついている。キブリはある種の憑依霊や、妖術使いによって奪い取られるとされるが、施術師は患者がキブリを奪われているかどうかを、患者の目を見ることによって判断する。瞳の中に人の姿を認められなければ、それは患者がキブリを奪われていることを示す。私は、いや瞳に映ってるのはあんたの顔でしょうと無言のツッコミを入れていたが、施術師たちはそんな初歩的な勘違いをしているわけではなかったようだ。同じくカタナくんからの手紙の一節だが、
「妖術使いによってキブリが奪われた患者の症状は,嘔吐,頭痛などである.そしてもし君が患者の目を覗き込んでも,瞳のなかには君は見えない.たとえ君が患者の目の前で手を振っても,患者の目の中に君自身の像を見ることはできない.」446
瞳に写っているのが自分の姿であることは、当然、彼らにもわかっているのだ。ただキブリを奪われた人の瞳は、そこに誰も映し出すことができないということなのだ。これはこれで、ツッコミどころ満載なのだが。
キブリは人々にとっても、ちょっとした存在論的難問なのだろう。「青い芯のトウモロコシ」の先の哲学的長老は、かく語りき。
私が考えるに、あれら「目の子供たち(ana a dzitso =瞳孔)」こそ、夜になると出歩いていく者たちだと思う。あれら「瞳孔」たちは何の仕事をするためにそこに置かれているんだろうか。それは電球(gulopu93)なんだよ。瞳孔っていうのはこんなふうなんじゃないかな。お前さんが私の目を見ると、お前さんはそこに自分が見える。そして私がお前さんの目を見ると私には自分が見える。ただの鏡みたいなものだね。つまり、電球さ。その中にいる者たちは?ときに連れ去られるそいつらが、キブリだよ。そしてお前さんが奪われたら、お前さんは病気になる。なんで病気になるんだい?奴ら(妖術使いたち)は、本当にあれら(目の子供たち)を奪ったんだろうか、それとも奴らは「風、気体(p'eho)」を奪ったんだろうか。
これは引用箇所のデータの一部だが、暇な方は是非当該データ(引用冒頭の数字をクリックすると飛びます。リンク先に日本語全訳もつけています)の最後まで読んで、この懐疑主義者の議論を味わっていただきたい。彼の持論である、すべては「風」なんだ!という「風」一元論だ。
キブリは、妖術使いや、ある種の憑依霊たちによって奪われることがある。キブリを奪う「キブリの妖術(utsai wa chivuri)」と、奪われたキブリが切り殺される前にそれを患者に取り戻す「キブリ戻しの施術(uganga wa kuudzira chivuri)」については、すでに別のところで簡単に紹介94しているので、ここでは特に触れない95。憑依霊関係に限りたい。
すべての憑依霊が人のキブリを奪えるわけではない。人のキブリを奪うのは、主にライカ(laika, pl.malaika)3と呼ばれる憑依霊のグループの霊と、シェラ(shera, pl.mashera)62である。キツィンバカジ(chitsimbakazi, pl.vitsimbakazi)4も奪うが、キツィンバカジはしばしばライカの一種の扱いを受ける。
これらの憑依霊は人のキブリを奪って、自分の棲み処に連れ帰る。妖術使いと異なり、憑依霊がこうした振る舞いに及ぶのは、彼らが犠牲者をク・ツヌカ(ku-tsunuka)した、つまり「惚れた、気に入った、目をつけた」ためで、妖術使いと異なり犠牲者を殺害すること自体を目的としたものではないとされている。それゆえ、それらの霊との交渉によって奪われたキブリを取り戻すこともできるのである。理論上。
キブリを奪われた人はどうなるのだろうか。 実は意外なことに、キブリを奪われても、奪われた本人はその事実に気が付かないらしい。いつも通りに生活を続ける。ただ体調は損なわれる。憑依霊によってキブリを奪われていると、全身に倦怠感を覚えたり、朝夕に悪寒と激しい頭痛に見舞われたり(昼間はなんともないのに)、吐き気を感じたり、食欲がなくなったり、水をよく飲むようになるという。うん、たしかにこの程度なら、単なる体調不良で済ませるかもしれない。
ただ油断してはいけない。妖術使いは奪ったキブリを瓢箪に閉じ込めて、痛めつけ、最後はキブリを切ってしまう。そうなるとキブリの持ち主も死んでしまう。憑依霊の場合は、気に入って連れて帰ってしまったので、そう過酷な目には合わないが、でもベニィーロ老人(キナンゴ近郊に住む面白い老人)のお話にもあるように、憑依霊からキブリを取り戻すのに失敗すると、場合によってはキブリを奪われた病人は死ぬ場合もあると考えられている。人本体から離れたキブリが死ぬと、本体の人も死亡すると考えられているので、占いなどでキブリが奪われていることが判明すると、できるだけ早くクズザによってそれを取り戻す必要がある。
ライカに本格的に憑依されてしまうと、夜中に炉の場所に行って灰を食べたり浴びたりし、灰まみれになったり、ライカの種類によっては土を食べ始めたり、口がきけなくなってしまったり、昏倒して口から泡を吹いたり、痙攣したりとたいへんなことになる場合もあるそうだ。ライカの側でなにか叶えてもらいたい要求、例えば薬液を浴びたいとか、草木を食したいとか、人間を訪問した際の椅子が欲しいとか、ンゴマで踊りたいとか、がある場合は、こうした本格的な災いによって苦しめられることになる。これらは、個々の要求を満たしてやることによって、解放される。そこではライカたちも他の憑依霊たちとほぼ同じモードで行動している。ライカたちの究極の要望は、もちろん彼らに「仕事」が与えられること。つまり目をつけ惚れた人間に、施術師になってもらうことである。
人間の立場から見ると、キブリを奪われることも、ライカ側からの人間に対する迷惑行為の一つということになるが、特になんらかの要求を満たす目的がライカの方にあるわけではないという点で、他の迷惑行為とはいささか異なっている。クズザされること(つまりせっかく奪ったキブリを取り返されること)を求めて、キブリを奪うライカがいるのかどうか、怪しいものだ。もしいたとしたら、相当な「かまってちゃん」ライカだ。
上述のベニィーロ氏の語りにもあるように、クズザでは、施術師と憑依霊ライカたちとの間での闘い、一つのキブリの奪い合い、という側面に照明が当てられている。これは、要求をかなえてもらうための、一種脅迫に近いせがみとそれを解除してもらうための、憑依霊をなだめすかす交渉という、施術師と憑依霊との通常の関係性とはやや異質だ。
もっとも霊たちの究極の欲求、宿主に施術師になってもらいたいという欲望があって、いろいろ迷惑をかけてきている場合には、当然キブリを奪って棲み処に隠すことも彼らが繰り出してくる迷惑行為に含まれているとも言えるかもしれない。ライカの施術師になる「外に出す」ンゴマには必ずクズザのプロセスが含まれている。
身体の中にあるときは、水面や鏡に映ってこちらの正確な物真似をして見せ、本人が眠ると、外に出ていろいろなところに出かけていろいろな人に会い、そうしたキブリのもつ経験を本人は夢として共有する。ときには妖術使いに呼び出されて捕まえられてしまったり、憑依霊にさらわれて憑依霊の棲み処に連れて行かれる。でもキブリがこうしていなくなっても、本人は気がつかない。体調不良に苦しむが。もちろんキブリがいなくなっても夢は見る。眠ればキブリ自身がもっている経験を共有できるので。空を飛んだり、水に潜ったりする夢はドゥルマではありふれている。見知らぬ美男・美女(彼らも憑依霊、有名どころではペポムルメ19とか)と性関係をもったりも。まあ、キブリがそういうことをやっているわけだ。本人が死ぬと、キブリは解き放たれ、祖霊(k'oma)となって、子孫の夢の中にやってくるだろう。子孫は夢の中で、死んだお父さんの訪問をうけたり、お父さんの要求を聞かされたりすることになる。死んだ後は、キブリは死者そのものとして子孫と交流する。
では、キブリは我々の言うところの「霊魂」なんだろうか。でも霊魂が(妖術使いにさらわれたりして)なくなっても人は普通に生きていけるのだろうか。家族や隣人と会話をしたり、職場の上司に給料の前借りを求めたりするのだろうか。霊魂無しで。有りえないような気がする。というか、そもそもこの問い自体がおかしい。無理やり、日本人の自分たちに理解できるおなじみの概念に、キブリを落とし込んでやる必要もない。人々がどのような言葉で、何をどのように語っているのかを示し、そこからわかることだけで十分なのだ。
キブリと関係のありそうな、ロホ(roho)とモヨ(moyo)という二つの言葉がある。いずれも、人の感情や認識や存在について語る際に登場する言葉である。スワヒリ語にもこの3つの言葉ロホ(roho)、モヨ(moyo)、キブリ(kivuli)があるが、ドゥルマ語におけるそれぞれの意味は、スワヒリ語での用い方とも微妙に異なっている96。
スワヒリ語においては、もっぱら非物質的(霊的?)な部分に関わるロホは、ドゥルマ語では臓器としての心臟でもある。
rohoが心的な実体、あるいは一種の生命原理として語られる用例
roho ra madzi 直訳「水のroho(水でできたroho、水っぽいroho?)」意味「思いやりがある心」
yuna roho ra kurya「彼は食べるというrohoをもっている」(=彼は食いしん坊だ)
Dzitsoka kumala pesa. Roho yamba nende jeso. Roho yende sipitali.「(施術師たちの治療に)お金を使い果たしてしまうのには、もううんざり。rohoが言いました。キリスト教にお行きなさいって。rohoを病院に行かせましょう。」
ni kushononeka ro rohoro, ndo mufundo kare 「あなたのrohoが悲しむと、それこそが(災いを相手にもたらす)ムフンド(mufundo84)なのです。」
uchilaa phapho manya tsongo adzuka na rohoro nao. 「(その術が発動すると、犠牲者の身体をハタオリドリの群れが包み込む。)その後は、ハタオリドリたちはお前のrohoといっしょに飛び去ってしまうのさ」術の結果、「命」がハタオリドリたちによって運び去られて、犠牲者は死ぬということ。
どちらともとれる用例
Yo roho kpwahuka, be kukala na wasiwasi, yo roho yinatanga. 「rohoが破裂すると、そう、不安になるのです。rohoは当てもなくさまよい歩きます。」(心臟破裂とか、不安程度では済みませんよね。心臟がさまよい歩くとか、比喩でしょうね。)
明らかに臓器としての心臟を指す事例
Sambi kuno mukonowe u hiphano phangu rohoni. 「さて、この人の手は、ここ私のrohoのあたりに(置かれている)あるのです」。rohoni= 心臟という具体的臓器のあるあたりに=「この人は私の胸に手をあてているのです。
roho kuuka chidzako. hata si kpwahuka, amba rinaphonda rosi. Ro roho ni riahuke, sambi rikpwatye dudu dudu hata sambi. 「rohoはときに逃げ出す。破裂するとは言わないけれど、(roho)全体でドスンって撞く(大きな動悸)。さて、rohoが破裂すると、さあ、突然ドゥドゥッ、ドゥドゥッ(ドキドキ)ってなるのよ。ずっと。」
Vivi kakuna roho kpwahuka, roho kpwenda mairo, chunu kutoka, magulu kuvunzika vunzika (唱えごとの一部)「これより、rohoが破裂することは、なし。rohoが速くなることもなし。腰が折れることは、なし、脚がすごく痛む(字義通りには「折れ壊れ、壊れる」)こともなし」(一連の身体症状が列挙されていく中で)
一方、モヨ(moyo)は、スワヒリ語同様、臓器としての心臟を指すと同時に、それに結びつく心的状態や生命を意味する用い方がある。
臓器としての心臟
kudunda kpwa moyo 字義通りには「心臟における鼓動」だが、意味は「脈がある」
ukonogo wa moyo 「心臓病」
kpwererwa ni moyo 「心臟にもちあげられる」(吐き気がする)
心的な実体、状態や行動
ku-henda moyo (字義通りには「心する」)意味は「(利益などを)独り占めしたくなる」
ku-tiya moyo (字義通りには「心を注ぎ込む」) 意味は「元気づける」
ku-lembwa ni moyo (字義通りには「心に騙される」)意味は「気の迷いで~する、出来心で~する」
kodzaza na moyo (字義通りには「心を満たす」)意味は「(秘密など)心に大切にしまい込む」
utu wa moyoni (字義通りには「心の中のもの」)意味は「心中の不快感」
kugomba chimoyomoyo (字義通りには「心でしゃべる」) 意味は「独り言を言う」
生命
yuchere moyo (字義通りには「彼はまだ心だ」) 意味は「彼はまだ生きている」
ku-wala moyo (字義通りには「心をもってくる」)意味は「死にそうな気がする」
ku-uya moyo (字義通りには「心に戻る」)意味は「生きかえる」
最後にスワヒリ語のキブリは「影、陰」以外には「お化け、幽霊」の意味しかなく、夜中に勝手に行動したり、夢を見せたり、死後祖霊として存在し続けたりすることはないので、ドゥルマとの共通点は少ない。なおスワヒリでは死後、地下の死者の土地に行くのは人のロホである。
ざっと一瞥しただけだが、スワヒリ語の用法では、ロホとモヨとキブリの間には明確な切り分けがあり、モヨが身体(臓器)との結び付きを保持しているのに対し、ロホとキブリは特定の臓器を意味することはない。それに対し、ドゥルマ語では同じ3つの言葉で語られるものはそれほど明確に切り分けられていない。あえて言えば、ロホとモヨはともに同じ臓器(心臟)の意味で用いられ、意図や欲望や感情といった同様な「心」的状態を帰属させている。それに対してキブリは、特定の臓器との同一視はなく(瞳孔との結び付きがあるが)、また情動的な側面よりも、人間の心的現象の認知的な側面を強調したものとして描かれている。 しかし、それを言うならたとえばドゥルマ語では「耳」(sikiro, pl.masikiro)は「感じ、理解し、納得する(ku-sikira)」心的活動の場であるし、「目」(dzitso, pl.matso)は、物を見分け、認識する心的活動の担い手であり、頭の内側はアキリ(akili ちなみにこれもスワヒリ語と共通する単語である)「情報や知識、分別や論理」の場としてとらえられているなど、他にもいろいろ出てくるだろう。
以下にその一部を紹介する憑依霊に対する唱えごとは、患者の身体の各部に「薬」をすり込みつつなされる唱えごとである。憑依霊が人の身体にやってくるときに、どこに腰を下ろしてはならず、どこに腰を下ろすべきかを諭している。
(DB 6694) (ムリナ、彼の「薬」を患者の身体の各部分に擦り込みつつ。なおこの患者は彼自身が施術師であり、最近、癒やしの術のがうまく行かなくなったため、その治療をムリナ氏に依頼したものである)
Murina: 憑依霊、足(lwayo)にとどまること、なし。憑依霊、人差し指(chala cha moloho)にとどまること、なし。憑依霊、足の甲(chifumba)にとどまること、なし。憑依霊、くるぶし(ngunyu)にとどまること、絶対になし。この脚...憑依霊たちは全員、そこから立ち退くこと。そうすれば、この者、旅があっても、疲れることなし。アキレス腱あたりが痛むこと(ndangu)なし。憑依霊、ふくらはぎ(tsafi)にとどまること、なし。憑依霊、膝(vindi)にとどまること、なし。憑依霊小指(chala cha kanda)にとどまること、なし。憑依霊、手首(chitengu)にとどまること、なし。憑依霊、肘(chikokorito)にとどまること、なし。憑依霊、肩関節(fuzi)にとどまること、なし。憑依霊、腰(chibiru)にとどまること、なし。憑依霊、背中(mongo)にとどまること、なし。憑依霊、肩関節(fuzi)にとどまること、なし。憑依霊、首の後ろの棘突起(ringo ringo ra tsingo 出っ張っている骨)にとどまること、なし。憑依霊、そこ、鎖骨の上のへこんでいる部分(linga nzalani)にとどまること、なし。憑依霊、心臟(roho)だけにとどまること、なし。憑依霊、心臟の洞穴(panga ya moyo)にとどまること、なし。憑依霊、その仕事は、目(matso)に登ること。目が、この者を癒やしの術的に熟させること。憑依霊、両の肩にまで登り、憑依霊、頭頂の大泉門のあった辺り(luhotsi)より入り込む。憑依霊、その仕事は、アキリ(akili97)の場所にとどまること。アキリを癒やしの術的にかき混ぜ、この者が、誰が病人で誰が罪人であるかを見分けるように。憑依霊、後頭部にとどまること、なし。憑依霊、頭頂の大泉門のあった辺りにとどまる。今、憑依霊はそこにとどまる。このように私は憑依霊をここに置く。憑依霊を、私はアキリの場所に置く。
憑依霊は、宿主のもとにやってくると、座る場所が与えられていない場合、宿主の身体の、さまざまな部分に腰を下ろしてしまう。それがさまざまな身体症状で宿主を苦しめることになる。憑依霊の病気とは、最初はもっぱら、これだ。患者に対して施術師が与えるさまざまな「護符」(と訳するのは何とも不適切なのだが)は、患者に憑いた憑依霊たちに対して差し出される「椅子(chihi)」、憑依霊たちが腰を下ろすことができる「椅子(chihi)」であると説明される。憑依霊自身が求めているのである。しかし、憑依霊の施術師自身は、「椅子」などを用意してもらうこと98で憑依霊が患者のさまざまな身体部位に腰を下ろすことを防ぐと同時に、憑依霊に自分の身体のある部分に「腰を下ろし」てくれることを求めている。それがアキリ(akiri)つまり「分別、道理、知識、情報、知性」の場所、つまり頭の中(それと「目」)だ。上記の唱えごとは、それを実にストレートに表明している。他の場所には座らないでほしいが、そこだけには座って欲しいと、言っているのである。
ちなみに上の唱えごとの中では言及されていないが、憑依霊が人間のところにやってきて、そのまま居座るもう一つの場所がある。それは「血(milatso)」である。人々は「憑依霊は血だ(nyama ni milatso)」としばしば語る。宿主の血は、憑依霊がそこに居座って、安住する場所でもある。そして血を通じて、例えば母親に憑いている憑依霊が、そのまま生まれてくる娘の血にも棲みついてしまう場合すらある、というか、多い。母娘が同居している場合はよいが、娘が婚出した場合に、これが問題になる。母娘のどちらかが憑依霊と「争い(kondo)」あるいは「論争(maneno)」に入った場合(つまり憑依霊の側に何か要求があり、宿主の側がそれをかなえずにいる状態)、母娘二人いっしょにンゴマを受けねばならないとされているからである。というわけで、各人がそれぞれの憑依霊問題を別個に処理できるように、「憑依霊を分ける(ku-gavya nyama)」ンゴマを開催することになる。
私が憑依霊の施術師たちといつもつるんでいるのに、なぜこいつは憑依霊にとり憑かれないんだということが話題になるときに、「だって憑依霊は血だって言うでしょ」と答えると、不思議に納得してもらえたりする。しらんけど。
こうなるとドゥルマでは、憑依霊は人間のさまざまな場所にパーツとして着脱可能なそうした存在だと言いたくなる。外からやって来て、勝手に一体化したり、離脱したりするのが憑依霊たちである。だったら、人間の生まれながらもっているパーツのなかにも、着脱できてしまうのがいても、いいじゃないか。それがキブリだ。スワヒリの人たちのあいだにおけるように、ロホにも一部着脱可能性があるともいえる。死んだらロホは空気中に出ていってしまう、と済ませてしまう人もいるが、キリスト教徒のようにロホが天国にいくんだという人もいる。でもロホはドゥルマ語では心臟という特定の臓器でもあるので、着脱可能性はスワヒリ語での場合のようにはいかない。そんななか、かなり柔軟な着脱可能性を楽しむパーツがキブリであると考えると、楽しい。
キブリを取り戻す施術が、「嗅ぎ出し」クズザ(ku-zuza)であるが、それを行うことができるのは、これらの霊と関係を打ち立てているこれらの霊を持ち霊とする施術師たちである。そもそも、これらの霊の施術師は、これらの霊から「クズザの施術」を要求された(これらの霊がクズザの仕事を欲しがった)ために、それらの霊について「外に出された」者なのだ。クズザの施術師となる者は、したがってキブリを奪う憑依霊たちに取り憑かれている(惚れられている)者であり、彼ら自身のキブリも奪われている可能性が高い。というわけで、これらの霊について「外に出される」際には、徹夜のンゴマ(あるいはカヤンバ)に先立って、彼ら自身がンゴマを主宰する施術師によってクズザしてもらわねばならない。
多くの霊は、ンゴマ(ngoma99)を開いてもらって踊らせてもらえば、それでその要求が満たされるのだが(他にも必要な布や、椅子(chihi103)や、「鍋(nyungu30)」や浴びるための「薬液(vuo33)」、煎じて飲む「草木(muhi21)」、さまざまな備品を折にふれて要求はするけれど...やっぱり面倒くさい人々だが)、いくつかの主要な憑依霊たちは、その究極的な要求として「仕事」を欲しがる。つまり、自分が目をつけた人間に憑依霊による病気、つまり自分たちが引き起こした病気を癒す仕事をしてもらいたがる。
これは一見、不思議なことのように思えるかもしれないが、ンゴマにせよ、鍋にせよ、草木にせよ、これらの要求全ては、人間による憑依霊に対する饗応行為だと考えると、不思議ではなくなる(少しは)。憑依霊の病気に対する治療行為、癒やしの術とは、憑依霊に対する饗応の行為であり、その仕事を務めるよう要求するということは、つまり自分たちを饗応してくれるいわば接待専門係を、目をつけたこれらの特別な人間たちに務めさせようとしているということなのだ。もちろんこれは私の解釈ではあるが、そうとしか言いようがないでしょ。
ただクズザについて、他の憑依霊の施術と違っているのは、憑依霊がせっかく奪い取ったキブリを取り戻す行為は、どう見ても、憑依霊に対する饗応とは言えそうにない点である。すでに挙げたベニィーロ老人の語りに見られるように、施術師自身の見解はいざ知らず、ベニィーロ氏のような非専門家の目には、クズザは施術師と憑依霊との対決、ときには(目には見えない存在との)格闘とすら見えているのだ。私自身は出会ったことはないが、カタナ君が1984年の手紙で報告してくれたAli Mashuaという施術師の話しのように、施術師自身が憑依霊との対決、格闘を施術の特徴として強調するケースもあるようだ。 もちろん後に説明するように、私の知り合いの施術師たちは、力ずくで取り返すというよりも、対価を差し出して交渉によって取り戻すという見方をしているように見えるので、その場合、キブリを返却する憑依霊にとって利得がまるでないというわけではない。しかしそもそも憑依霊がキブリを奪うことが、それと引き換えに何かを手に入れるため、という訳ではないので、やはり上記の、憑依霊の病気に対する治療=憑依霊に対する饗応、という公式(勝手な公式を作るなと言われそうだが)は、クズザには当てはまりそうにない。
同じことは除霊(ku-kokomola)の施術9についても言えるかもしれない。饗応によって宿主とその憑依霊たちとの関係を良好に保つことに主眼をおいた諸々の施術の正反対とも言える、宿主と憑依霊との関係を断ち切り憑依霊を閉め出してしまうという除霊ク・ココモラは、事実、憑依霊の施術師とは別のカテゴリーの施術師たち(妖術系の施術師や、ニューニ(nyuni)と総称される特殊な霊(上の霊とも呼ばれる)の施術師)によって行われる。
それに対して、クズザは憑依霊の施術師の仕事である。それゆえ、おそらく憑依霊との上手な付き合いという施術の基本の範疇に収まるはずだと期待できる。
クズザの異例な点として、人のキブリをとっていく憑依霊以外の霊も、自分がつきまとっている人間に、(最終的には)クズザの施術をするよう求めることがある。人間を病気にすることによって、クズザの施術をする施術師になるように要求する憑依霊としては、デナ(dena56)や、レロニレロ(rero ni rero61)、マンダーノ(mandano60)、ニャリ(nyari57)、キユガアガンガ(chiyugaaganga105)、ガシャ(gasha107)らがいると話には聞いているのだが、これらの霊は人のキブリを奪うという行動モードをもっていない。幸か不幸か、実際にこれらの霊を持ち霊としてそれによってクズザをしている施術師に出会ったことがないので、ここでは一応、そんな話もあるよの報告までにしておきたい。
もっとも「嗅ぎ出し(クズザ ku-zuza)」という行為は、奪われたキブリを探し出すという意味で用いられるのが普通だが、失せ物を探し出すとか、共同体の内部に潜んでいる妖術使いを探し出すとかの施術(後者は、一般的には「祈願の施術(uganga wa kuvoyera)」と呼ばれるが)についても用いられることがないわけではないので、そちらなのかもしれない。いずれにせよ、乏しい私の知識ではなんとも言えない。
憑依霊によって奪われたキブリを探し出し、取り戻す施術は、そのキブリを奪ったとされる憑依霊(本人なのか、単に同じカテゴリーの霊なのか、そのあたりは曖昧)を持ち霊とする施術師が、その持ち霊に憑依された状態で行う施術であり、一般には奪われたキブリが隠されている霊の棲み処まで行って、そこでキブリを返してもらう(取り返す)というもので、ライカやシェラの施術師によって行われる。
施術師が自分の持ち霊のライカに、誰かのキブリを奪わせ、同じく自分のライカでそれを取り戻してみせる、なんていうマッチポンプのようなことは起こらないのかと、つい勘ぐってしまうが(私だけか?)、ライカについてはそんな可能性を問題にする人に会ったことはない。でも、1950年代に突然流行し始めたというシェラについては、年配の女性たちの中にそうした疑いを持つ人もいる。けっこういる。
特定の憑依霊の施術師になるということは、その憑依霊あるいは憑依霊のグループを「外に出す」(それは患者を「外に出す」ことでもある)施術を受けることである。徹夜のンゴマ(ngoma99)を開き、その場で憑依された患者=憑依霊に対して、その憑依霊の瓢箪子供が差し出される。患者は憑依霊に導かれて(憑依された状態で)夜明けにブッシュに入り、その憑依霊の最も重要な草木を人から教えられることなしに見つけてつかみ取ることで、その能力を証明しなければならない。ライカやシェラなどの、キブリを奪う憑依霊の施術師も、同じプロセスを経ることで施術師となる。しかし施術師としてのキャリアを、いきなりライカやシェラの施術師から始めることはできない。患者にとって最初に「外に出される」憑依霊は、憑依霊の筆頭であるムルング(mulungu87、またはムルング子神88)でなければならないからである。ムルングに続いて、病気になおも苦しめられている患者に対して、他の重要な霊が順番に外に出されていく。その中でライカとシェラは比較的優先順位の高い霊である。
つまりクズザの施術を行うことができる施術師は、それ以前に施術師としてのある程度の経験を積んだものであるということである。
クズザは単独で行われることもあるが、しばしば他のンゴマ(カヤンバ)と組み合わせて実施される。そちらは具体的事例の中で見ていただくことにして、ここではクズザが単独で行われる場合の手順について簡単に説明しておきたい。といっても、後に述べるように、施術師によってかなりのバリエーションがあるので、おおまかな共通パターンの紹介に限ることになるが。
前出のベニィーロ老人の語りにもあるように、一般の人がクズザについて語るときには、施術師が奪われたキブリを探しに出る場面からである場合がほとんどだ。そこからが見ものだから。しかし実際に行われたクズザについて時間をおかずに聞いた場合は、それがまず屋内で患者を座らせてその周りでカヤンバを打つところから、話が始まる(というか語り手が老齢の場合、水場やムズカまでの駆け足はきつくて、ついて行けないからなのかも、だが)。
604 ...(略)...
Hamamoto(H): 一昨日のカヤンバ、何時に始まったっておっしゃってましたっけ? Memose(M): 9時(午後3時108)に始まりましたよ。まず病人に(カヤンバを)打ってあげるところから始まって、その後で施術師に打ってあげたんですよ。 605 Memose(M): 病人が最初にカヤンバを打ってもらったんですよ。そして、さあ、施術師に(カヤンバ演奏の輪の中に)座ってもらったときには、病人はすでに席をたってました。その後施術師がカヤンバを打ってもらい、すぐに憑依状態になりました。そこで、さあ、施術師は(屋敷を)出発して、ムズカ(muzukani14)まで病人(のキブリ)を受け取りに行きました。 Hamamoto(H): どこのムズカだったんですか? M: ああ。さてどこのムズカかは私は知りません。 H: つまり、あなたはムズカにはいらっしゃらなかったと? M: いえ。夕方をすぎるとね、この脚がもう痛くて言うことをきかないんですよ。 ...(略)...
実は最初に行われるこの患者に対するカヤンバは、患者がもっている他の憑依霊たちのためのものだ。カヤンバが開かれているのに、自分が招待されていない(自分のための曲が演奏されない)と、これらの霊たちが嫉妬して施術を妨害するかもしれない。患者がもっている霊が少ない場合、ムルング(mulungu87)と憑依霊アラブ人だけが、さっと演奏されるだけだが、たくさんの霊をもった患者の場合には、この前段階だけで何時間もかかってしまうこともある。憑依霊は嫉妬深い、これはどんなに強調してもしすぎではない。もちろん患者の持ち霊でもある、キブリ誘拐の犯人であるライカやシェラの歌も演奏され、患者もゴロモクァすることが期待されている。
この第一段階が、他のカヤンバとの組み合わせで行われるクズザで省略されたり、簡単に済まされるのは、当然のことである。憑依霊たちはすでに他のカヤンバの方でその欲求を満たされるのであるから。
その後、戸外に設置された「池(ziya)」の前に施術師が腰を下ろし、カヤンバ演奏者たちによる演奏が始まる。池とは、搗き臼にライカ等の憑依霊の草木で作成された薬液を入れたものである。カンエンガヤツリ(mukangaga)などが植えてあり(地面に差し込んであるだけだが)、ライカやシェラの棲み処に見立ててある。(下のスケッチ109は1983年「青い芯のトウモロコシ」村で私が初めて見たクズザの際に用意されていた「池」である)

やがてライカ、あるいはキツィンバカジあるいはシェラなどクズザを行う憑依霊に憑依された施術師が、右手に蝿追いハタキをもって一頻り踊った後、周囲の人々にクフィニャ(kufinya110)の瓢箪のなかの薬を塗ってまわると、いきなり、拐われたキブリが隠されているライカ等の棲み処に向かって勢いよく出発する。施術師はけっして後ろを振り向かない。蝿追いハタキを右手に持ち瓢箪を左手に持った施術師の後ろに、憑依霊に差し出すヒヨコやその他のキリャンゴナ(chiryangona113)を入れた編み袋をもった弟子、カヤンバ演奏隊、見物人たちが続く114。このキブリ探索の過程はマイロあるいはマイロニ(maironi112)とも呼ばれる。この探索行においては、何人たりとも施術師を追い抜いて、その前を行ってはならない(muganga kachirwa)。
キリャンゴナ(chiryangona113)は、白、黒2羽の鶏(ヒヨコ)、バナナ、ココナツ、サトウキビ、揚げ菓子(hamuri115)、ハッカ飴(飴というよりも白い錠菓 peremende116)、トウモロコシ粒、シコクビエ(wimbi)など。施術師によって違いはあるが、2羽の鶏、バナナ、揚げ菓子、ハッカ飴、雑穀の粒はほとんどのクズザで共通しているように思う。灰を水で団子状にした灰ケーキ(mukahe wa ivu)は、施術師によってはマイロニに持っていったり、「池」の周りに並べたりなどの形で、よく使われている。
携行されるキリャンゴナは、それぞれ細かく切られたり、砕かれたり、ときに水に溶かれたりしており、マイロニの途中で立ち止まって撒かれたり(それで方向を変えているように見える)、訪問先のムズカに投げ込むなどの形で捧げられたり、川の深みなどでは水中に撒かれる。2羽の鶏の白い方は、訪問先で屠られるが、黒い鶏の方は羽をむしられて撒かれるだけで生きたまま持ち帰られる。
施術師が何箇所のライカたちの棲み処あるいは滞留場所(chituo117)を回るかは、一定していない。何箇所も回る施術師もいれば一箇所で済ませる施術師もいる(それどころかマイロニにまったく行かない施術師もいたりするが、これは特殊なので、後述しよう)。 一箇所ごとにキリャンゴナのなにがしかを差し出し、ムズカやバオバブなどの大木であれば洞窟や虚穴の中に溜まった塵芥や落ち葉など(これらはマフフト(mafufuto118)と呼ばれ、後に患者を燻したり、薬液に加えたりするのに用いられる)を、川の深みや池であれば水中に入って底の泥や、睡蓮(matoro120)やムニュンブ(munyumbu121)、浮草(vilongozi122)、岸辺のカンエンガヤツリ草(mukangaga123)などを採集して持ち帰る。回った場所の一番重要なところで、白い鶏を屠って捧げ血を撒く。 その際の唱えごとなどは、カヤンバ演奏の騒音でほぼ聞き取ることは不可能である。
一般のドゥルマの人々は、こうして持ち帰ったものの中にキブリが入っていると理解している(何度も出てきたベニィーロ老人の語りからもわかるように)。施術師自身による説明は、少し違っているのだが。
これが済むと、後は屋敷に戻るだけである。帰途はカヤンバも屋敷近く(屋敷への分かれ道に)に着くまで演奏されないし、人々も行きとは違って、ダラダラ雑談しながら歩いて帰る。施術師を追い越してはならないという規則は、帰り道でも有効なはずなのだが、守られていないこともある。チャリの場合、帰りもとっとことっとこ速歩なので、ついて行く方はすごく疲れる。チャリによると、キブリを獲っていった憑依霊がライカ・ムエンド(laika mwendo「高速ライカ」44)の場合は、施術師は大急ぎで走って、また大急ぎで戻ってこなければならないのだという。さもないとせっかく取り返したキブリをまた奪われてしまうのだとか。
一行が屋敷に近づくと、カヤンバ演奏が再開される。
一行が帰ってくるまで、患者は小屋の中で床に敷かれた茣蓙(kuchi124)の上で仰向けに横たわり、その上からムルングの黒い(紺色の)布で全身を覆われて、じっと人々の帰りを待っている...。はずなのだが、私がマイロニをサボって屋敷に残っているほとんどの場合、ムウェレは一行が出ていくと、小屋から出てきて屋敷の女性たちと雑談を楽しんでいる。カヤンバの音が聞こえてきて、慌てて立ち上がり小屋の中に入って大人しく寝ていた風を装うのだ。なんだよ~。もっと真面目にやれよ~。
施術師を先頭に戻ってきた一行は、ムウェレが寝ている小屋の周りを時計回りに周回し(一回の場合もあるし複数回周回するときもある)、施術師と助手たち、カヤンバ奏者たちが小屋に入る。この際、施術師によってはまっすぐに入らず、後ろ向きになって背中から小屋に入るという形をとる者もいる。
カヤンバが演奏されている中、持ち帰った瓢箪の栓をとり、瓢箪の口をムウェレの身体の各部分に当てて、強く息を吹き付けていく。耳から始まり、目、鼻、身体の各関節部を経て手足の先まで念入りに。時折瓢箪の中身(液体部分は蜂蜜)を舐めさせたりもする。これによって奪われたキブリを患者に戻すのだという。その後、ムルングの一枚布を助手とともに広げ持ち、寝ている患者の上6~70cmほどの高さに広げ、その布の真中に持ち帰った、川底(池底)の泥、草木類、ムズカの塵芥などを置き、その上から盛大に薬液(vuo)やバケツの水を注ぎながら、布を前後左右に動かして水をムウェレに注いでいく。
続いて、寝ていたムウェレを茣蓙の上に座らせ、再び頭上に広げた泥入りの布にバケツの水を盛大に流し入れ、水を降り注ぐ。その後、クフィニャ(kufinya110)の瓢箪のなかの薬で患者をクツォザ(kutsodza75)する。上述の瓢箪の中身を舐めさせるのを、ここで行う施術師もいる。クツォザの代わりに薬を患者の各関節に擦り込むだけの施術師もいる。
ムウェレを小屋の外に連れ出し、手足を勢いよく振り、蹴り出す動作を行わせる。終了。その後、締めのカヤンバが演奏されることもある。
これでほんとうに終了。
この基本パターンにほぼ忠実なクズザの例(録音等一切しなかったのでフィールドノートのメモのみで、特に事例の中には挙げなかったデータ)
先に紹介したクズザの手順は、多くのクズザにほぼ共通に見られるプロセスであるが、実際には、施術師によるバリエーションが大きい。話しに聞いただけで実際に見たことはないが、なんでも中にはキブリ戻しの際に、施術師が小屋の屋根の日本家屋で言えば棟にあたるところ(sarasara125)に登って草葺の一部を剥がし、その穴から室内に寝ているムウェレの心臟のあたりを狙って薬液を注ぐなどという手続きを踏む施術師もいるという(DB 2408-2409)。トタン葺の屋根だったら難しいと思うが。また同じく話しに聞いただけだが、キブリ探索に手鏡を用いる施術師もいるらしい。こうした細かい工夫の違いをいちいち挙げるつもりはない。
しかしなかには「キブリ探索行」を一切省略する、などという思い切った変異形でクズザをやる施術師がいて、これには私もびっくりした。その施術に出席した後、チャリたちにこの点を尋ねてみたのだがその答えも、当時は私にはよくわからないものだった。どうもこの変異形を巡っては、キブリを取り戻すというこの施術の主眼点について、大きな理論的な立場の違いがあるようだ。なにしろ取り返さねばならないのはキブリという、それ自体とらえどころのない、存在論的にも一筋縄ではいかない対象だ。水底の泥を持ち帰って、それでなぜキブリを取り戻したことになるのか、本当に取り戻せているものは何か、キブリ探索行マイロニ(maironi)が本当に必要なのか、どうして必要なのかについては、あれこれ理論的に模索している施術師がけっこういるようなのである。
1990年1月にムルングを「外に出し」施術師としてのキャリアを始めたムニャジさんは、なかなかの理論家でもある。 以下、クズザについてのムニャジとの会話。いろいろ面白い話だったのだが、途中からテープを上書きしてしまった(ごめんなさい)ため、無事だった出だしの部分のみ。最初は、クズザで水のなかに入っていくのが危険だと指摘する施術師が多いという話から...
Munyazi(Mn): その怖いっていうのが、わからないわね。なに? 見てると水の中に沈み込むからって?わからないわね。水の中のなにが怖いっていうの?あんた、何が怖いの? Hamamoto(H): 私はわざわざブーツを脱ぐのが面倒なだけだけどね。 (笑い) H: まあ、水の中にはヘビがいるなんて聞いたけど。 Mn: ああ、くじ運だね。心配しないで。水の中に入っていく人(施術師)が、馬鹿だと思うの? H: いえ、いえ。 (笑い) Hamisi Ruwa(R): えーと、例のキブリですが、それを取り返したら、まるでキブリがとり憑いた人みたいに、あなたは何の仕事もできなくなると聞いたのですが。ただ全速力につぐ全速力で、家まで、病人がいる家まで行くんだと。 Mn: なんのために? R: えーと、例のキブリですが、もしあなたがそれをあちらで取り返したら、あなたはそこからの帰り道で他の用事は何もできない、ただ全速力でまっすぐ病人のいる家まで行くんだと。 Mn: さてさて、あんた、あのつむじ風が通り過ぎて、くるくる回っていく、その動きをあんた、どう見るね? H: とっても速いです。 (笑い)
Munyazi(Mn): いや、行って、少し停まったかと思うと、ブッ(動きの速いさま)、行ってしまうんじゃないの?進んで、ちょっと止まって、あっという間に行ってしまう。さて、そんなふうに人(人のキブリ)は、つむじ風によって、もって行かれてしまう。だからあんたも、そんな風に(素早く)しなければならない。だって、もしあんたがゆっくりしていると、さあ、キブリはきっと戻ってしまうのよ。 Ruwa(R): キブリは戻ってしまいうるのですか? Mn: あんたは高速で行かないと。 R: キブリは戻ってしまうかもしれない? Mn: そうよ。 R: でも瓢箪の中にいるのでは? Mn: でも戻ってしまうのよ。瓢箪の中にいるからって、何なのよ。戻ってしまうのよ。 (笑い) Hamamoto(H): でもその瓢箪には栓がしてあるのでは? R: そうそう。キブリが入ってくると、すぐ瓢箪には栓がされる。 Mn: それはそのとおりよ。でもね、あなた... R: その後、キブリを病人に戻してあげるそのときに、あなたは栓をあけることになりますよね。
Munyazi(Mn): まずね、小屋の内側に入ったとしたらね、瓢箪はここのところに最初に置かないといけないのよ。 Ruwa(R): 心臟のところに(rohoni)? Mn: 心臟のところによ。 H: おお、病人のね? Mn: なんでかっていうと、(瓢箪は)そこから出発して、ここ(心臟の場所)に来ないといけないから。 R: 病人の? Mn: 病人のよ。 H: つまり耳から出発する? Mn: そうよ。その意味はね、ここ(耳の中)こそ、その中にまず最初に吹込んでもらう場所なのよ。それからここと、ここと、そして目ね。その後(瓢箪を)ここ(心臟のところ)に座らすのよ。 Ngoloko(Ng): つまり、あなたは両耳と、鼻と、それから両目に吹き込むんですね? Mn: そうよ。 R: そうやってキブリを戻してやるというわけですね? Mn: そう。あなた、もしあちら(霊の棲み処)から本当にキブリをもってきたのなら、そもそもね、あなたがまだ完全に戻し終える前に、病人が早くも踊り始めるのよ。でも踊らないのなら、ああ、あなたは失敗したのよね。 H: というわけで、キブリは、ここと、こことここから入るんですね。
Ruwa(R): つまりあなたはあの瓢箪で、両耳、鼻、両目、口... Munyazi(Mn): つまり、その人の風(p'ehoze85)が入るようにね。 Hamamoto(H): 要するに、キブリはそれらの風のことなんですか? Mn: そうよ。でもね、それで人は治るのよ。なに?あなたは、人間そのものが(憑依霊に)運んでいかれるって言うの? (笑い) H: そうするとキブリは単に風だと。ところで、もうひとつ質問があるんですけど。あの搗き臼(chinu126)ですが、その意味はなんでしょう。クズザの際の。 Mn: なに?搗き臼? H: はい。クズザの際に、搗き臼が外に置いてあるじゃないですか。それにどんな役目があるんですか? Bora(B): 彩色をしっかり施されてね。 Mn: ああ、あの搗き臼は、その人を獲っていったそいつを、引き寄せるためのものだよ。たとえ、それがあのサンブル(「ジャコウネコの池」村から約60キロ離れた地名)(みたいな遠いところ)にもっていかれていたとしても、結局ここに戻っているようにね。 R: え、そいつって誰のこと? H: ライカのこと、それともシェラ? Mn: あいつライカよ。あなた、あなたはこの近所の人を治療するんでしょ。でも、すごく遠くにいる人(その患者のキブリ)でも治すことができるじゃない?それとも、あなたマイロニでここから出発して、はるばるサンブルまで走っていって、その人のキブリをそこからもってくるとでも言うの? (笑い)
Hamamoto(H): そりゃ、無理だ。 Munyazi(Mn): だから搗き臼をおいて、その人を引き寄せて、ここに来させないとね。 Ruwa(R): なるほどね。じゃあ、そんな風に人を遠方から来させる、だってあなたはその人を引き寄せるって言うんだから。だから、あなたはその人のキブリを引き寄せると。その搗き臼でね。ということは、池に行ったりする必要はないのでは? Mn: 行くともさ、行くともさ。 R: でもあのキブリは... Ngoloko(Ng): つまり彼のキブリは遠方から持ってこられている。 R: そのいたところからね。 Mn: 知らないのかい?そちら(搗き臼にキブリを呼び込んでおくこと)は施術師の秘技のようなもの(chivuna127)。人々はそれをあまり信用していない。人(のキブリ)はその搗き臼がそのように置かれていることで、そこに(やって来て)とどまっている。さて、施術師は忙しくたちまわって、終わらせる。でも、病人の屋敷の人々は、お前さんが本当に病人にキブリを戻したのかどうか、確信がもてない。お前さんが高速で走ってあげなくちゃ(lazima paka ukaze mairo)128112。というわけで、お前さんはあちら(憑依霊の棲み処の水場など)に行くことになる。でもね、患者(のキブリ)は、そこにいるんだよ。とうの昔に帰ってきている。 R: おお、その人のキブリは搗き臼のところにいるんですね。 Mn: そこにいるとも。だって、そこ(搗き臼の周り)に別の瓢箪が置かれているでしょうが。さあ、その人(のキブリ)はそこ(その瓢箪の中に)にいるのよ。 R: おお、そういうわけで、その点はよく納得できます。でも... Ng: それでは、ひとことで言うと、君には搗き臼の役目がわかったんだね...
Ruwa(R): うん、なぜなら、あなたは彼ら施術師たちもまた、ライカに奪われたキブリを(病人に)戻そうとするときには(そうしていると)ご存知だから... Munyazi(Mn): 私を「外に出し」てくれたあの女性、あなた知ってるわよね。 Hamamoto(H): うん、知ってます。あのメなんとかさん(Menaniyo129).. Mn: メジェファさんよ。あの人はクズザしないのよ。高速で走りはしないのよ。 H: そうですね。さらにチャリさんを「外に出し」た彼女の施術上の父、ニャマウィさんは、屋敷の中だけでクズザを済ませます。搗き臼のところで。川にも行かない、池にも行かない。 R: おお。ということは、そうするのは(川や池に走っていってキブリを取り戻してみせるのは)施術師たちの単なる目眩まし(vilinge vya aganga131)ってことですか?なんと、搗き臼には役目があるんだ。 Mn: ううむ。施術師の目眩ましとは言いませんよ。高速走りを施術師がやりたいからやってるだけだとも言いませんよ。あなた、私があなたに言うとしましょう。「この私の仕事はすべてここで終わらせますよ」って。そしたらあなたは、私があなたのお金をだましとろうとしていると言うでしょうよ。「お前さん、ムズカにも行く前に、どうやってこの人(のキブリ)を戻すっていうんだい?」そこでもし私があなたに「私ならこの場でできますよ。だって必要なものは全部ここにあるんですから」と言ったとしたら、あなたは言うでしょう。「あなたなんて施術師じゃない。あなたには癒やしの術は無理だ。さあ、お帰りなさい。私は別の人(施術師)を探します。」ってね。そうなの、病人の家の者が、ああいったマイロ(mairo112)を求めているのよ。それっ、それっ、それって(出発を促す掛け声)。戻ってくるときには、あなたがた全員、身体のあちこちがとっても痛い(重労働のせいで)。そうしてこそ、あなたはまさしく施術師ですって言ってもらえるのよ。でも、はっきりさせておきましょう。すべての問題はここ(搗き臼のところ)で解消してたのよ。
Ruwa(R): あの(水場などに)行って調えることは、単に意味のない作業ってこと? Munyazi(Mn): まずね、こんなこともありうるのよ。こんな風に行くと、つむじ風とすれちがうかもしれない。そのつむじ風があなたにその人(のキブリ)をもって来てくれるのよ。つむじ風は進んで、あちらの搗き臼のところで、いったん速度を落とす、ゆっくりゆっくりしたと思うと、ヴッ、去っていく。(つむじ風が運んできた人(のキブリ)は)、もう(搗き臼の下に置いてある瓢箪の)中に戻っている。あなたは(マイロで)向こう(水場など)に行って、到着したときには、もうすっかりここでは用意ができている。そう理解してよね。 Hamamoto(H): そんなわけで、施術師のなかには、搗き臼のところにムコネの木の枝で罠を仕掛けたりする人もいるんですね。 Mn: そうよ、罠をしかけるのよ。 R: ところで、もしそんな風に罠を仕掛けたら、それに(キブリが)かかったかどうか、どうやって知るんですか?
(ああ!残念、この後30分近くに渡って続いたムニャジさんとのやり取りは、その後テープレコーダーの操作ミス(もちろん私の)によって、ろくでもない無駄話の録音によって上書きされてしまった!!しばらく、この手のミスはなかったんだけど、油断していた。おまけに録音しているからと安心して、会話中にメモをとらなくなっていた。その分、会話にちゃんと参加できていたということはあったのだが。この後には、搗き臼に罠を仕掛けることの是非、その他についての興味深い話が続いていたのだが、何も残っていない。)
施術師ムニャジさんの語りは、若者たち(私を含む?)がよってたかって投げかけた質問に対応する中でそういう事になったのかもしれないが、クズザの施術そのものが含む矛盾した二つの側面を明らかにしている。奪われたキブリを取り戻す二つのやり方があるということに。 一つは、搗き臼のところにライカらキブリを奪う憑依霊が大好きな草木の薬液を用意していて、そこでキブリは回収できるというもの。キブリは搗き臼の脇に置かれてある瓢箪に捕獲される。これは普通の人は知らない話である。でも、施術師なら知っていることのようだ。
もう一つは、誰もが知っているように、施術師がライカの棲み処であるムズカや水場を探し当て、そこからキブリを持ち帰るというもの。普通クズザというと、施術師でない普通の人々が考えているのはこちらである。
問題は、両者を同時にやる意味がないという点。一方でうまくいくのなら、他方は必要がないことになる。ルワ君が執拗に質問を繰り返す。最初は、ライカの棲み処への駆け足で行うキブリ探索(マイロ112)は、する必要がないのではという問いに、「私はしますとも」と答えたムニャジさんだが(そしておそらく実際に彼女自身は自分のクズザの施術ではマイロをやっているに違いない)、自分の施術上の母がクズザをマイロ抜きで行っていること、キブリを奪ったライカの棲み処が超遠方であるケースを自分から持ち出すことで、搗き臼があれば十分だという方に、彼女の重点が移ってしまう。では、なぜ彼女はマイロを必要だと考えるのかと問われ、マイロをしなければ依頼人たちが満足しないという驚くべき答えが提出される。
ただ、マイロの無用性をつくルワ君の質問に対して、マイロを正当化する試みも見られる。マイロを行うと良いこともある。途中でライカとすれ違って、ライカ自身が自分で病人のキブリを返しに行ってくれるからという理由があげられている点には、注意すべきだろう。ライカ自身が、搗き臼のところに自分からキブリを返しに来てくれるというわけである。これはマイロを行わなくても、搗き臼の場所でキブリが回収可能だとする話と、呼応している。搗き臼の役割を尋ねた私の問いに対する、彼女の最初の答えでは、「この人を連れて行ったそいつ(hiye mutu yeriye wawala yuyu)」を引き寄せるとなっており、hiye mutu は、患者(yuyuこの人=病人)を連れて行った者であり、ライカ(あるいはシェラ)であることが示されている。そうすると、搗き臼はライカを呼び寄せる装置だったのだということには、ならないだろうか。
ところで、この日本語訳でムニャジさんが、キブリという言葉を用いずに、「人」がライカによって運び去られるとか、「人」を連れ戻すという言い回しを用いて、私がその都度訳文のなかで括弧内にいちいち「のキブリを」という補足をしていたのだが、この翻訳操作が妥当だったのか若干疑問に感じている。ただムニャジの答えを通して、憑依霊によって連れて行かれ取り戻すべき「人」と、憑依霊によって奪われ取り戻すべきキブリは、ほぼ互換的であることもうかがわれる。むしろ注目すべきは、瓢箪から患者にキブリを戻す肝心の作業について、一貫して「風を戻す」という言い方になっている点である。キブリ=風のようなものという理解でよいのだろうか。このあたりの概念のゆらぎもきちんと押さえて置かねばならないところだろう。
ここでは、施術師の中にはより積極的に罠を仕掛けて搗き臼に患者を引き寄せる者がいるということが録音された最後のトピックになっている。録音はここまでだが、ムニャジさんがそれが可能であることを認めたうえで、続けてそのやり方は妖術っぽいので好まないと語っていたことを最後に付け加えておきたい。
さらに極論で、キブリ探索そのものが不要だと主張する施術師の一人、ムリンジ氏との短い会話を挙げておきたい。まったくためらい無しで、キブリは搗き臼を介して瓢箪の中に呼び込むことができると言う。ここまでためらいが無いと、議論も単純である。
5460 (途中から録音開始。瓢箪の中にキブリが呼び込まれると瓢箪のなかでキラキラ光るのでわかるという。キブリが来ていないと中は真っ暗でなにも見えないのだがと。)
Benyawa Murinzi(BM): お前さんには星が見えるだけ。瓢箪のなかでキラキラと光る。その人(のキブリ)がやって来たんだ。 Hamamoto(H): へえぇ!洞窟であれ、川であれ、どこであれ行く必要はないんですね。 Woman1: そこに採りに行くって、何を採ってくるんだい?葉っぱよ! BM: 搗き臼のところで、つむじ風が旋回しているのが見えるだろうよ。 H: 搗き臼のところでですか? BM: お前さんには、搗き臼のところでつむじ風が回っているのがみえるんだ。パ、パ、パ、パ、パって。さあ、(キブリが)到着した、さあ、お前さんは何を求めてあちら(ムズカや水場)に行くというんだい?その人を持ち上げて(その人のキブリが入った瓢箪を持ち上げて)、行くのもその人と一緒、そしてその人と一緒に帰ってくるだけ。その人はとうの昔にやって来ているんだよ。かつては施術師たちの結社があって、彼らは目撃されると彼らの瓢箪の(中身を)舐めていたもんだよ132。でももしお前さんがそこに来るのに慣れてしまえば、彼らがお前さんを困らせることはない。お前さんは目隠し囲いの中に腰を下ろす。すぐに(瓢箪の中に)病人(のキブリ)を取り込(kumuhega135)んでくれる。さあ、私たちは会話でも楽しむさ。瓢箪子供たちはそこにある。さて、私は道の分かれ目8箇所(の土)と2箇所のムズカ((muzuka14)のマフフト(mafufuto118))を採ってきて、ここに置いておこう。そして(キティティ(chititi137)をジャラジャラ。ちょうど占い(mburuga138)を打つみたいにね。さて、会話でも楽しみましょうか。私は彼に、「ほら、行ってあなたの病人(のキブリ)が到着したかどうか見ておいで」と言う。「行きましたが。ああ、マディワさん、何なんですか?」私は彼に言う。「ちょっと前にお前さんがその瓢箪を見たとき、そんな具合だったかい?」「いいえ、いいえ。」「今はどう?」「瓢箪の中が明るくなってます。まるで(黒い)薬が入ってないみたいに。」「さあ、(キブリを病人に)戻してやりに参りましょう。彼が治るように。」 H: つまり、キブリはそんなふうに取り込む(kuhegerwa139)ことができるんですね。 BM: こんなふうにね。どんなキブリでも、全部。ライカの(に奪われた)キブリであれ、薬(muhaso17)による(薬を用いて妖術使いが奪った)キブリであれ、どんなキブリも捕まえられるさ(vinahegbwa140)。
Hamamoto(H): とすると、洞窟や川に行く必要はないんですね。なんと! Murinzi(BM): そこへはね、そうするのが楽しいの(raha)なら行けばいい。でも仕事はここ、瓢箪子供のところで済むんだよ。 H: ここ、搗き臼のところでね、それと瓢箪でね。つまり、キブリは自分でやってくるんですか? Man1: 自分でやってくるんだよ。 BM: それ自身で翻いて141、そうすると到着だよ。 H: すごく遠方にとりに行かねばならないキブリでさえ? Man1: そうとも、自分からやってくるんだよ。 BM: 海岸部の(に連れて行かれたキブリ)も、到着する。ゾンボ山のも、到着する。そちらから引っ張られて、ここにやってくる。 H: キブリが到着したのがどうやってわかるのですか? Man1: 施術師たちの秘密の知識さ。マジネ(majine15)の施術師は、モンバサにいるお前さん(のキブリ)をここに呼び出すことができるじゃないかい。お前にマジネを送りつけることもできるし。 Man2: 施術師たちは、いい奴らじゃないよ。 H: どうして? Man2: 人(のキブリ)を切る奴は、施術師というより、妖術使いだよ。でも良い施術師は、人を治療して治す人さ。妖術使いは死んだら、火の場所に行く。でも治療ができるお前さんは、火の場所には行かないよ。 (以下はBMに治療を依頼しにやって来た人に名前とクラン所属を尋ねるやりとり) BM: あなたの名前はなんというのですか?あなた、私にそちらに来て欲しいとおっしゃってますね。 Man2: 私はムァゴンベ・ワ・ニャマウィと申します。 BM: どちらの父系氏族の方ですか? Man2: ムァヤワ氏族です。 BM: へえ、あなたがた私をとってるんですね(私の氏族のメンバーにつける名前と同じ名前を付けているんですね143)。
ここで述べられている見解は、私が聞いた中では最も極端な立場である。キブリ探索取り戻しのマイロ(mairo112)という、一般の人々にとってはクズザを最も特徴づける行為を、まったく意味のない行為として却下している。葉っぱをもって帰ってくるだけだ(発言はムリンジの奥さんだが)とか、そうするのが楽しければやればいい、とか。そして搗き臼と瓢箪子供だけの彼の手法は、雑談の合間にでもできてしまうくらい簡単で、しかも憑依霊に奪われたキブリだけではなく、妖術使いによって奪われたものもこれで取り戻せるとまで豪語。もしかして、妖術系の施術師なのかと思ってしまうほどだ。キブリを取り戻す作業に「罠でとらえる、罠に掛ける」を意味する動詞ク・ヘガ(kuhega135)を多用するところなども。クズザのなかに見られる二極の、こちらに振り切ってしまうと、もはやほとんど妖術系の施術に近いものになってしまう。しかし、ムリンジ氏に限らず、ムニャジさんの語りにもあったように、マイロ抜きのクズザをする施術師も、思ったほど少数派というわけではないのかもしれない。
何を取り戻すのか、何が戻ってくるのか(やって来るのか)については、「キブリ(chi あるいはchivuri)」と明示されている箇所と、「その人(mu あるいはmutuo)」と病人そのものを指している箇所とがある。施術師ムニャジの場合と同じく、「人」とその「キブリ」が等価にとらえられていることがわかる。それ以外には曖昧さの介在する余地はない。ここでは搗き臼は、もっぱらキブリを回収する装置として語られている。
ムァインジとアンザジの夫婦は温厚な施術師夫婦だ。施術には真剣に取り組み、手抜きはない。奇抜な趣向は凝らさず、必要とされる行為を真面目にとりおこなう。もちろんキブリ探索のマイロも省略したりしない。一度など、予定が押してクズザの開始が日没時になってしまった。暗闇にブッシュを走り回るのは許してほしいと思って、私は体調を口実にマイロには同行しなかったが、ムァインジ氏は暗闇のなか1時間近くをかけて遠方の川の深みまで往復してきた。
7733 (クズザにおける搗き臼について)
Hamamoto(H): クズザの際に、皆さん、搗き臼を据えますよね。別の施術師が搗き臼のところに木の棒(複数)を立てて、それに布切れをくくりつけるのを見たことがあります。それらの役目はなんでしょうか? Mwainzi(Mw): ええ、私たちはその池(ziyani32)のところに、それらの布切れを置きます。つまり、あれらの憑依霊(p'ep'o144)をさらに一層引き寄せるのです。それらを置く日もあれば、置かない日もあるのですがね。 H: 憑依霊(nyama)を引き寄せるための罠みたいなものでしょうか? Mw: ええ、罠みたいなものですね。つまり、こちらに木の棒一本、またこちらにも木の棒一本。木はムコネ(mukone149)という木です。さてあちらの棒に布切れ3枚を結びつけます。こちらには揚げます。さあこれでそれらはひらひら翻きます。
罠(?)付き搗き臼(例) kuzuza Oct.28, 1989 施術師はMulongo wa Mwadzomboさん
Murina(Mu): つまり旗ですか? Mw: つまり旗です。 H: あなたは憑依霊を搗き臼のところに引き寄せるのですか、それともキブリを引き寄せるのですか? Mw: ええ、その病人の(nguvu150)をです。そう、風がこんなふうに吹く。さあ、あなたは支度をして、いよいよクズザに出発するのです。 H: なるほど、それがその罠の役割なんですね。
7734 (クズザで水場で何をするのか)
Mwainzi(Mw): 大事なことです。でも、行って、病人のキブリに会う、それが川にいるのを見るのだ、とは言いませんよ。とんでもない。それなら、むしろこの瓢箪にでしょう。あなたはそこにピカッと光るものを見ることができます。 Hamamoto(H): 瓢箪の内側にですね。 Mw: そうです。でもあちらには、体力(nguvu)を採ってくるために行くのです。ムズカにもあなたは体力を採りに行きます。 Murina(Mu): 水場にも、同じように体力を採りに行くんだよ。 Mw: そう水場にも同じように体力を採りに行きます。でも大事なことは、瓢箪子供のところにあります。ムァンザさんという施術師が、一昨日の前の日に開かれたカヤンバで、一人のライカを扱いました。あなたももしお出でになっていたなら、彼がどんなふうに施術するかをご覧になれたでしょうね。というのも、病人はそこで戻されたのですが、すっかり別のやり方でなのです。あなたはムズカにも行かない。あなたはムズカにも行かない。それどころか、その場で(病人の住んでいる敷地に据えられた搗き臼のところで)、(灰で)団子をこねて、それが済んだら、サトウキビを置いてやり、あらゆる(ムズカや水場に持って行って供える)もの113をそこに置いてしまうのです。 H: (そこに据えられた)搗き臼のところにですか? Mw: そうです。その搗き臼の場所にです。さて、病人は小屋の中に横たえられています。さて、その場でクズザしてしまい、その病人に戻してしまうのです。 Mu: なんていうライカだったんだい? Mw: ライカ・ズズ(laika zuzu151)ですよ。
Hamamoto(H): つまりキブリはその場に呼ばれるのですか。 Mwainzi(Mw): はいその場にです。その搗き臼のところにです。そこにあなたの瓢箪子供たちを仕掛けて(uhege anao phapho)おきます。そして瓢箪子供を見ながら、あなたはシコクビエ(wimbi)を撒きます。もしシコクビエをお持ちなら、撒きます。トウモロコシの粒も撒きます。その場にです。それで大事なことはなされたわけです。 H: 川に行く必要はないのですか? Mw: いいえ、彼は川ではクズザしないんです、彼は。病人は屋敷内でクズザされるんです。 H: 少し安上がりですね、だって... Mw: いや、(資金集めに)奮闘するのは同様ですね。だって鶏(複数)が屠られますからね。十分な資金がないと。中途半端だと、人を病気のまま放置することになります。呼ばれても、ただ(病人を)眺めていることしかできません。 H: たしかに、たしかに。それにしても、施術師ごとにクズザの仕方もいろいろですね。 Mw: そう。別の施術師など、クズザに行くのに白い布を(何枚か)握っているのを見ましたよ。 H: 白い布地(複数)ですか? Mw: まるで旗みたいにこんな風に握ってるんですよ。 Murina(Mu): 鏡を使ってやる施術師についてはどうだい? Mw: ああ、鏡を使ってやる人は、私はまだ見たことがないです。 Mu: 癒やしの術は、多様だよね、あんた。
施術の合間の短い時間でのインタビューだったにもかかわらず、施術の手順の細部についての説明を得意とするムァインジ氏の面目躍如である。キブリ探索のマイロをせずに、クズザをやる施術師について見知ってはいても、だからマイロは不要だという結論にはならない。ただ、施術の多様性を認めるのみである。結構、細部まで観察していることがわかる。
搗き臼にムコネの木の枝を立てて、それに赤白黒の三片の布切れを結びつける施術は、彼も折に触れては行っているらしく、その目的を「憑依霊を引き寄せること」だと明言している点である。私がそれを罠のようなものかと聞くと、そうだと答えるが、クズザを屋敷内で済ませる施術師の施術について解説する際には「瓢箪子供を仕掛けておく(uhege anao phapho)」と語っている。
彼の説明で注目すべき点は、マイロで水場に行く目的を、病人の「体力(nguvu150)」を取り戻しに行くことだとしている点である。念を入れて確認すべきだったのだが、彼は水場で病人のキブリが見えるわけではないと語っている。それは瓢箪のなかの煌めきとしてしか見えない。居合わせたムリナ氏も、当然のように、川にも「体力(nguvu)」を採りに行くのだと述べている。キブリと「体力(nguvu)」は、一応別物だということだろうか。キブリは搗き臼で取り戻すことができるが、「体力」は水場に赴かなければ取り戻せない何かということか。(もっとも彼の妻アンザジさんは、別の短いインタビュー(雑談)の中では「体力」とキブリをほぼ互換的に使用している。アンザジさんは、占いでは感受性の鋭さを見せるが、理論的に詰めるタイプではなさそう。)
実は、ムコネの木の枝に三色の布切れを結びつけて設置される搗き臼は、クズザの場合に限らず、単にライカやシェラに取り憑かれて病気になった者の治療として処方される、「鍋(nyungu30)」や「煎じる草木(mihi ya kujita152)」と合わせて、朝晩浴びる薬液(vuo33)を入れておく「池(ziya32)」としても用いられており、そこではムコネと布切れの役割は「憑依霊を招待する(呼ぶ)(kpwiha nyama)」ことだと言われている。こうした治療ではキブリは治療の対象とはされていない。
ムコネの木の枝を装着した搗き臼は、キブリ捕獲の罠というよりも、憑依霊本体(ライカ・シェラ)を単に呼び寄せるための装置なのかもしれない。
ライカによる病気の治療のための「池(ziya ra koga)」。施術師はChizi wa Gorofaさん。1989/11/04フィールド・ノートからのスキャンなので落書きみたいでごめん。
Chari(C): そこに行く? Hamamoto(H): はい。 C: クズザするためにね?さて、クズザするなら、あれ(瓢箪子供)こそ、あなたが見ているべきものよ。あなたはそこに人(患者)のキブリが見えるのよ。 H: その瓢箪の中にですか? C: そう。さてあなたは行きながら、行っては(瓢箪のなかの)キブリを確認するの。進んではそれを確認。その場所に到着するまでね。あなたは行くことができます。そこに着くと...もしかしたら、その人(患者のキブリ)はそれまでそこにいたんだけど、そこを立ち去ってしまったって場合もある。そうすると、あなたが瓢箪の中をこうして覗いても、その人はもういない。そこを立ち去っちゃったってわかるのよ。 H: へえぇ。 C: うん。あなたが通り過ぎちゃったって場合も。通り過ぎ(たことに気づい)て、目的地に向かうんだけど、そこに着くと、またその人はいない。その人はそこから出されちゃった。となると、もしかしたらあなた、そこでその人を、もう一度連れなおさないと。 H: ううむ。 C: そうなのよ。 H: つまり、その人のキブリを再び探し直す? C: うん。さて、あなたは手に入れたとします。それが済むと、さあ、あなたはその場所の泥を採って、少量を瓢箪のなかに入れます。
Hamamoto(H): うむ。泥を瓢箪の中に入れる。 Chari(C): そう。風(p'eho85)を患者に戻してあげるための泥よ。そこでさて、あなたは手に入れて、水から出てきます。出るとすぐに、(瓢箪に)もう栓をしてしまいます。 H: その瓢箪に? C: そうよ。栓をはずしちゃだめよ。屋敷に戻って、患者に風を戻してあげるときに栓を抜くまではね。 H: おお。 C: そう。というのはね、もし川から出てから家に戻るまで、それを明けたままにして運んだとしたら、その人はあっちに戻ってしまうのよ。 H: その人のキブリがですか? C: その人のキブリが、よ。あっちに戻ってしまうの。 H: ふうむ。 C: でも、この辺りでは、どうしてだかわからないけど、みんな「瓢箪に栓をして」ってわざわざ言わないとしないのよ。 H: 水の中で? C: そう。この辺りの人たちは「その瓢箪に栓をしないと」って言われないとね。 H: みんな栓をしない? C: 全然よ。 Murina(Mu): おまけに瓢箪を別々にもったりしてね。 C: ほんと、別々に握ってるの。
Hamamoto(H): さて、屋敷に戻ると、あなたは病人が地面に寝ているのを見ますね。 Chari(C): 寝ている、そう、横たえられている。 H: 私はあなたがこんなふうにするのを、あなたの瓢箪をもって患者に吹き付けているのを見ます。 C: そうよ。そんな風に吹きつけるのが、その人にキブリを戻すことなの。真剣にやらないとね。だって必死にやらなければ、戻りそこねて、その人が死んでしまうのよ。 H: おおっ。 C: そうなのよ。さて、あなたが屋敷に到着して、次にこの蜂蜜の瓢箪を、その人に舐めさせます。 H: ほう。 C: その人に舐めさせます。その人がまだ眠りからさめたばかりのときには、こんな風に歯をイイイと食いしばってます。あなたはその人に舐めさせるのよ。 H: なるほど。 C: さて、それが終わったら、さあ、あなたは唱えごとをします(unaruma153)。あなたはすべての関節ごとにその人に唱えごとをします。瓢箪を(その関節のところに)もって行って、それが帰ってくるように唱えるのよ。もしライカであれば、「今、ライカよ、私は告げます。私はライカをお戻ししますと。」って。さて、こんな風にあなたは奮闘するのよ。そいつを戻そうとね。さあ、そうすれば、あなたは病人が突然踊り出すのを見ることになります。それは脚から始まるのよ。もしライカが帰ってくればね。片足が始めにトゥクッ(ピクリッ)となります。そうよ、私は実際によく観察しているのよ。片足が痙攣するのが見える。トゥクッ、トゥクッて、最後は跳ねるのよ。ああ、たしかにライカは戻ってきた。今や、こちら側も、カ、カ、カ、カッって震えているのがわかるわ。 Murina(Mu): そいつは同意したんだよ。そいつは(足の)指から戻り始めるんだ。 C: この小指から戻り始めるのよ。
Hamamoto(H): えーと。クズザというのは病人にライカを注ぎ込むことなんですか? Chari(C): クズザが?(病人を)クズザするというのは、その人に風(p'eho)を返してあげることよ。その人はライカに連れて行かれたわけ。だからあなたはその人にその人の風を返してあげる、その人に体力(nguvu)を戻してあげるのよ。 H: おお。ライカをその人につぎ込むことではないと。 C: 違う、違う。その人の体力を戻してあげるのよ。 H: おお。 C: そう。さて、(ライカが)その人を食べる問題は、そいつにあれらの品々(miyo157)を食べさせた。そしてさあ、あなたはその人を戻してあげるのよ、今。 H: では(瓢箪で息を)吹きつけるのは? C: あの息をプゥーッて吹きつけるのは、そんなふうにして自分を守ることの一環よ。だって(病人は)冷たくなっているんだもの。見ると、すっかり血を飲まれてしまっている。そこで後は、そいつライカを追い払ってしまえばいいの。でもそいつは自分の欲しいものはとうに食べてるので、あとは意地でもそいつを取り除くだけよ。というわけで、あなたはその人(のキブリ)を身体に戻してあげるの。(身体の)そこ、ここを冷ましてあげるのね。ここ頭頂部の大泉門があったあたり(luhotsini158)、両耳の中、鼻の穴、足、ここ肋骨の脇(mbavu159)、こちら側の肋骨の脇、さあ、終わりまで。 H: あなたはあらゆる場所に(瓢箪で)息を吹きつける。 C: あらゆる場所に息を吹きかけるのよ。そして、その人に(瓢箪の中の蜂蜜を)舐めさせて、そして(全ての関節に黒い粉状の薬を)(唱えごとをしながら)擦り込む。さあ、さあ、その後は、皆さんカヤンバを打ってください。そして脚のところをよく御覧なさい。 H: うん、跳ね上がるかどうかね。
Chari(C): そう、本当に(ライカが)帰ってくるのだろうか、あなたはその脚をチェックするのよ。こんなふうに震えて震えて、その脚が跳ね上がるのを見たら、さあ希望があるわね。だって見ると、この心臟が、ドゥドゥ、ドゥドゥ、ドゥドゥって。見ると、突然息遣いが速くなる。さあ、ああ頭でも始まります。ああ、もう踊るしか。さて、病人が踊れば、つかんでその人を立ち上がらせます。でもそうならずに、まだ踊っていないなら、あなたはその人をつかんで、その人を座らせます。ライカは戻ってこなかった。それはちょっと厄介な事態です。 Hamamoto(H): おお。なんと、そんなに色々なことがそこにあったとは。私は知らなかったです。だって、ただ見ていただけでしたから。 C: その人の体力(nguvuze)をその人に戻そうとしていたのよ。だって、あなたは持って行かれたのよ。ライカ、そいつがそれらのあなたの体力を持って行った。そうなると、あなたは朝になると、ホーフィ、ため息よ。今くらいの時間(午後5時前頃)には、陽の当たるところにいる(寒気を感じるので)。歩いていくといっても、全く力が出ない。そう、ライカのせいなのよ。 H: ふうむ。 C: クズザしてもらったら、さあ、あなたはもう完全にあなたの体力(nguvu)を戻されるわ。(施術師が)あちらの水場でその人を連れて来る場合で言うと、さあさて、その人の体力だけど、(施術師は)そこらの泥、そこらの塵芥を採って、(屋敷へ戻ると)それらを薬液(mavuoni33)のなかに入れます。こちらでは、それからあなたはこんなふうに何度も振るわれて(unaphetwa phetwa160)、これでその病人は体力を戻してもらえるの。あの瓢箪も、病人に舐めてもらわないとね。あなた、大変な仕事でしょ。耕すべき区画を割り当てられたら、ちゃんと終わらせないとね。もし終わらせられなければ!!ってわけ。 H: ふむふむ。ということは川や水場まで行くことは、必須なんですね? C: そうよ、そうよ、必須よ。
Hamamoto(H): でも施術師のなかにはニャマウィさんのように屋敷内でクズザする者もいます。 Chari(C): (笑いながら) ああ、ニャマウィさん、あの人は臆病者だったのよ。水場に行って怖いことがあったのよ。 H: いったい何に? C: だって大きなヘビがなかにいたんだって。クズザに行ったところに。 Murina(Mu): なんでも、彼の言うことには、行ってみたら、頭の8つあるヘビを見たんだとか。 C: ええ、彼ったら、彼ったら「人はいまだかつて、うゎあ!蛇がいるぞ。人はいまだかつてマクンバ(makumba55)と遭遇したことなどない。あんたがた、冗談じゃないぞ。人がマクンバと遭遇する日があるなんて!」 H: ニャマウィさんが。 C: そうよ。デナ(dena56)のことじゃないの?そこで、ご老人(ニャマウィ氏のこと)を私が拾いに行ったのよ。彼は、そこで、ほんとにほんとにほんとに仕事に精魂尽きてしまったの。 H: そんなわけでニャマウィさんは、以来、搗き臼と自分の瓢箪だけでクズザしていると? C: それだけでね。 H: ところでその搗き臼ですけど、クズザでは何の役にたっているんですか? C: その搗き臼は、大きなキザ(chiza31)って呼ばれているのよ。8つの池のね。つまり大きなキザなの。 H: 8つの池の? C: そう。それは大きな応急治療(hamehame bomu161)とも呼ばれてます。ライカをもっている(ライカにとり憑かれている)人がいて、でも、(占いの指示で)行ってンガタ(ngata26)を結んであげなさい、その人のためにキザを設置してあげなさいって言われたらね、「承知しました」ってわけ。そのキザが大きなキザというのよ。それがあの池(ziya)ね。
Hamamoto(H): さらにクズザでも、同じようにその池を設置しないといけないのですね? Chari(C): そう。搗き臼を設置しないといけません。というのも、あの搗き臼は。この洗面器は(薬液入れのキザとしてよく使われるけど)プラスチックでしょ。あの搗き臼こそ正式なのよ。ここに瓢箪を置くの。搗き臼のお尻(地面に接地するところ)に瓢箪を置かないとね。さて搗き臼のなかにあの水(薬液)を。キブリが、その搗き臼の(にやってきた)キブリが、ここの瓢箪に戻ってくるのよ。 H: なるほど。 C: あなたは搗き臼のなかをチェックして、その後、瓢箪のなかをチェックするのよ。 H: 川に行く前ですよね。 C: まだ川に行く前よ。その時間が来ないとね。だって出発する時間も、与えてもらわないといけないのよ。自分で出発しちゃうんじゃないのよ。蝿追いハタキを握って、それっ、行くぞ、みたいに。とんでもない。その(出発の)時間も与えてもらわないと。 H: ああ、なるほど。キブリが搗き臼にやって来ないと? C: そう。その人が搗き臼にやって来て、搗き臼を出て、瓢箪の中に来ないと。 H: そのときに、あなたはあなたの瓢箪をとって、クズザに出発する。 C: クズザに行きなさいって。 H: なるほど!
Hamamoto(H): とすると、あらゆるものがまるで(キブリを)捕まえるための罠(muhambo)みたい... Murina(Mu): いや、あれ(瓢箪)はコピー(picha165)なんだよ、あれは。覗き眼鏡(darubini166)。そうあの瓢箪は覗き眼鏡なんだよ。 Chari(C): うう。ああ、ねえ、近隣のペサ(近所の憑依霊の施術師の一人)さんの所、彼女、なぜか、風みたいな音をたててるわね。 Mu: それも施術師の覗き眼鏡だよ。 C: ペサさん、彼女の瓢箪ね、フォーブォー Mu: そのフォー、ハゥーそれね。 C: でも彼女、彼女の病人(のキブリ)を捕らえそこなったのよね。 H: ところで、さて、搗き臼のところについてなんですが、施術師のなかには搗き臼の上に罠を仕掛ける人もいますよね。ムコネの木なんだか、何の木かは私は知らないんですが。つまりまるで罠みたいな。搗き臼の上です。その施術師たちは、それに白い布切れ、赤い布切れ、黒い布切れを結び付けています。 C: 私は、そうした罠のことについては、説明することはできないわ。知識の限界までが、私が知っている場所でしょ。ねえ、私はお父さん(ライカとシェラに関するチャリの施術上の父)が罠を仕掛けたのをみたことがないわ。あなたムァインジさんが罠を仕掛けたのを見たことある? H: いえ、いえ。 C: そういうことなのよ。それは全然別の話ね。 H: でも実際に罠を仕掛けている施術師はいますよね。搗き臼に。 C: ええ、罠を仕掛ける者もいるわね。
施術師チャリさんの見解は、先のムリンジ氏とは正反対の極の立場である。彼女によるとマイロで川や池(その他ムズカ(muzuka14)やバオバブのような大木)のところに行くことは「必須(lazima)」である。そしてキブリを罠で捕まえることについては、それを行っている施術師がいることは知っているが、それについては自分は一切知らないという立場である。しかし彼女のクズザの手続きについての知識と理論は、他の施術師には見られないほど詳細で多岐にわたっている。
まず、マイロに出発する前に、病人とついで施術師にそれぞれカヤンバを打って憑依状態にするという点は、上の書き起こしのなかでは言及されていないが、ほとんどの他の施術師同様である。患者については数曲でごく簡単に終わらせる場合もある。患者が多くの霊を持っている場合は、やや長引く。患者の憑依霊たちにカヤンバについて知らせ、主要な者たちに踊ってもらうのが目的と説明する施術師もいる。患者がライカをもっていることはほぼ確実なので、まず患者のライカを呼ぶという説明をする施術師もいる。
施術師に対するカヤンバは、よりその目的がはっきりしている。施術師はクズザの探索の目的となる憑依霊、ライカやシェラに憑依される必要がある。ライカやシェラの草木の薬液が入った搗き臼が設置されており、周りにカンエンガヤツリをあしらったり、彩色を施したりしてライカたちが好む「池(ziya)」に仕立ててある。それはライカやシェラを引き寄せる。そして患者の連れて行かれてしまったキブリがそこに帰ってくる。憑依霊を招き寄せることが、キブリがやって来ることとどう関係しているのかはチャリも明言していない。ムァインジ氏は、憑依霊を引き寄せるのだと言いつつ、その直後には、憑依霊を引き寄せるのか、キブリを引き寄せるのかという問いに、病人の「体力(nguvu)」を引き寄せるのだと答えていた。ムニャジはまるでキブリはライカが運んで返しに来るかのような説明もおこなっている。
チャリは搗き臼にあえてムコネの木の枝による「罠」めいたものは設置しない。逆に、キブリが自分(?)からやってくるのをじっと待つことになる。事例でも紹介するように、チャリのクズザはマイロに出発するまでに、場合によっては数時間かかることがある。チャリはときおり搗き臼を覗き込んでキブリが着いているかどうかを確認する。キラキラ光るのでわかるのだという。そしてやって来たキブリは搗き臼の前に置いてある瓢箪の中に入る。瓢箪も頻繁に覗いてキブリがすでに入ったかどうかをチェックする。キブリが入るとキラッと光るのだという。それを確認して、マイロに走り出す。
すでに述べたように、クズザにおけるキブリを呼び寄せる搗き臼と、その後の憑依霊たちの棲み処への探索行の二本立ての意味が、私には謎だった。搗き臼ですでにキブリが戻っているのであれば、わざわざ憑依霊の棲み処に行って取り戻す必要はない。ムリナとチャリの夫妻は、この問題を不思議な形で解決している。その中でキブリが煌めく瓢箪は、ムリナ氏の言い方を借りると覗き眼鏡であり、それをその都度チェックしつつ患者(のキブリ)が連れ去られた憑依霊の棲み処に導かれるのだ。ムリナ氏は瓢箪のなかのキブリは「コピー(picha)」だとすら言っている。つまり本体の在り処へ導くための「像」ということか。でもキブリって、そもそも鏡とかに映る「像」だったよな。うむ、よくわからない。 瓢箪のなかで完全に見えなくなってしまったら、もう一度その場所でキブリを取り戻さないとならないとチャリは言う。どうやって?と聞きそこねてしまった。とにかくもう一度瓢箪の中にキラキラ光るものを出現させねばならないのだろう。そして水底の泥を少し瓢箪に加えて、大急ぎで栓をして、大急ぎで帰宅することになる。
なお憑依霊の棲み処で、持参した鶏の一つが屠られ水に(あるいは洞窟に)投げ込まれ、用意されたその他の品々(viryangona113)も撒かれるのだが、おそらくそこは私もよく知っている自明の作業だということなのだろうか、どの施術師たちもあえて説明では明言していない。
このキブリ探索については、チャリたちも他の施術師の多くと同様に、その「人物」「人」を連れてくるのだという言い方で語る。それはキブリの言い換えだと理解しているのだが、そこから実際に何を持ち帰るのかというと、チャリもムァインジ同様に、その人の「体力(nguvu)」を持ち帰るのだと語っている(ムニャジは「体力」という言葉は一度も使用していない)。具体的にはそれは水場から持ち帰る睡蓮その他の草木、水底の泥であり、ムズカやバオバブの木の場合は洞窟の中の塵芥や落ち葉である。
ベニィロ老人のような一般人にはこれらの泥や草木は「キブリがそこにおるんじゃ」ということになるが、施術師たちは、あきらかにそれらはキブリそのものとは区別しているようである。
さて、これらを持ち帰ったあとの処置については、ムニャジもキブリを吹き込む順序など詳しく述べているが、やはりチャリの解説が最も詳しい。今、改めて日本語訳するために熟読すると、当時は気が付かなかった多くの興味深い記述がみられる。
チャリの説明は順序がいろいろ前後するが、彼女の実際のクズザの観察と合わせて時間順に整理するとこんな感じになる。水場でのあれこれを終えて、屋敷に戻ると、病人は小屋のなかで茣蓙の上に仰向けに横たわっている。最初に行う作業は、キブリを患者に戻す(チャリは「その人を身体に戻してあげる」と表現している)ことである。ムニャジが詳しく順序を教えてくれたように、瓢箪の栓をとって瓢箪の口に施術師は自分の口を当てて、患者の身体の各部に強く息を吹きかける。
続いてムルングの紺色の布を助手と二人で、横たわっている患者の上方60cm~70cmほどのところに(測定したわけじゃないので目分量だが)広げ、水場で採ってきた泥や睡蓮などの草木、ムズカの塵芥などをその上に空け、布を前後に揺らしながら、同じく水場で採ってきた泥などを加えた薬液と大量の水を上から注ぎ、患者に振り撒く。チャリは述べていないが、さらに患者を座らせて、同じくムルングの布経由で薬液と水をザバザバ患者に掛ける。これが患者の「体力」を戻す作業である。
この瓢箪の吹きつけと大量の泥水薬液浴びで、患者から患者の血を飲んで体力を奪っていたライカを追い払ってしまい、患者の身体に体力を戻すことになるとチャリは説明している。ライカは、マイロの際にその棲み処で鶏やその他の食べ物をあたえられたので、患者をもう「食べない」ことに同意しているはずなのだ。
この場面をライカの追い払いとする説明は、チャリ以外からは聞いたことがない。私が尋ねなかったからかもしれないが。
次に施術師は、今や茣蓙の上に脚を投げ出して座っている患者に、瓢箪のなかの蜂蜜(瓢箪子供の「血」とされるが、それにはライカなどの草木を炒って作った黒い薬や香料が含まれている)を舐めさせる。そして続いて瓢箪のなかの薬を身体のすべての関節部に擦り込みながらライカに戻ってくるよう唱えごとをする。この説明を聞きながら、私はかなり混乱した。ライカに奪われたキブリを戻す施術なのに、ライカに戻ってくるように訴えるのはどういうことだろう。上に述べたように、患者に「体力」を戻す作業では、患者がもっているライカは追い払われる。しかし患者に体力が戻った今、再び患者の身体に、正常な形でライカを戻してやるのだ。カヤンバが演奏される中、患者の脚の小指からライカは患者の身体にもどってくる。それを見届け、ライカに心ゆくまで踊らせることが、施術師の最後の仕事になる。
施術師ムニャジも、少し意味合いが違うが、最後に患者が踊るべきだと語っていた。キブリを持ち帰るのに成功していたら、キブリを戻している過程で病人は早くも踊り始める。もし踊らなければクズザは失敗だというのである。まるでキブリが憑依霊であるかのようだが、演奏されているのはライカの歌だから、それで踊るとすれば、踊っているのは憑依霊ライカのはずだ。しらんけど。
しかし患者に悪さをしていたライカから、キブリと体力を取り返し、ライカをいったん追い出しておいて、その後で再びライカを迎え入れるというのは、どういうことなのだろう。一般人の目にはクズザは、施術師とライカとのあいだでのキブリの取り合い、施術師とライカとのキブリをめぐる格闘と見えているだけに、このチャリの説明は、一見筋が通っていないように見える。
しかし思い出そう。ドゥルマの憑依霊は、一部の子供を殺してしまう憑依霊を除いて、めったに除霊の対象にはならない。除霊は失敗すると患者の健康を永久に破壊してしまう危険な施術だと考えられている。そもそも憑依霊の施術師は除霊をしない。「身体の憑依霊は出してしまうことはできない(nyama a mwirini10 kaalaviwa.(DB 2397)」と言われるように、いったん目を付けられて(惚れられて)とり憑かれてしまうと憑依霊は一生引き剥がすことはできない。できることは、施術師の助けを借りながら、その憑依霊との間に良好な関係を維持することだけである。
チャリによる彼女がおこなうクズザについての説明からわかるのは次のことである。
クズザの前には、ライカは自分がとり憑いた患者のキブリを自分の棲み処に連れて行ってしまい、さらに患者の身体に座り込んで血を飲むことによって、患者の健康を大きくそこなっている。
つまり患者と、それがもっているライカとの関係性は劣悪である。
クズザの作業とは、このように患者ときわめて不適切な関係にあるライカに対して、その棲み処を探し当て、そこでライカにお好みの食べ物を提供し、それと引き換えに患者のキブリと体力を取り戻す了解を取りつけることである
患者の身体に、患者のキブリと体力を戻す過程では、ライカはいったん追い出される。
その作業が済むと、患者のすべての関節に薬を擦り込みつつ、ライカに戻ってくるよう訴える(カヤンバがすぐ近くで演奏されているので、唱えごとはほぼ聞こえない)。
カヤンバが演奏される中、施術師は患者の様子を観察する。ライカは脚の小指から戻って来るとされる。ライカが戻ってくるとまず脚が痙攣し、跳ね上がるようになり、体全体が震え、ついにライカは頭に到着する。患者は完全に憑依状態になり踊る。それを見て、施術師は患者の手を取って立ち上がらせ、ライカは上機嫌で踊りまくることになる。
ここでのチャリの説明にはないが、この後kufinya110あるいはkufungira167の瓢箪の薬でクツォザ(kutsodza75)したり、患者が母親の場合、患者やその子供たちのキブリが再び奪われることのないようにライカのンガタ(ngata26)が命名に装着されたりするかもしれない。ンガタはライカがやってきても患者の身体の上に座ってしまったり、子供にちょっかいを出したりしないようにライカに差し出す「椅子」であるとされる。
つまりクズザとは、ライカと気心が通じている施術師の媒介によって、劣悪化した宿主と憑依霊との関係性を正常化し、一種の永続的な共生関係にまでもっていこうとするプロジェクトなのだと言える。
クズザは観察者の目には、雑多な要素が入り混じった、首尾一貫していない施術に見える。キブリはライカの棲み処まで獲りにいかねばならないのか、患者のいる場所に呼び戻せるのか、キブリ取り戻しにおいて施術師とライカは競合的なのか取引関係なのか、患者はキブリが戻ったので踊るのか憑依されて踊るのか、チャリはこうした不整合な要素を、上手に理論化し、首尾一貫したものとして言語化しているのかもしれない。
施術師たちは憑依霊の存在や振る舞いにある意味、精通している人たちだ。でも彼らにとっても憑依霊がそもそも何なのかについて、よくわからないことがあり、気心の知れた施術師仲間と会うと、そうした話題で盛り上がる(例えば「霊は厄介な存在 (DB 5591-5599)」「霊はどこに棲んでいるのか: クズザの際に訪れた水中洞窟のヤバさについて語り合う施術したちの会話(DB 5583-5587)」どちらもいつか翻訳したい)。憑依霊自体が、理解しがたい存在である上に、キブリという、これまたとらえどころのないものが関係してくるクズザの施術が、難問を抱えているのは当然だと言えるだろう。もちろん、学んだ施術のやり方を忠実に実行しているだけの施術師もいるが、なかにはこうした問題に理論的に取り組んでいる者も多い。
ここで紹介した4人の施術師の見解のなかにその一端を認めていただけると幸いだ。一つのエピソードを日記から紹介したい。 シェラとライカについて「外に出す」ンゴマを何度か見て、私に一つの疑問が浮かんだ。この二人の憑依霊を外に出す際には、いずれもが患者のキブリを奪うタイプの霊なのでクズザは必須の手続きになっている。キナンゴで一緒にお買い物をした後、チャリとムリナの家で一休みした際に私は二人に疑問をぶつけてみた。
(Dec.23, 1993, Thu, kpwisha の日記より)
...帰宅後kuzuzaについて、疑問点を聞く。録音はせず。laikaとsheraの2重kuzuzaのはらんでいる論理的矛盾を突いたのだが、Chariはそこには気付かない。しかしMurinaは私の質問に含まれている問題にいちはやく気付いて即座に独自の理論による解決を出して来る。MurinaがChariのugangaの理論化に果たしている役割はかなり大きいことがわかる。 私の問い: 人は複数のchivuriをもっているのか?kuzuzaにおいて、laikaのkuzuza で患者にchivuriを返したのちに、再びsheraのkuzuzaに出発しまたchivuriを取り戻している。最初のkuzuzaで、すでにchivuriは戻ってきているのでは? この私の問いに対してMurinaは chivuriそのものは、人の中にとどまっている。laikaやsheraが奪うのはchivuri そのものではなく、そのnguvuだ。 これで確かにlaikaとsheraの二重kuzuzaの矛盾は解決する。が、一般にlaikaや sheraはchivuriそのものを奪うと語られているので、一般の理解からは乖離してしまう。
その一方、チャリはクズザで自分が実際に経験することに重きを置く。クズザで何が起こるかを聞かれてのチャリの語り。ガンディーニから来る施術師を私の調査小屋(ガンディーニへの街道のジャンクションの近くにあった)で待ちながら、Ngoloko君、Katana君、そして私との雑談の中で。 7940
Chari(C): そうね、私がクズザに行くとしたらね...まずね、私はクズザに行く、でも、私のやり方で行くのよ。自分ではどこに行くのかわからない。自分ではどちらの方面へ行くのかもわからない。あのライカたちと、例のあいつ(おそらく世界導師のことと思われる)が一緒に混じり合うと、あなたはあなたの頭の中のものがわからなくなるのよ。あなたは行った先で妖術を掛けられたみたいになるかも知れない。でも薬(妖術をかけるための)はそこにはないの。それでいて、あなたに病気を注ぎ込むのよ。 Katana(K): えー、本当? C: そう本当よ! K: もしかしたら妖術じゃないんじゃ? C: あなた、ここを立ち去ることができます。だってクズザに行くんじゃないの?すると行く先に人がいるの。何か物で通せんぼしてるの。そしてあなたはそこで言われます。「お行きなさい。どこそこの場所に着いたら、しかじかの分かれ道に出たら、しかじかの道は進んではならない。これこれの道を進みなさい。」そしてあなたがそこに着いたら、あなたは確かに(災難を)回避したのよ。 K: ええ、あなたは回避した。 C: でも、(ムズカに)行って、「入らせてください(hodi168)、入らせてください」って言うじゃない?で、頭のなかには憑依霊はいない。なのにそのまま進んでいく人がいる。「人はムズカに行くものだよ」って。本当に帰ってこれないから。そうなのよ!あなたに教えてくれる人がいなかったら、ね!癒やしの術って、不思議なものなのよ、あなた。 K: さて、ええ、あなたに教えてくれる者がいて、あなたに示してくれる... C: この先には、これこれのことがあるよって。
Katana(K): はい、はい。「この中にはしかじかの人がいる。普通の人か、あるいは普通じゃない人(妖術使い)か。」 Chari(C): あなたにはわからない。 K: あなたには教えてくれる人がいない。さて、あなたは(マイロを終えて)屋敷に戻ります... C: あなたは屋敷に戻ります。でも身体には風が入り込んでるの。油断してたら(字義通りには「ちょっといい加減なことをしたら」)、あなた、死んでしまうわ。 K: なんと、そういうことをわざとやる人間がいるものね。 C: そういう奴は、「ちょっと行って、(妖術の薬を仕掛けるなど)してこよう」ってね。ところで、私、ときどき考えちゃうことがあるのよ、あなた。ちょっと聞いてちょうだい。 ときどき私、人がクズザするのを見るわ。クズザに出向くわけ。そしてクズザの目的地に行って、また屋敷に戻ってくる。私は普通のクズザのやり方は知ってます。クズザにお行きなさい。行ってライカをたしかに手玉に取れたら、屋敷にお戻りなさい。でもカヤンバといっしょにお行きなさい、あなたの憑依霊といっしょにお行きなさい。そこからどんなふうに戻りますか?その憑依霊、もしあなたがキブリを捕獲したら、そしてまだ患者にそれを戻していないなら、途中の道筋で、あなたはどうして憑依を解かれちゃうの、あなた? K: そして、そのまま(素面の状態で)戻っていく、そして... C: そんなふうに戻って、あとで狂気を煮(ukajite k'oma169)直すのよ。 K: あなたは突然カチャカチャ(カヤンバを)打ち出す。 C: 屋敷が近づくと、そこで狂気を煮るの、そして病人にキブリを戻しに行くのよ。なによそれ。
Ngoloko(Ng): つまりそうすることは許されないと.. Chari(C): あなたが病人に風を戻し終わるまでは、その憑依霊は頭の中から出ていかないの。 Katana(K): そうしてから、あなたも憑依を解かれることになる。 C: そこであなたは憑依を解かれるの。それにあなたの憑依解除にしても、しばらくは気が狂っているような状態よ。もし、あなたが本物の癒やし手であったらね、それは。 K: うーむ。 C: だけど、出発して、川で泥をとって、さてそれから、戻る。蝿追いハタキはダラリと垂れて!見たら、蝿追いハタキはずっと腰をかがめたままじゃない。屋敷に戻っていくあいだも、楽しく雑談よ。施術師が便意を催したら、弟子たちは終わるのを待ってて、本人は自分の用を足し、排便が終わったら、ほら、来たわ。
チャリは、クズザの行きも帰りも憑依状態のままで、本人も言うように自分の頭の中のものがわからなくなっているらしい。でもそこで憑依霊が、進む方向や、その先で何があるか教えてくれるので、クズザをこなせる。施術師のなかには水場での作業を終えると、後はみんなと雑談しながらのんびり屋敷まで歩いて帰る者もいる。けっこういる。チャリのクズザに同行するのは大変だ。行きも帰りもほとんど駆け足、屋敷に近づいて、ああこれで休めると思うと、何故か別のところへ直行。そんなわけで大勢で出発しても途中離脱者が多い。
ムァインジ夫妻にしても、ムニャジさんにしても、チャリのつきあう施術師たちは、クソ真面目な人たちが多い。
最初の調査地「青い芯のトウモロコシ」村で、はじめて憑依霊によって奪われたキブリ2を探し出し、取り戻す施術が存在することを知った。カヤンバがあるということで、見に行ったところ「嗅ぎ出しのカヤンバ」だったという、いきなりの遭遇。
「ジャコウネコの池」村。ワタシ的には「嗅ぎ出しのカヤンバ」は、音楽付きのパントマイムみたいな感じで、言語資料的にはあまり魅力的ではなかったので、肝心の水場への行進をパスしたり、途中で帰ったりみたいな、気のない調査をしていた。これはなんとなく行進にもついていき、最初から最後まで見た初めての事例。
施術師チャリが、新たにライカ、シェラ、ディゴ人について癒やしの術を「外に出す」、つまりそれらの憑依霊に関する施術師に就任する大規模なカヤンバが開かれた。「嗅ぎ出し」、徹夜のカヤンバ、シェラに対する「重荷下ろし」を2日間かけて実施。その中で行われた「嗅ぎ出し」は、屋敷内から一歩も外に出ない、つまり水場までのキブリ探しの過程を一切含まないものだった。私が見た中でも、もっとも異色というか型破りの「嗅ぎ出し」であった。
施術師チャリが3週間前に「外に出」して施術師にしたトゥシェを助手として行った瓢箪子供を差し出すカヤンバでの「嗅ぎ出し」施術。日記部分の写真、および、フィールド・ノートにおける手順の簡単な紹介(言語データなし)
日記、及び、フィールドノートのみ。書き起こしテキストの翻訳なし
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tsovyaの別名とされる「内陸部のスディアニ」の絵 ↩
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