チャリ、施術師の経歴を語る(1)

目次

  1. 概要

  2. インタビューの日本語訳

  3. きっかけの大病

  4. 憑依霊たちが(現れる)出てくる、ムルングを「外に出す」

  5. 占いができなくなり、病気がぶり返し、5年後に憑依霊ドゥルマ人と世界導師を外に出す

  6. チャリのこれからの施術師としての予定を語る

  7. 施術上の母フピとの葛藤

  8. 進行中の妖術との戦い(夫婦がこの時点で住んでいた「ジャコウネコの池」地区での 妖術使いとの戦い: 日本語訳省略)

  9. 親族間で継承される癒やしの術

  10. ちょっとした説明

  11. 注釈

概要: 1989年12月1日の語り

(from diary 1989/12/1(Fri), jumma)

朝9時、Murina&Chari夫婦来る。Chariの病歴などについて聞く。午後Murina宅でkuku1を食べる。

ムリナとチャリの夫婦と知り合って2週間が経った。その間、2回のンゴマ(カヤンバ)2に同席させてもらった。jumma6の日は施術はしてはならない日なので、質問とかあれば、その日に来たらじっくり教えてあげると言われていた。

ムリナは妖術関係の治療を専門とする施術師。憑依霊(主にイスラム系の憑依霊)も持っているが、憑依霊に関しては施術師として「外に出され(kulavya nze7)」ていない。、チャリは憑依霊の施術師。この時点で憑依霊ムルング子神(mwanamulungu8)と憑依霊ドゥルマ人(muduruma25)、及び世界導師(mwalimu dunia31)の3つの霊について「外に出され」ている。この3つの霊が外に出される際に、それらと同じ瓢箪を共有する複数の霊も同時に外に出されている。

というわけで、ムリナとチャリの夫婦のところでは、施術の2つの部門について詳しい話が聞ける。とてもありがたかった。もっともこの年度の調査では、まだ調査の焦点は屋敷の秩序の維持をめぐる施術であった。でも二人と知り合ったことがきっかけになり、妖術問題と憑依霊の問題に、調査の焦点が少しずつ移っていくことになった。

この日は、午後二人の家を訪問し、ゆっくりお話しを聞く予定だった。が、朝9時に施術の帰りという二人が私の調査小屋に立ち寄ってくれた。お茶とビスケットを出して、カタナ君も交えての雑談。カタナくんがキリスト教に改宗するきっかけとなった大病で不眠に苦しんだ話を始めたことから、話題がムリナとチャリの夫婦が一緒になった頃の病気の思い出話しに移っていった。許可を得て、あわててテープレコーダーの録音ボタンを押した。

インタビューの日本語訳

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きっかけの大病

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Chari(C): この癒やしの術(uganga58)は、私は苦難とともに手に入れたのよ。(病気から救われようと)私もキリスト教に入信し、イエスに救われた者にまでなろうとしたほど。だって死なないでいることなんて、誰にもできないものね。でも氏族(fuko)のなかで継承される癒やしの術は、とっても厄介なのよ、あなた。今は、こんなふうに食事をするのを見ると、まだ自分が本当にすっかり治ったのかわからないのよ。 Katana(K): 感謝いたします。 C: トウモロコシの練粥を口にしなくなって、もう随分たっていたの。 Murina(Mu): 6年間も彼女はトウモロコシの練粥と縁がなかった。 Hamamoto(H): 6年間も! Mu: 6年間だよ。トウモロコシの練粥を食べず、眠らなかった。 C: なのに空腹を感じないの。そして眠らない。眠らないのよ。眠りそうに感じると、心臓が毟られるようになるの。

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Chari(C): 今、ここにこうしていてもね...私が今いるところ、まず誰かにしがみつかないと。突然つかむのよ、例えばこのカリンボとかね。というのはもし私が今ここで(ムリナ氏の膝の上で)眠るなら、この人は身動きしちゃいけないの。もし身動きすると、この心臓がもげるのよ。 Murina(Mu): その6年間というもの、私たちはふたりとも目を覚ましたまま。 C: だって私は眠らないんだもの。 Mu: そして私は見守りだ。 C: そしてこの人と私はこんなふうにしてるの(ムリナ氏の膝に顔を埋めているさまを仕草で示している) Katana(K): でも寝かせつける人も、時にはうとうとするよね。私もね、(見舞いに来て)どうやら私を寝かせつけようとしている他の人たち、その人たちがね... Mu: 私、私の頭がね...

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Chari(C): この人ね、うとうとすると、うとうとするとその頭をね、ここにもってくるのよ。そして手をね、私の心臓のところに置くの。彼と私だけ、兄弟もいないし、お父さんもいないし、お母さんもいない。 Katana(K): ああ、お父さん(ムリナに対する呼びかけ)、あなた方たいへんだったですね。 C: 鍋(nyungu13)を据えてもらうときの(全身に被る)布も、麻袋よ。布をもってないの。 Murina(Mu): 布はボロ布、たった一枚。こいつみたいなボロ布さ。 K: エッガ(身体の前で交差して首の後ろに回して結ぶ布のまとい方)で身体に巻く布ですね。 C: ただの布。ズボンももっていない。(ムリナも)腰巻きの布ももっていない。私が施術師たちのところに出かけるときには、この人はビニールの切れ端を身体に巻いていたのよ。 Mu: 彼女を施術師の所に残して、私は私の家に戻って... C: ボロ布は一枚きり。 Mu: というわけで、私の(寝る際に身体を覆う)布はプラスティクの、ビニールのシートさ。そのなかに身体を突っ込むんだ。それが蒸すって知ってるかい。そう、奥の方に身体を突っ込むんだよ。

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Murina(Mu): 夜が明けたら、私は外に出て、私のぼろズボンをとって、履く。 Chari(C): そのズボンは接ぎ当てだらけ、中は見えないとしても、こちら側は外に。 Mu: そして私のカウンダ・シャツときたら、破れたところを私はナイフで細かく切り取った。縫い屋にはもっていかなかった。自分でナイフで切り取った。だからそれにはあちこちに穴が空いていた。 C: 縫い屋に行く(行ってお金を出して繕ってもらう)(金銭的)余裕もなかったのよ。 Mu: というわけで、穴のところにわたしは接ぎ布を当てるんだけど、それれらのいくつかは(完全に縫っていないので)ぶらぶらするまま。そのまま、私は家を出て、仕事に行くんだ。お金は手に入ったよ、あんた、でも(身体に纏う)布を買う余裕はない。お金は握るよ。100シリング手にするまでに、3日働く。非合法な仕事で200シリングだ。ともかく、お金をつかんで、それを施術師に渡した。私は平気だよ。この人が夜中に倒れるとする。私は夜中のうちに家を出て、雇い主のところまで。お金を受け取りにいく。仕事の場にね。そして施術師にそのお金を渡しに来るのさ。

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Hamamoto(H): で、当時、あなた方はどちらに住んでいたんですか。 Chari(C): ココトーニ(Kokotoni61)よ。 Murina(Mu): 仕事はラバイ(Raphai62)のムバララニ(Mbararani)でやっていた。 C: 牛乳を炒める仕事よ。 H: その場所は知りません。マゼラス(Mazeras64)の近くですか? Katana(K): ムバララニ、以前聞いたことがあります。ムバララニ。 Mu: 私は牛乳を調理。牛乳を打ってね(練って)、それが練粥のようになるまでね。 H: ところで、お母さん、あなたの病気は何の病気だったんですか? C: 私の病気?お腹の問題よ。 K: お腹、それと心臓が... Mu: 6年間だよ! C: その私の病気はね、そうここよ(胸の辺りを指して)、そのときに、私は癒やしの術を出したのよ。

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Murina(Mu): ついに出てくることになるんだよ、癒やしの術が。 Chari(C): でも、今もこのあたりは(胸の辺りを指して)同じような感じ。 Mu: 癒やしの術が出てくることになるんだよ。その年。6年目のその年にね。6年目の終わり近くに。 C: だって、今もね、私が怒りを感じると、もうそれ(心臓)が始まっちゃう。そしてこの脇腹(両肋骨の)が上に上がり続けるの。

憑依霊たちが(現れる)出てくる、ムルングを「外に出す」

Mu: 7年目だった、そこで、この人を外に出す(kale ndalavya hiyu)ことになる。 Hamamoto(H): 7年目に? Mu: そこで、この人は癒やしの術を手に入れることになる。 C: 7年目ね。 Mu: 7年目、そこで、私は癒やしの術のために奮闘しなくちゃならなかった、さて癒やしの術は... H: その年月、病気に捕らえられた後で... C: 6年間ね。

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Murina(Mu): そして7年目にね、さて今、憑依霊に現れてもらう。そいつらは癒やしの術を求めているんだ。 Hamamoto(H): どの憑依霊だったのですか? Mu: すべての憑依霊さ。 Chari(C): いや、一人じゃないのよ。憑依霊たちなのよ。 Katana(K): つまり憑依霊たちは大勢だったんですか? C: 大勢よ。今だってね。 K: というのも、つまり普通(憑依霊は)一人から始まって、その後ゆっくりと増えていくのでは? Mu: 全員(一斉に)だよ。そいつらは貸しがあるんだ(叶えられていない要求をもっている)。全員が貸しをもっているんだ。でも、お前はまず一人だけ出してやることになるだろう。それから他の憑依霊たちのために、そいつに(あるいはその霊を外にだすことによって施術師になった彼女に)他の仲間たちのために稼いでもらう。(最初に)二人(外に出して)もよい。 C: だって、私もそんなふうに癒やしの術を手にいれたのよ。私はムルング一人だけ(外に)出されました。そして仕事をしたの。私はムルングを出してもらって、占い(mburuga65)を手に入れたのよ。

占いができなくなり、病気がぶり返し、5年後に憑依霊ドゥルマ人と世界導師を外に出す

そして6ヶ月経つと、私は閉じちゃった(占いができなくなった)。そして病気がぶり返したの。

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Murina(Mu): ムルングはもう必要を満たしたんだね。 Chari(C): ムルングはその期間を終えたのよ。そして私は本当に病気といっしょに暮らすことになるのよ。この人は(治療に必要な)4000シリング分の他人の畑を耕したわ。 Mu: ムルングはその期間を終えていたのさ。ムルングは何日間もったっけ? C: 他の憑依霊たちがいるんだってば。そいつらがね、「お前があいつムルングを与えられるなら、そう長くは持たないよ。」って言うのよ。ムルングに仕事を与えてみろ。すると他の者(憑依霊)たちは知ることになる。「ああ、そうかい。そいつ(ムルング)は(仕事を)もらったのかい。それじゃあ、私たちのことは二度と考えてもらえない。こいつが仕事をやっていけるかどうか、楽しみに見ていてやろう66。」というわけで、ムルングの仕事は憑依霊ドゥルマ人(muduruma25)によって封じられることになったの。 Hamamoto(H): なるほど、そいつらはいきり立ったんですね。 C: そうなのよ!あんた、お前を殺しては生き返らせる、そればかり続ける(いわゆる「カシディの病気(ukongo wa kasidi27)やつなんだよ。私に突然、その変な症状が出てきたときには、私は...親族に、「お座りなさい、兄弟よ。お座りなさい、私にお別れを言わせて。」 Mu: こうして7年目の年は終わったのさ。

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Chari(C): 本当に死んだ67んだから。「お座りなさい、あなたにお別れを言わせて」そして実際に死ぬ(意識を失う)の。 Murina(Mu): こうして7年目の年を終えた。さらに8年目の年も、9年目の年も、10年目の年も... Katana(K): それね、私もやったことがある。そのお別れを言うってやつ。 Mu: さらに11年目の年も、さらに12年目の年も、そしてその年に彼女は憑依霊ドゥルマ人とあの大蛇のあいつを外に出してもらった。癒やしの術も手に入れた。 Hamamoto(H): 大蛇の憑依霊とは誰のことですか? C: 世界導師(mwalimu dunia31)よ。 Mu: そして彼ら(その二人の憑依霊)に癒やしの術を与えた。ああ、それで小康みたいなものを得たんだ。 K: つまり、そこで癒やしの術をあなたが与えたのは、ムルングと憑依霊ドゥルマ人と世界導師ですね。 Mu: ムルングとドゥルマ人と世界導師。3人だね。 C: で今、私は与えたいのよ、あいつ... Mu: 今度はシェラ(shera68)の癒やしの術を外に出したいんだ。

チャリのこれからの施術師としての予定を語る

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Chari(C): これからあなたが行く予定のンゴマだけど... Murina(Mu): シェラと憑依霊ディゴ人(mudigo78)の癒やしの術。 Hamamoto(H): そいつらシェラとディゴ人も、同じように癒やしの術を欲しがっているのですか。 Mu: そいつらも欲しがっている。それが終わったら、私は癒やしの術に... C: ライカ(laika82)もよ。あなたも行く予定のそのカヤンバは、ディゴ人とイキリク(ichiliku73)とライカが外に出されるカヤンバなのよ。 Katana(K): つまり、あなたが行かれるというカヤンバはあなたのためのカヤンバなんですか? C: 「重荷下ろし(kuphula mizigo71」のカヤンバよ、私自身の。 K: 私はあなた方は病人を治療しに行かれるのだと思ってましたよ。 C: 私自身のカヤンバなのよ。 H: というわけで、重荷下ろしのカヤンバなんですね。 C: 重荷下ろしのカヤンバよ、そして私は「外に出してもらう(nilaviwe nze7)」のよ。 H: あなたは外に出される。ライカを外に出されるのですか?

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Chari(C): そうよ。私は外に出してもらうの。ライカとディゴ人とイキリクよ。とっても大掛かりなンゴマよ、それは、あなた。 Murina(Mu): さてさて、私は何人の憑依霊に癒やしの仕事を与えただろうか。ムルング、ドゥルマ人、世界導師、そしてドゥルマ人とシェラとディゴ人とライカ。7人だよ。 Katana(K): そうして、あなたは蝿追いハタキ(mwingo100)を握ることになるのですね。 Mu: 癒やしの術に戻るのさ。彼女は(癒やしの仕事で)お金をためて、憑依霊ペンバ人のために(ペンバ人にも癒やしの仕事を与えるために)、お金をためるのさ。 K: だって、お母さんは今は「嗅ぎ出し(kuzuza69)」はしてないですからね。今は嗅ぎ出しをしない。でもライカを外に出してもらえば、いよいよ嗅ぎ出すことになりますね。 C: さあ、いっしょに皆さん私を外に出しに行きましょうよ。 Mu: そうしたら、今度は(憑依霊)ペンバ人たちに(癒やしの仕事を)与えることにしよう。 Hamamoto(H): イスラム系の憑依霊ですね? Mu: イスラム系のだ。さて彼らにンゴマを打ってやり、彼らに鍋を与えて、湯気を浴びてもらおう。そのためには、彼らを招くことができる施術師を手に入れないとね。

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Murina(Mu): さて、彼らにコーランの本と、磁器製のカップと、家を与えねば。イスラム系の憑依霊たちには、あまりコストはかからない。イスラム系の霊のコストは、お金さ。それもたくさん。 Hamamoto(H): でもコストはかからない? Mu: でも、その癒やしの術は断片なのさ(大掛かりじゃない)。だって、本と草木、(ムウェレ(muwele101を)海岸に連れていき、海で清め、草木を示す。 Katana(K): 施術師を立ち去らせよ。 Mu: 施術師は(ムウェレと)いっしょに、ここを立ち去れ。そして海岸に行って再び乳香で燻してやれ。そしてそこで(ムウェレが)憑依状態になり、そこで草木を示してやってください。 H: 海岸で? Mu: 海岸で。さて帰りなさい。まだ終わってないとでも(もちろん終わっている)?香木で彼女を燻すのに失敗するとか(いや、そんなことはありえない)?彼女に草木を示しに行けばいいだけ。これは云々の憑依霊の草木です、これは云々の憑依霊の草木です。これはしかじかの憑依霊の草木です、ってね。彼らは赤い雄鶏と白い雄鶏をもっている。海岸でそれらを屠り、ごちそう(karamu105)を献上しおえる。

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Hamamoto(H): すべては海岸で執り行われるんですね。 Murina(Mu): 海岸でだよ。そいつ(憑依霊)にごちそうを見せてやれ。あちら(海岸)で、そいつに資格を認めたわけだ106。さあ、海岸部を出て、今やこちらに戻って来る。そいつをきちんと置いてやる常駐場所(チュコ107)にするための場所を見つけてやる。さあ、あれらの草木をもってきて、そいつのチュコに置いてやりに行く。チュコはすでに調え終わっているだろう。良好な場所で、きちんと計画された場所。そこがお前の薬を置いておく場所だ。そこが(癒やしの)仕事をする場所だ。さて家で、そいつにンゴマを打ってやらねばね。 Katana(K): そいつのンゴマは、イスラム風のンゴマですか、カヤンバじゃなくて。 Mu: イスラム風のだよ。タンバリン(matwari)だよ。 K: あのティンディ、ティンディ(タンバリンの音)っていうやつ?イスラムの憑依霊についても仕事(やらねばならないこと)がいっぱいあるんですね。。

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Murina(Mu): 当然だよ。それも困難そのものの仕事だよ。さて家は私が頑張ったあの家だ。家の問題は完了したとわかるまで、完成させねばね。 Katana(K): 本当です。だって憑依霊の中にはスワヒリ風の家を好み、草の家を嫌う者たちもいますからね。 Mu: 今は(壁を)本漆喰と偽漆喰で塗り塗りしないと。内部(の床)にはセメントを打つ。憑依霊たちのための小さい家にね。さあ、すっかり完成だ。 K: なんと、憑依霊は手がかかる。 Mu: でも、こんなのは私にはたいした苦労じゃない。だって、私自身が頭の中で思案して、ああ、これならできると。でもそのためには相棒を手に入れないと。なぜなら、まずその相棒が私に過ちを犯すか見届けないと、いずれにせよ、よく見ないとね。まあ知ることになるだろう。そうなるとさあ、私は「祈願の施術(uganga wa kuvoyera108)」を探さねば。ああ、でも私はその施術をどこで出してもらえるかわからない。そう、この施術こそ、今出してもらいたいものだね。 Hamamoto(H): 何の施術ですって?

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Murina(Mu): 「祈願の」だよ。ンゴマをほんの数時間打って、もし妖術使いがいて、誰かわかれば、捕まえる、あるいは人々を苦しめているモノが(妖術使いによって据えられている)となれば、それをその場で引き抜く。 Katana(K): ところでその施術は、このお母さんのために(彼女が身につける施術として)探されているんですか、それともあなた自身のために? Mu: この人にさ。私の施術は、まだだよ。 Chari(C): 私の出身地のギリアマの施術なのよ。私はギリアマ人109なのよ。 K: なんと。なんとあなたは私たちの民族なんですね。私の民族なんですね。 C: ピーニ(pini111)の施術よ。 Mu: キヴガ(chivuga113)を握らせてもらわないと。 Hamamoto(H): キヴレ(chivure114)? Mu: キヴガ。 H: それは何ですか?

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Murina(Mu): まあ、キヴレみたいなものだよ。ヤマアラシの針が差してある。 Katana(K): ムヴレ(muvure114)のようなもの。ムヴレは知ってるよね。後で見せてあげよう。 Chari(C): ラッパ(palapanda)もね。こうしたものを何度も夢に見てばかり。(キヴガは)誰にくり抜いて作ってもらったらよいのやら。 Mu: さてさて、ンゴマを打ってもらって、癒やしの術をおなじように与えられる。そうしたら、この奮闘を始めてこのかた、(極めるべき)癒やしの術も残り少なくなることだろう。後はそこまで来たら、私はもう一度出発点に戻って、今や、ムルングのために調えてあげよう。ムルングにすべてを治めさせよう。ムルングを正しくきちんと置いてあげよう。ムロイ(muroi117)の施術だ。そうなると彼女(チャリ)は、施術では人の上に立てる者になる。施術上の祖として確立する。つまり彼女は先生になるだろう。下からこうして始めて、人を凌駕して、最後にこの位置に達する。そこまで来るのは容易いことではないよ、あんた。 K: そのような段階に到達することは容易いことじゃない。そうした人は... Mu: たくさんのお金が入ってこなければね。もしお金さえ入ってくるなら、容易いよ。

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Murina(Mu): でももし、お金が固い糞便のようだったら、お前さん、お前はとっても長い年月、いきむことになりうる。(浜本注:わかるようでわからない喩えである) Katana(K): 道は閉ざされ、閉ざされするから。 Mu: というのもその癒やしの術は、2000シリングの癒やしの術じゃないからだよ。 K: とてもたくさんのお金だ。 Mu: 2000シリングとか勘定するんじゃない。そこは7000シリングとか6000シリングとか勘定しとかないと。なぜなら彼女は3つのカヤ(kaya tahu118)の癒やしの術をもつんだ。彼女は手に3つのカヤの癒しの術を修了することになるだろう。 K: 例えばこんな具合ですね。子供が大学(yunivasiti)に行った。その子は完遂した。つまり彼女は施術師のその段階に達したということですよね。 Mu: というわけで、このロケーション、ここら辺から始めてマリアカーニ(Mariakani119)にいたる地域の施術師たちのなかで、先頭にたっているといえる施術師は、たった一人の女性なんだよ。

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Katana(K): 先頭に立っている人? Murina(Mu): この段階に到達した人。 K: 完遂した人? Mu: 彼女は、すでに到達したんだ。 Hamamoto(H): その人はどこに住んでいるんですか。その女性は? Chari(C): マリアカーニよ。その人こそ、私を外に出してくれた人なの。 Mu: その人がこの人を外に出してくれた人。そこ(到達点)にまさしく到達していたよ。 K: マリアカーニの町そのものに住んでいるんですか、それともココトーニですか? Mu: マリアカーニそのものだよ。そもそも、あんたがそこに行けば、ああこの女性が施術師だ、彼女がって、すぐわかるよ。 H: ギリアマの女性ですか、それともドゥルマの女性ですか。 Mu: ドゥルマ人そのものだよ。その名もウキ・ワ・ンゴメ(別名フピ)。生粋のムァニョータ(クラン)だよ。

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Katana(K): マリアカーニのどの辺りですか? Chari(C): ムライーレだよ。 K: あのマリアカーニの商店が並んでいるあたり? Murina(Mu): あのマジェンゴあたり。商店はない。こちらにはトタン板の工場。そこだよ、そのちょっと先だよ。 C: そこを過ぎたら、商店地区に入る。 (以下書き起こし省略。詳しく場所の説明が続く) C: 彼女は、ソマリ人やバラワ人が住んでいる区域に、住んでいる。 Mu: 彼女は、本物の施術師だよ。彼女はね、そこに到達していた。ああ、到達していたんだ。 Hamamoto(H): さて彼女がこのお母さん(チャリのこと)を外に出した(walavya konze7)んですね。 Mu: そうとも!だから彼女こそ、私がただ信を置いている人なんだ。 C: (彼女に治療してもらわなければ)私は娘タブ(Tabu120)を失っていたことだろうね121

施術上の母フピとの葛藤

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Chari(C): タブは失っていただろうね。でも、私を外に出した後で、彼女は私に不正を働いたのよ(私を嫉妬したのよ)。私の憑依霊たちがそれはそれは本当に仕事をするもんだから。なぜなら彼女は私を覆ってしま(kunifinikira122)おうとして、失敗したのよ。 Murina(Mu): 彼女は子供(施術上の)に追い抜かれたくないんだよ。 Katana(K): 子供に追い越される、つまり、子供(施術上の)が彼女が持っているのと同じような知識をもつようになるのが嫌なのかな? Mu: そう、嫌なんだよ。 C: さて、私は言いに来たのよ。....(1) Mu: 今や、この人が彼女よりも前にいるようになった。 K: この人の憑依霊が(彼女よりも)より多くの仕事をするようになった? Mu: ずっと多くのね。 C: (1)の続き:「私たちは出発します。私たちはこの人とラバイに行き、そこでココヤシの実を手に入れます。なぜなら私たちはトウモロコシをもって来たいからです。ココヤシをもって、タイタまで運び、そこで(交換に)トウモロコシを手に入れるのです。」私たちはあちらラバイに行ったわ。そちらで寝に。私たちは寝たわ。

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Chari(C): 私の荷物は、彼女(チャリの施術上の母ウキ・ワ・ンゴメ)の家に当然置いていくわよね。私のビーズ飾り(matungo123)も、私の(いくつかある)施術の編み袋(mikoba81)もね。夜になったわ。私は叩かれたの。私の憑依霊たちに叩かれたのよ。 Hamamoto(H): あなたは彼女(ウキ・ワ・ンゴメ)の家で寝ていたのですか。 C: あちら、ラバイでよ。 H: おお、あなたはラバイで寝ていた。 C: でも私の編み袋は、まだ彼女の家にあったの。さあ、私はここを(頬を指して)平手打ちされたわ。私はこう言ったほど。ねえ、この寝るように言われたこの小屋だけど、魔物(マジネ majine42)でもいるんじゃないの。私は二度と眠れなかったわ。なんと。朝になって私はこの人に言ったの。「家に帰りましょう。ココヤシは手に入れましょう。でもここでは寝ないことにしましょう。あちら(マリアカーニ)の家で何か間違いがあったの。」私は家に着いたわ。彼女が私のビーズ飾りを盗んでたのよ。 H: 施術の編み袋の中の? C: 私の編み袋の中のよ。

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Chari(C): 彼女は私に専用の部屋を一つくれてたの。でも私のビーズ飾りが一つないのよ。私はすぐに彼女に尋ねたわ。最初は、彼女は私の白い大きな布をなくしたんだった。 Katana(K): 憑依霊の布(nguo125)ですか。 C: 憑依霊のよ。 Hamamoto(H): どの憑依霊ですか? C: 世界導師の布よ。ところで、私が彼女に尋ねたことだけど、私は「お母さん、私のビーズ飾りがないんだけど。」彼女は言った。「ビーズ飾りはあなた自身が置いたんでしょ。」私は彼女に言った。「私のビーズ飾りはこの中にないのよ。」私は彼女を叩きたいみたいな気持ちになったわ。私は探しました。疲れてしまうくらい。それから私たち(いくつかある)編み袋(mikoba)をもってきたの。袋の中を探したわ。すると彼女は言った。「あなたの子供たち(瓢箪子供)を(袋に)戻しなさいな。その中にはないから。」なんと、彼女はビーズ飾りをすでに取り去っていたのよ。それをぐるぐる巻きにして、それをブッシュに置いて来たのよ。モンバサ街道を近くに臨む辺りにね。瓢箪子供を(袋に)戻してしまわないうちに、外で私を呼んでいる声が聞こえたの。

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Chari(C): 「チャリにこっちに来るように言ってちょうだい」と言ってるの。チャリにこっちに来るように言って、と言っている所に行くと、シャリフという名前のギリアマの少年がいる。お母さんに呼ばれたと。私は「ああ、その子はなんで私を呼んでいるんだろう」。そこに着くと、その子が言うことには「これはビーズ飾りではないですか。なんでしょうか?」私は言ったわ。「誰がそれをここにもってきたのかしら?一昨日ラバイを出て以来、私はここに薬液(用の草木)を採りに来ていないわ。(このビーズ飾りは)誰がここにもってきたのかしら」 Katana(K): 「もしかしたら、私が落としたのかも?」 C: ああ、(勝手に)落っこちたとしましょう。もしただ落ちたのだとしても、ふつうそれは草の上に落ちるんじゃない?それはぐるぐる巻きになっていて、結び目すらあった。おまけにそれは奥の方に隠し入れられていたのよ。私自身がそんなふうに置いたとでも?「私はそのビーズ飾りはもういりません。皆さん方、どうぞ身におまといくださいな。それ(癒やしの術)はやられちゃった。」私は問題を追及するのは止めました。やがて(大雨季になって)たくさんの雨が降り出します。私は(マリアカーニを)出発して、ここキナンゴ(ロケーション)に来ました。

969

Chari(C): そこ「ヒツジの場所」村に来たのよ。当地にはこの人(ムリナ氏)の妹が住んでて、私は彼女に憑依霊ドゥルマ人の「鍋(nyungu13)」を据えに来たの。最初の日は、そこで寝ました。二日目、三日目、四日目、家に帰れません。だって占い(mburuga65)を求める人々の列よ。どうしようもない。ここで。夜になると、私は(夢の中で)語りかけられました。「お前は何ごとか知っているか、お前?」「はい?」「私は人(マリアカーニの施術上の母ウキ・ワ・ンゴメ)がこんなふうにしているのを見たぞ。」彼女は私の憑依霊ドゥルマ人の子供(瓢箪子供)の中身をぶちまけているの。彼女はこんなふうに中身をぶちまけているの。夜が明けました。ガンディーニ(方面)のバスはありません。私はこの人に....(以下、チャリがマリアカーニに大急ぎで戻った経緯は未録音) [End of the tape]

970

Chari(C): あんた、私が世界導師の私の子供(瓢箪子供)をチェックしたところ、蛆でいっぱいなのよ。私はその場で話を聞くことになりました。(チャリは言う)「お母さん。」(ウキ・ワ・ンゴメは応える)「はい?」 Katana(K): (瓢箪子供の中は)蛆が? C: 蛆だらけよ。「お母さん。」「はい?」「こっちに来て。」私は調べに来たんだと言ったの。私は言いました。「ほら、ご覧なさい。」彼女はびっくりした。癒やしの術は腐ってしまった、この癒やしの術は。私は彼女に言ったの。「癒やしの術は、あなたの屋敷で腐ったのよ。だって私はまだ引っ越しする前なんですもの。まだここにいるのよ。」さて、こうして、私たちは完全に怒りをぶつけあいました。ついには私は、施術の編み袋をみな、そこに放置したまま、立ち去ることに。それと私の椅子も。今でも、それらの物はそこ(マリアカーニの施術上の母の屋敷)にあるわよ。私は、この私の頭だけをもって、そこを立ち去ったの。だって、私の癒やしの術は、この私の頭の中にあるんだもの。 K: 編み袋の中にじゃなくてね。 C: 編み袋の中にじゃなくて。 K: 今もなお、あなたがおっしゃるとおりに? C: 今もなお、私が言うようにね。編み袋は未だにあっちにあるのよ。それと私の椅子も。

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Katana(K): ああ、あなた本当に頭に来られたんですね。 Chari(C): そこで、立ち去ったのよ。で、あちら(「ジャコウネコの池」の大きな坂を下ったあたりに当時のムリナたちの家があった)に家を建てたの。でも今でも、たとえ今日みたいな日に行ったとしても、彼女に私の品々がほしいと言うだけ。 K: 彼女はあなたに与える。 C: 自分で取っていくだけよ。 K: それらが壊されていたら? C: たとえ今だって、行ってもらってくるだけ。その私の椅子にしたって、行って取ってくるだけ。なんの心配もないわ。彼女は私自身を台無しにしたかったのね。私が占い(mburuga)を打って、人が相談事をもってやってきても、私には何も見えないように、ってね。でも結局、彼女は負けたのよ。 K: どんなふうに負け... Murina(Mu): 彼女自身が災難にあったんだよ、あんた。彼女は2週間泣いていた。 C: まずはじめに、自分の癒やしの術を彼女は殺しちゃったのよ。 Mu: 彼女の癒やしの術がフィー126っと死んじゃったんだよ。

972

Chari(C): 一方私の方はじゃんじゃん(癒やしの術の)仕事をしたわ。彼女の方は(仕事の能力を失って)ただ泣いてばかり。ときには私が慰め役よ。 Katana(K): だって、なんと、もしお前が罪を犯したら、なんと、まあ...。お前が仲間に罪を犯したら、なんと自分自身の(癒やしの術)を台無しにしてしまうんだね。 Murina(Mu): ジャバレ(jabale127)と呼ばれるこの憑依霊(nyama128)を怒らせてはならない。そいつはすごく獰猛なやつなんだ。だって、そいつこそすべての憑依霊たちに知恵(elimu133)を授けた者なんだから。そいつに戯れにちょっかいを出そうものなら、お前の仕事はすべて封じられてしまうんだよ。 C: そう、彼女は癒やしの術を閉じられてしまったの、後は泣き続けるだけよ。 Mu: 彼女、泣いてたね。 C: 私、占いを打ったわ、あなた、そしたらやって来たのは... K: ところで、例のビーズ飾りはもってこなかったのですか? C: あのビーズ飾りはもって来てないわ、未だに。 Mu: まだ彼女がもっているよ。

973

Chari(C): 彼女はそれをもってきて、それを置いたわ。私が最後に見たときには、それは彼女のテーブルの上にあった。でも私は拒んだの。私は彼女に言ったの。ご自身でお持ちなさいって。 Katana(K): でももしあなたがそれを持ってきていたら。 C: 私の癒やしの術が死んでしまったでしょうね。 Hamamoto(H): 彼女が?135 C: 癒やしの術が、よ、あなた。 K: なんと大正解でしたね。 C: 頭よ、この頭がね....(チャリは憑依霊が彼女の頭の中に指示を伝えてきてくれたおかげだと示唆している) K: すると、彼女に残されたのは、ただ泣くだけ? Mu: 泣いていた。彼女は泣いていたよ、ほんとうに。 C: そして痩せた。ところでね、彼女がそんなふうに泣いている一方、、私は占い(mburuga)も大盛況(癒やしの術は順調)。 K: だから、あなたには何の不安もない? C: ぜんぜん、不安はないわ。

974

Murina(Mu): 家(マリアカーニの)からは追い出された。追い出されたよ。 Katana(K): 彼女の家から? Mu: そう。 Chari(C): 屋敷から追い出されたのよ。本当のところ、私たちにはどこにも屋敷はなかったの。さて、彼女は私たちに癒やしの術を与えてくれた。そして部屋も与えてくれたの。彼女は言ったのよ。「ここにお住まいなさいな」って。その通りに私たちはそこに住みました。猶予を得たのよ。何のための猶予?私たちが次の落ち着き先を探す猶予よ。私たちが落ち着き先をまだ手に入れる前に、彼女は腹をたてちゃったの。 Mu: 今や、この人には彼女を問い詰めるポイントがある。「これらの(チャリたちの所持する)品々は、あなたが行ってきちんと『置く』必要があるよ」「今日は私はそこには行きませんでした。私のために『置いて』ください。」「kavihuji kukala mimi niwale kare nikaike」。さて、ここ、この時点で、undamarigiza ukaike。 C: 「お行きなさいな、行くべき場所を見つけて、お行きなさい」、と私に言った後にね。

975

Katana(K): 彼女自身がそう言ったのですか? Chari(C): そうよ。「編み袋(mukoba)一つだけもって去りなさい。瓢箪をもって去りなさい。でも他の編み袋(mikoba)はここにおいておきなさい。あなた方が小屋を立てる場所を見つけて、それが済むまで。これらの編み袋は動かしません(kaying'olwa136)。あなたが来て自身でそれを動かすまで。そのあとで、私はあなた方が家を建てた所に行って、あなた方のためにンゴマを打ちましょう。」その日、私は私の瓢箪子供たちといっしょに出発したわ。他の編み袋はそこに置き去りに、椅子もそこに残してきたわ。そして私は(今の)私の屋敷に落ち着いたのよ。そして(マリアカーニの施術上の母の家に)行くことに。その(マリアカーニの)家に着くと、彼女のその家の床には、セメントが打ってありました。じゃあ、私の編み袋は誰が動かしたの?あなた、それは動かしませんって言ってたでしょ。私たちが来て一緒に動かすまでは。私がこう問い詰めたら、あなた彼女がそれに答えたと思う? K: ああ、絶対答えられないよ。とても難しい問いだよ。ああ、あなたの(施術上の)お母さんは大きな罪を犯しましたね。 C: ああ、でも癒やしの術はね、あなた、知識(ilimu134)を示さなくっちゃ。

976

Murina(Mu): ああ、彼女は誰をだめにしようとした(相手が手強いとわからなかったのか)? Chari(C): 知識を示さなくっちゃね、あなた。私は癒やしの術が欲しいと言い、外に出してもらう、そしてブー(buu137)。でも、癒やしの術を出してもらったら、知識を示さないとね。だって、私は昔は知識がなかったもの。 Katana(K): ああ、最初は仕事がいっぱいだったろう、でもすぐに仕事は全然できなくなる。 C: そう、ここキナンゴですらね、私がここに来て以来、そう、もし私に知識がなければ、癒やしの術もとくの昔に殺されていたでしょうね。 K: このキナンゴでもそうなんですか。 C: ここキナンゴもね。 K: 彼ら施術師たちは同じようなもの? C: 彼ら施術師たちと妖術使いたちよ。 K: 妖術使いたちも同じなんですね。 C: でも感謝するわ。 K: だって、自分の仲間がうまくいくのが嫌いな人々もいるからね。

(DB 977)-(DB 982) 日本語訳省略 「ジャコウネコの池」住人たちとの妖術関連の争いが語られているため要約のみを記す 977

ムリナたちは近隣の妖術使いたちから、さまざまな干渉を受け、一時は転居を考えた。しかし思い直し、妖術使いたちに対処した結果、妖術使いは打ち負かされ、イスラム系の憑依霊のために建築中だった小屋も完成間近である。 978 妖術使いの攻撃は無駄に終わった。彼らの攻撃の一つは、ムリナたちの古着の切れ端を遠方のムズカ(muzuka41)に置き、ムズカにムリナたちの不幸を祈願するという「汚れを取っていく(kuwala nongo)」という妖術だった。ムリナはそれを占い(mburuga)のよって知った。 979 占いによると、ムリナたちの「汚れ」が運ばれた先は「コンゴのムズカ」(muzuka wa kongo139)であった。占いが明らかにしていたように、妖術使いたちが云々の日に旅に出て3日間不在だったのを、ムリナたちはたしかに目撃していた。

980

コンゴのムズカに実際に行って、「汚れ」を取り戻すこともできるが、ムリナは結局行かないことを選んだ。 981-982 ムリナによるとムズカは互いにつながっているので、近所のムズカに行って祈願すれば奪われた力(nguvu)を取り戻すことができる。実はチャリも、夢で(憑依霊によって)妖術使いたちがどこへ行って、どんな祈願をしたのかも教えてもらっている(見せてもらっている)。ムリナは近所のムズカで彼の薬をつまみながら燃やした。他人がみたら気狂いに見えただろう。

親族間での癒やしの術の継承

983

Chari(C): 私ね、もし私の一族のなかに癒やしの術がなかったとしたらね、仮に「お前は癒やしの術を必要とされている」と言われても、一族の中に施術師であるような人物を認められないとしたら、ああ。私はキリスト教徒になってたかもしれないわ。でもね、ヤシ酒を熟成させすぎても140 Katana(K): 結局自分で飲むことになる。 C: 結局お前が飲むことになる。だって私たちどちらも、家(一族)に施術師がいるって考えてみたら。 K: 一族(fuko)の癒やしの術? C: 一族の癒やしの術よ。 Murina(Mu): というのも彼女のことを考えると... C: いろいろ喧嘩もしたしね。仕事の場(賃仕事)でも、諍い。この人は賃仕事の職場にいたの。私はこの人に言ったの。立ち去りますって。病院に行って、ちゃんと診察してもらいたいの。お金を(施術で)使い切るのには、もううんざりって。喧嘩になったわ。心は、イエスのところに行きましょうと(キリスト教に改宗しようと)。心は、病院に行きましょうと。イエスに入ることを考えたわ。でも一族の誰それさんは施術師だ。一族の誰それさんも施術師だ。一族の誰それさんも施術師だ。

984

Chari(C): そして施術の編み袋(ムコバ(mukoba81))は、同じ一つの袋よ、私たち全員の祖父のね。こんなふうに、私は椰子酒を熟成させすぎてさ、結局、椰子酒ストロー(muridza141)なしに、自分で飲む羽目になったの。ストローではもう飲めなくなってるので、一気にゴクリと飲み干す。さて、心はそんなふうに言うの。でもね、私は自分はけっして治らないとわかっていたの。

(この日の会話はここで、全く別のトピックに移ってしまう。以下、省略)

ちょっとした説明

知り合ってまだ2週間では、ムリナとチャリ夫婦についてまだほとんど何も知らないと同然だった。この後もいろいろな質問に対して熱心に雄弁にお話しを聞けて、出会いの幸運を実感した一日となった。が、この日の話の後でも、私は二人についてまだまだ勘違いしていたところがあった。ココトーニでの極度の貧困の中での闘病、現在の日本であればかなりありふれた(程度の違いはあるが)境遇だが、ドゥルマでは、考えてみるとこのようにすべての親族から切り離された孤立した貧困というのは、よほどの特殊事情でない限りはちょっと考えられない。自分の膝に顔を埋めて、眠れないというチャリを見守るムリナの情景は、二人が強い愛情の絆で結ばれていたことを物語っている。実は彼らが、今で言うところの不倫の末の駆け落ちだったことがわかるのは、後のこと。別に二人がそれを隠していた訳ではないが。チャリの二人の娘、タブとムチェンザラについても、私は当然、ムリナとチャリの間にできた子供だと思い込んでいた。

しかし、こうした下世話なことよりも、二人の話がもっぱら施術(uganga 癒やしの術)に集中していること。

チャリの「重病」については、その具体的な病名とかは推し量ることは、医学の知識の乏しい私には難しい。単に食欲がないではなく、主食のワリ(wari トウモロコシ粉で作る練粥)が6年間も食べられなかったという。それと不眠。6年間眠らなかったというのは、さすがに誇張だろうが、それをムリナがときにうとうとしつつも眠らずに見守っていたというのも泣ける。「心臓が毟られる、ちぎり取られる(ku-fatsulwa)」は、あるいはそのstativeである「もげる」(ku-futsuka、これはバナナがその房からもげた、といった場合にも用いられる表現)も、ドゥルマではよく聞く表現なのだが、ピンとこない。脇腹(あるいは肋骨)が「上に上がる(kupanda dzulu)」も同様に、よくわからない。呼吸困難、息苦しいといった感じだろうか。

ムリナの少ない労賃は、すべて施術師への支払いに消えていたようだ。チャリは、一時は病院での治療を受け、キリスト教に改宗することすら考えていた様子だ。ここで語られている病気に苦しんでいた時期(おそらく1970年代末から1980年代なかば)は、ケニアにおける国立の病院や診療所は原則無料であったことを考えると、病院での治療に夫婦喧嘩をしなければならないほどの高いハードルがあったというのは奇妙かもしれない。話の流れからは、治療費支払いの困難から病院という選択肢をチャリが選ぼうとしたことがわかる。しかし、ムリナとチャリの双方の認識として、チャリの病気は本来病院では治療不可能な、憑依霊や妖術によるものだったと思われる。こうした病気には、施術師以外に対処できる者はいない。当時はまだまだドゥルマでは極めて少数者であったキリスト教への入信が選択肢として浮上するのはこの文脈においてである。少数のキリスト教信者が熱心に説いているように、イエス(Jeso)には、もしかしたら憑依霊や、妖術使いを凌駕する力があるのかもしれない。この当時においては、一か八かの勝率の低い賭けに出なければならないほど、二人は追い詰められていたのだとも言える。

しかし、結局はチャリは、この選択肢をとらなかった。これがこの体験談の最後に語られる一族のなかに引き継がれている「癒やしの術(ungaga)」という考えである。チャリの母方の祖父デレは、チャリによると高名な施術師であった。そしてデレの子供たち、そして孫たちのなかにもデレの施術(ムコバ(mukoba)、施術の編み袋)を継承したとされる施術師がたくさんいる。チャリの目にはは自分の病気が、彼らデレの子孫たちと同様、デレのムコバを引き継ぐようにチャリが求められている印であると写っていたのである。彼女のこの確信は、後に聞かされた、幼女時代からはじまったチャリの不思議経験の語りとも結びついている。

このキリスト教への改宗への迷いを除いては、チャリの人生はもっぱら、彼女に憑いているたくさんの厄介な憑依霊たち(そのある者たちはまだ正体すら明かしていない)との、多難な共生の人生だと言える。そしてこの最初の過去語りで語られているエピソードこそ、彼女の憑依霊たちとの共生の最大の分岐点となったエピソードである。彼女のこの病気の中で、憑依霊たちがいっせいに現れてくる(ku-laira142)。そしてその筆頭者であるムルング(mulungu)あるいはムルング子神(mwana mulungu)を「外に出し(kulavya konze)」それに癒やしの仕事を与える。この同じ「外に出す」施術は、憑依霊を「外に出す」ものであると同時に、患者であるチャリ本人を「外に出す」施術としても語られる。施術師としてのチャリのキャリアが始まる。

しかしそれは長続きしない。同時に現れた他の憑依霊たちのある者は、ムルングに仕事が与えられ、自分が無視されたことに怒り、自分も「外に出し」てもらうことを求めて、ムルングの仕事を封じてしまう。こうしてチャリは再び長い病気に苦しむことになる。そしてムルングに続いて、チャリの主霊とも言える憑依霊ドゥルマ人と世界導師が外に出されることになる。

しかしドゥルマ人と世界導師を外に出してくれた、チャリにとっての偉大な施術上の母であるウキ・ワ・ンゴメとチャリは仲違いし、それまで住まわせてもらっていた「母」の屋敷をほとんど追い出されるような形で出る。そしてチャリの母方のつながりを辿って、「ジャコウネコの池」の村に家を構える。それが1987年のことである。

実は、その年1987年7月14日に、私はチャリと一回だけ会っている。当時私は家族とともにキナンゴの町に住んでいた。私のキナンゴの家は、それまでの年の調査で知り合った広汎なつながりの人々が、町に用事でやって来る度に訪れてくれる一種のたまり場のようになっていた。その度に私のパートナーが接待で大忙し。本当に申し訳なかった。その年の中心テーマは、ドゥルマの屋敷の秩序を巡る「冷やしの施術」「死の施術」だったが、ありとあらゆる噂話や、トピックにふれることになった。

そうした我が家の常連の一人が私のよい話し相手の一人、「すっぱい村」のカリンボ老人で、キナンゴに来る都度、私の家に寄ってお茶や私のパートナーの作る料理を楽しみながら、面白い話をいっぱい聞かせてくれていた。ある日の昼前、キナンゴのサブ・チーフとの相談を終えた彼が、いつものように立ち寄り、パートナーが体調を崩して部屋にこもっていたのを知って、おおいに心配しだした。あんなにいつも元気な彼女がこの時間になっても起きてこないのは絶対おかしいというのである。私に占い(mburuga)を打ちに行こうとしきりと勧めてくる。なんでも最近やって来た施術師の占いがめちゃくちゃよく当たる。毎日占い客の列ができている。近くだからぜひ行こうと。私にとっては占い(mburuga)初体験でさっそく二人してでかけることにした。その占い師がチャリだった。

私が「白人」であることで、ちょっとためらう風だったチャリに、カリンボさんは次のように説得した。通常占いを打つ相談者は、自分たちについては何も明かさず黙って座り、占いの施術師自身にすべて語らせるのだが、「白人」絡みではやりにくいだろうと配慮したのかもしれない。

「この施術を必要としている人は、私はあなたを困らせたくはないのです、この施術を必要としている人は、この人、私の同名仲間(somo143カリンボです。私たちは云々の問題があって遣わされました。私たちは、云々と話されてきています。というのは、もし私たちが(いつものムブルガのように)あなた自身が、誰が相談者であるかを選びなさいといったとしたら、あなたはこの人がそうだと知る前に煩わされることになるでしょう。各人が、誰もその身体のなかに彼の問題を抱えています。私たちは小さい子供ではありません。さっそく始めましょう。」

チャリは大した問題じゃないよ、と言いながら瓢箪のマラカスを振り始めた。

結果は、ワタシ的には、それほど印象深いものではなかった(DB 259-272)。だって、パートナーの病気が憑依霊アラブ人のせいだ、アラブ人の白い布とムルングの黒い布を買えばよいと言われても、おおっ!とはなれないもの。しかもパートナーの不調は簡単に済ませて、私のことをいろいろ言い始めるのだ。「お金を稼いでも、全然たまらない。気がついたら無くなっている。」いや、当たってますけど。1986年8月から1987年8月までの調査は、大学を無休休職させてもらって自費でやってたんだもの。すっからかんですよ。私に対して下された診断は、私が妖術フュラモヨ(fyulamoyo144)をかけられたのだというもの。妖術によって、心が曲げられて正常な思考ができなくなる、生活も無計画で、職場でも問題だらけになってしまう。たしかに。しかし、皮膚に使いまわしのカミソリで何箇所も切り傷を入れて、それに黒い炭の粉みたいな薬を刷り込む施術は、勘弁してください。エイズ流行ってます。 (その翌週、パートナーは発熱しマラリアであることが判明、二人の子供も次々にマラリアに倒れ、私一人無事で、針のむしろの日々。やっぱり憑依霊アラブ人のせいじゃなかった。)

さて、それからの2年間にムリナとチャリの生活にどのような変化があったのだろうか。2週間前の、よくわからない「月のカヤンバ」での憑依霊たちのやりとりを理解するためには、まだまだ知らねばならないことが多そうである。

注釈


1 クク(k'uk'u)。「鶏」一般。雄鶏は jogolo(pl. majogolo)。'k'uk'u wa kundu' 赤(茶系)の鶏。'k'uk'u mweruphe' 白い鶏。'k'uk'u mwiru' 黒い鶏。'k'uk'u wa chidimu' 逆毛の鶏、'k'uk'u wa girisi' 首の部分に羽毛のない鶏、'k'uk'u wa mirimiri' 細かい混合色(黒地に白や茶の細かい斑点)、'k'uk'u wa chiphangaphanga' カタグロトビのような模様の毛色(白、黒、灰色)の鶏など。
2 ンゴマ(ngoma)。「太鼓」あるいは太鼓演奏を伴う儀礼。木の筒にウシの革を張って作られた太鼓。または太鼓を用いた演奏の催し。憑依霊を招待し、徹夜で踊らせる催しもンゴマngomaと総称される。太鼓には、首からかけて両手で打つ小型のチャプオ(chap'uo, やや大きいものをp'uoと呼ぶ)、大型のムキリマ(muchirima)、片面のみに革を張り地面に置いて用いるブンブンブ(bumbumbu)などがある。ンゴマでは異なる音程で鳴る大小のムキリマやブンブンブを寝台の上などに並べて打ち分け、旋律を出す。熟練の技が必要とされる。チャプオは単純なリズムを刻む。憑依霊の踊りの催しには太鼓よりもカヤンバkayambaと呼ばれる、エレファントグラスの茎で作った2枚の板の間にトゥリトゥリの実(t'urit'uri3)を入れてジャラジャラ音を立てるようにした打楽器の方が広く用いられ、そうした催しはカヤンバあるいはマカヤンバと呼ばれる。もっとも、使用楽器によらず、いずれもンゴマngomaと呼ばれることも多い。特に太鼓だということを強調する場合には、そうした催しは ngoma zenye 「本当のngoma」と呼ばれることもある。また、そこでは各憑依霊の持ち歌が歌われることから、この催しは単に「歌(wira4)」と呼ばれることもある。
3 ムトゥリトゥリ(mut'urit'uri)。和名トウアズキ。憑依霊ムルング他の草木。Abrus precatorius(Pakia&Cooke2003:390)。その実はトゥリトゥリと呼ばれ、カヤンバ楽器(kayamba)や、占いに用いる瓢箪(chititi)の中に入れられる。
4 ウィラ(wira, pl.miira, mawira)。「歌」。しばしば憑依霊を招待する、太鼓やカヤンバ5の伴奏をともなう踊りの催しである(それは憑依霊たちと人間が直接コミュニケーションをとる場でもある)ンゴマ(2)、カヤンバ(5)と同じ意味で用いられる。
5 カヤンバ(kayamba)。憑依霊に対する「治療」のもっとも中心で盛大な機会がンゴマ(ngoma)あるはカヤンバ(makayamba)と呼ばれる歌と踊りからなるイベントである。どちらの名称もそこで用いられる楽器にちなんでいる。ンゴマ(ngoma)は太鼓であり、カヤンバ(kayamba, pl. makayamba)とはエレファントグラスの茎で作った2枚の板の間にトゥリトゥリの実(t'urit'ti3)を入れてジャラジャラ音を立てるようにした打楽器で10人前後の奏者によって演奏される。実際に用いられる楽器がカヤンバであっても、そのイベントをンゴマと呼ぶことも普通である。カヤンバ治療にはさまざまな種類がある。また、そこでは各憑依霊の持ち歌が歌われることから、この催しは単に「歌(wira4)」と呼ばれることもある。
6 ジュマ(jumaまたはjumma, pl.majuma)。「週」「4日間からなる週の最終日」。この日は一切の農作業をしてはならないとされてきた。また施術師もこの日は施術は行わない。詳しくはドゥルマの月日の数え方
7 ク・ラヴャ・コンゼ(ンゼ)(ku-lavya konze, ku-lavya nze)は、字義通りには「外に出す」だが、憑依の文脈では、人を正式に癒し手(muganga、治療師、施術師)にするための一連の儀礼のことを指す。人を目的語にとって、施術師になろうとする者について誰それを「外に出す」という言い方をするが、憑依霊を目的語にとってたとえばムルングを外に出す、ムルングが「出る」といった言い方もする。同じく「癒しの術(uganga)」が「外に出る」、という言い方もある。憑依霊ごとに違いがあるが、最も多く見られるムルング子神を「外に出す」場合、最終的には、夜を徹してのンゴマ(またはカヤンバ)で憑依霊たちを招いて踊らせ、最後に施術師見習いはトランス状態(kugolomokpwa)で、隠された瓢箪子供を見つけ出し、占いの技を披露し、憑依霊に教えられてブッシュでその憑依霊にとって最も重要な草木を自ら見つけ折り取ってみせることで、一人前の癒し手(施術師)として認められることになる。
8 ムルング(mulungu)。ムルングはドゥルマにおける至高神で、雨をコントロールする。憑依霊のムァナムルング(mwanamulungu)9との関係は人によって曖昧。憑依霊につく「子供」mwanaという言葉は、内陸系の憑依霊につける敬称という意味合いも強い。一方憑依霊のムルングは至高神ムルング(女性だとされている)の子供だと主張されることもある。私はムァナムルング(mwanamulungu)については「ムルング子神」という訳語を用いる。しかし単にムルング(mulungu)で憑依霊のムァナムルングを指す言い方も普通に見られる。このあたりのことについては、ドゥルマの(特定の人による理論ではなく)慣用を尊重して、あえて曖昧にとどめておきたい。
9 ムァナムルング(mwanamulungu)。「ムルング子神」と訳しておく。憑依霊の名前の前につける"mwana"には敬称的な意味があると私は考えている。しかし至高神ムルング(mulungu)と憑依霊のムルング(mwanamulungu)の関係については、施術師によって意見が分かれることがある。多くの人は両者を同一とみなしているが、天にいるムルング(女性)が地上に落とした彼女の子供(女性)だとして、区別する者もいる。いずれにしても憑依霊ムルングが、すべての憑依霊の筆頭であるという点では意見が一致している。憑依霊ムルングも他の憑依霊と同様に、自分の要求を伝えるために、自分が惚れた(あるいは目をつけた kutsunuka)人を病気にする。その症状は身体全体にわたる。その一つに人々が発狂(kpwayuka)と呼ぶある種の精神状態がある。また女性の妊娠を妨げるのも憑依霊ムルングの特徴の一つである。ムルングがこうした症状を引き起こすことによって満たそうとする要求は、単に布(nguo ya mulungu と呼ばれる黒い布 nguo nyiru (実際には紺色))であったり、ムルングの草木を水の中で揉みしだいた薬液を浴びることであったり(chiza10)、ムルングの草木を鍋に詰め少量の水を加えて沸騰させ、その湯気を浴びること(「鍋nyungu」)であったりする。さらにムルングは自分自身の子供を要求することもある。それは瓢箪で作られ、瓢箪子供と呼ばれる14。女性の不妊はしばしばムルングのこの要求のせいであるとされ、瓢箪子供をムルングに差し出すことで妊娠が可能になると考えられている15。この瓢箪子供は女性の子供と一緒に背負い布に結ばれ、背中の赤ん坊の健康を守り、さらなる妊娠を可能にしてくれる。しかしムルングの究極の要求は、患者自身が施術師になることである。ムルングが引き起こす症状で、すでに言及した「発狂kpwayuka」は、ムルングのこの究極の要求につながっていることがしばしばである。ここでも瓢箪子供としてムルングは施術師の「子供」となり、彼あるいは彼女の癒やしの術を助ける。もちろん、さまざまな憑依霊が、癒やしの仕事(kazi ya uganga)を欲して=憑かれた者がその霊の癒しの術の施術師(muganga 癒し手、治療師)となってその霊の癒やしの術の仕事をしてくれるようになることを求めて、人に憑く。最終的にはこの願いがかなうまでは霊たちはそれを催促するために、人を様々な病気で苦しめ続ける。憑依霊たちの筆頭は神=ムルングなので、すべての施術師のキャリアは、まず子神ムルングを外に出す(徹夜のカヤンバ儀礼を経て、その瓢箪子供を授けられ、さまざまなテストをパスして正式な施術師として認められる手続き)ことから始まる。
10 キザ(chiza)。憑依霊のための草木(muhi主に葉)を細かくちぎり、水の中で揉みしだいたもの(vuo=薬液)を容器に入れたもの。患者はそれをすすったり浴びたりする。憑依霊による病気の治療の一環。室内に置くものは小屋のキザ(chiza cha nyumbani)、屋外に置くものは外のキザ(chiza cha konze)と呼ばれる。容器としては取っ手のないアルミの鍋(sfuria)が用いられることも多いが、外のキザには搗き臼(chinu)が用いられることが普通である。屋外に置かれたものは「池」(ziya11)とも呼ばれる。しばしば鍋治療(nyungu13)とセットで設置される。
11 ジヤ(ziya, pl.maziya)。「池、湖」。川(muho)、洞窟(pangani)とともに、ライカ(laika)、キツィンバカジ(chitsimbakazi),シェラ(shera)などの憑依霊の棲み処とされている。またこれらの憑依霊に対する薬液(vuo12)が入った搗き臼(chinu)や料理鍋(sufuria)もジヤと呼ばれることがある(より一般的にはキザ(chiza10)と呼ばれるが)。
12 ヴオ(vuo, pl. mavuo)。「薬液」、さまざまな草木の葉を水の中で揉みしだいた液体。すすったり、phungo(葉のついた小枝の束)を浸して雫を患者にふりかけたり、それで患者を洗ったり、患者がそれをすくって浴びたり、といった形で用いる。
13 ニュング(nyungu)。nyunguとは土器製の壺のような形をした鍋で、かつては煮炊きに用いられていた。このnyunguに草木(mihi)その他を詰め、火にかけて沸騰させ、この鍋を脚の間において座り、すっぽり大きな布で頭から覆い、鍋の蒸気を浴びる(kudzifukiza; kochwa)。それが終わると、キザchiza10、あるいはziya(池)のなかの薬液(vuo)を浴びる(koga)。憑依霊治療の一環の一種のサウナ的蒸気浴び治療であるが、患者に対してなされる治療というよりも、患者に憑いている霊に対して提供されるサービスだという側面が強い。https://www.mihamamoto.com/research/mijikenda/durumatxt/pot-treatment.htmlを参照のこと
14 ムァナ・ワ・ンドンガ(mwana wa ndonga)。ムァナ(mwana, pl. ana)は「子供」、ンドンガ(ndonga)は「瓢箪」。「瓢箪の子供」を意味する。「瓢箪子供」と訳すことにしている。瓢箪の実(chirenje)で作った子供。瓢箪子供には2種類あり、ひとつは施術師が特定の憑依霊(とその仲間)の癒やしの術(uganga)をとりおこなえる施術師に就任する際に、施術上の父と母から授けられるもので、それは彼(彼女)の施術の力の源泉となる大切な存在(彼/彼女の占いや治療行為を助ける憑依霊はこの瓢箪の姿をとった彼/彼女にとっての「子供」とされる)である。一方、こうした施術師の所持する瓢箪子供とは別に、不妊に悩む女性に授けられるチェレコchereko(ku-ereka 「赤ん坊を背負う」より)とも呼ばれる瓢箪子供15がある。瓢箪子供の各部の名称については、図24を参照。
15 チェレコ(chereko)。「背負う」を意味する動詞ク・エレカ(kpwereka)より。不妊の女性に与えられる瓢箪子供14。子供がなかなかできない(ドゥルマ語で「彼女は子供をきちんと置かない kaika ana」と呼ばれる事態で、連続する死産、流産、赤ん坊が幼いうちに死ぬ、第二子以降がなかなか生まれないなども含む)原因は、しばしば自分の子供がほしいムルング子神9がその女性の出産力に嫉妬して、その女性の妊娠を阻んでいるためとされる。ムルング子神の瓢箪子供を夫婦に授けることで、妻は再び妊娠すると考えられている。まだ一切の加工がされていない瓢箪(chirenje)を「鍋」とともにムルングに示し、妊娠・出産を祈願する。授けられた瓢箪は夫婦の寝台の下に置かれる。やがて妻に子供が生まれると、徹夜のカヤンバを開催し施術師はその瓢箪の口を開け、くびれた部分にビーズ ushangaの紐を結び、中身を取り出す。夫婦は二人でその瓢箪に心臓(ムルングの草木を削って作った木片mapande16)、内蔵(ムルングの草木を砕いて作った香料22)、血(ヒマ油23)を入れて「瓢箪子供」にする。徹夜のカヤンバが夜明け前にクライマックスになると、瓢箪子供をムルング子神(に憑依された妻)に与える。以後、瓢箪子供は夜は夫婦の寝台の上に置かれ、昼は生まれた赤ん坊の背負い布の端に結び付けられて、生まれてきた赤ん坊の成長を守る。瓢箪子どもの血と内臓は、切らさないようにその都度、補っていかねばならない。夫婦の一方が万一浮気をすると瓢箪子供は泣き、壊れてしまうかもしれない。チェレコを授ける儀礼手続きの詳細は、浜本満, 1992,「「子供」としての憑依霊--ドゥルマにおける瓢箪子供を連れ出す儀礼」『アフリカ研究』Vol.41:1-22を参照されたい。
16 パンデ(pande, pl.mapande)。草木の幹、枝、根などを削って作る護符17。穴を開けてそこに紐を通し、それで手首、腰、足首など付ける箇所に結びつける。
17 「護符」。憑依霊の施術師が、憑依霊によってトラブルに見舞われている人に、処方するもので、患者がそれを身につけていることで、苦しみから解放されるもの。あるいはそれを予防することができるもの。ンガタ(ngata18)、パンデ(pande16)、ピング(pingu19)、ヒリジ(hirizi20)、ヒンジマ(hinzima21)など、さまざまな種類がある。ピング(pingu)で全部を指していることもある。憑依霊ごとに(あるいは憑依霊のグループごとに)固有のものがある。勘違いしやすいのは、それを例えば憑依霊除けのお守りのようなものと考えてしまうことである。施術師たちは、これらを憑依霊に対して差し出される椅子(chihi)だと呼ぶ。憑依霊は、自分たちが気に入った者のところにやって来るのだが、椅子がないと、その者の身体の各部にそのまま腰を下ろしてしまう。すると患者は身体的苦痛その他に苦しむことになる。そこで椅子を用意しておいてやれば、やってきた憑依霊はその椅子に座るので、患者が苦しむことはなくなる、という理屈なのである。「護符」という訳語は、それゆえあまり適切ではないのだが、それに代わる適当な言葉がないので、とりあえず使い続けることにするが、霊を寄せ付けないためのお守りのようなものと勘違いしないように。
18 ンガタ(ngata)。護符17の一種。布製の長方形の袋状で、中に薬(muhaso),香料(mavumba),小さな紙に描いた憑依霊の絵などが入れてあり、紐で腕などに巻くもの、あるいは帯状の布のなかに薬などを入れてひねって包み、そのまま腕などに巻くものなど、さまざまなものがある。
19 ピング(pingu)。薬(muhaso:さまざまな草木由来の粉)を布などで包み、それを糸でぐるぐる巻きに球状に縫い固めた護符17の一種。厳密にはそうなのだが、護符の類をすべてピングと呼ぶ使い方も広く見られる。
20 ヒリジ(hirizi, pl.hirizi)。スワヒリ語では、コーランの章句を書いて作った護符を指す。革で作られた四角く縫い合わされた小さな袋状の護符で、コーランの章句が書かれた紙などが折りたたまれて封入されている。紐が通してあり、首などから掛ける。ドゥルマでも同じ使い方もされるが、イスラムの施術師が作るものにはヒンジマ(hinzima21)という言葉があり、ヒリジは、ドゥルマでは非イスラムの施術師によるピングなどの護符を含むような使い方も普通にされている。
21 ヒンジマ(hinzima, pl. hinzima)。革で作られた四角く縫い合わされた小さな袋状の護符で、コーランの章句が書かれた紙などが折りたたまれて封入されている。紐が通してあり、首などから掛ける。イスラム教の施術師によって作られる。スワヒリ語のヒリジ(hirizi)に当たるが、ドゥルマではヒリジ(hirizi20)という語は、非イスラムの施術師が作る護符(pinguなど)も含む使い方をされている。イスラムの施術師によって作られるものを特に指すのがヒンジマである。
22 マヴンバ(mavumba)。「香料」。憑依霊の種類ごとに異なる。乾燥した草木や樹皮、根を搗き砕いて細かくした、あるいは粉状にしたもの。イスラム系の霊に用いられるものは、スパイスショップでピラウ・ミックスとして購入可能な香辛料ミックス。
23 ニョーノ(nyono)。ヒマ(mbono, mubono)の実、そこからヒマの油(mafuha ga nyono)を抽出する。さまざまな施術に使われるが、ヒマの油は閉経期を過ぎた女性によって抽出されねばならない。ムルングの瓢箪子供には「血」としてヒマの油が入れられる。
24 ンドンガ(ndonga)。瓢箪chirenjeを乾燥させて作った容器。とりわけ施術師(憑依霊、妖術、冷やしを問わず)が「薬muhaso」を入れるのに用いられる。憑依霊の施術師の場合は、薬の容器とは別に、憑依霊の瓢箪子供 mwana wa ndongaをもっている。内陸部の霊たちの主だったものは自らの「子供」を欲し、それらの霊のmuganga(癒し手、施術師)は、その就任に際して、医療上の父と母によって瓢箪で作られた、それらの霊の「子供」を授かる。その瓢箪は、中に心臓(憑依霊の草木muhiの切片)、血(ヒマ油、ハチミツ、牛のギーなど、霊ごとに定まっている)、腸(mavumba=香料、細かく粉砕した草木他。その材料は霊ごとに定まっている)が入れられている。瓢箪子供は施術師の癒やしの技を手助けする。しかし施術師が過ちを犯すと、「泣き」(中の液が噴きこぼれる)、施術師の癒やしの仕事(uganga)を封印してしまったりする。一方、イスラム系の憑依霊たちはそうした瓢箪子供をもたない。例外が世界導師とペンバ人なのである(ただしペンバ人といっても呪物除去のペンバ人のみで、普通の憑依霊ペンバ人は瓢箪をもたない)。瓢箪子供については〔浜本 1992〕に詳しい(はず)。
25 ムドゥルマ(muduruma, pl. aduruma)。憑依霊ドゥルマ人、田舎者で粗野、ひょうきんなところもあるが、重い病気を引き起こす。多くの別名をもつ一方、さまざまなドゥルマ人がいる。男女のドゥルマ人は施術師になった際に、瓢箪子供を共有できない。男のドゥルマ人は瓢箪に入れる「血」はヒマ油だが女のドゥルマ人はハチミツと異なっているため。カルメ・ンガラ(kalumengala 男性26)、カシディ(kasidi 女性27)、ディゴゼー(digozee 男性老人28)。この3人は明らかに別の実体(?)と思われるが、他の呼称は、たぶんそれぞれの別名だろう。ムガイ(mugayi 「困窮者」)、マシキーニ(masikini「貧乏人」)、ニョエ(nyoe 男性、ニョエはバッタの一種でトウモロコシの穂に頭を突っ込む習性から、内側に潜り込んで隠れようとする憑依霊ドゥルマ人(病気がドゥルマ人のせいであることが簡単にはわからない)の特徴を名付けたもの、ただしニョエがドゥルマ人であることを否定する施術師もいる)。ムキツェコ(muchitseko、動詞 kutseka=「笑う」より)またはムキムェムェ(muchimwemwe(alt. muchimwimwi)、名詞chimwemwe(alt. chimwimwi)=「笑い上戸」より)は、理由なく笑いだしたり、笑い続けるというドゥルマ人の振る舞いから名付けたもの。症状:全身の痒みと掻きむしり(kuwawa mwiri osi na kudzikuna)、腹部熱感(ndani kpwaka moho)、息が詰まる(ku-hangama pumzi),すぐに気を失う(kufa haraka(ku-faは「死ぬ」を意味するが、意識を失うこともkufaと呼ばれる))、長期に渡る便秘、腹部膨満(ndani kuodzala字義通りには「腹が何かで満ち満ちる」))、絶えず便意を催す、膿を排尿、心臓がブラブラする、心臓が(毛を)むしられる、不眠、恐怖、死にそうだと感じる、ブッシュに逃げ込む、(周囲には)元気に見えてすぐ病気になる/病気に見えて、すぐ元気になる(ukongo wa kasidi)。行動: 憑依された人はトウモロコシ粉(ただし石臼で挽いて作った)の練り粥を編み籠(chiroboと呼ばれる持ち手のない小さい籠)に入れて食べたがり、半分に割った瓢箪製の容器(ngere)に注いだ苦い野草のスープを欲しがる。あたり構わず排便、排尿したがる。要求: 男のドゥルマ人は白い布(charehe)と革のベルト(mukanda wa ch'ingo)、女のドゥルマ人は紺色の布(nguo ya mulungu)にビーズで十字を描いたもの、癒やしの仕事。治療: 「鍋」、煮る草木、ぼろ布を焼いてその煙を浴びる。(注釈の注釈: ドゥルマの憑依霊の世界にはかなりの流動性がある。施術師の間での共通の知識もあるが、憑依霊についての知識の重要な源泉が、施術師個々人が見る夢であることから、施術師ごとの変異が生じる。同じ施術師であっても、時間がたつと知識が変化する。例えば私の重要な相談相手の一人であるChariはドゥルマ人と世界導師をその重要な持ち霊としているが、彼女は1989年の時点ではディゴゼーをドゥルマ人とは位置づけておらず(夢の中でディゴゼーがドゥルマ語を喋っており、カヤンバの席で出現したときもドゥルマ語でやりとりしている事実はあった)、独立した憑依霊として扱っていた。しかし1991年の時点では、はっきりドゥルマ人の長老として、ドゥルマ人のなかでもリーダー格の存在として扱っていた。)
26 カルメンガラ(kalumeng'ala)。直訳すれば「光る小さな男」。憑依霊ドゥルマ人(muduruma25)の別名、男性のドゥルマ人。「内の問題も、外の問題も知っている」と歌われる。
27 カシディ(kasidi)。この言葉は、状況にその行為を余儀なくしたり,予期させたり,正当化したり,意味あらしめたりするものがないのに自分からその行為を行なうことを指し、一連の場違いな行為、無礼な行為、(殺人の場合は偶然ではなく)故意による殺人、などがkasidiとされる。「mutu wa kasidi=kasidiの人」は無礼者。「ukongo wa kasidi= kasidiの病気」とは施術師たちによる解説では、今にも死にそうな重病かと思わせると、次にはケロッとしているといった周りからは仮病と思われてもしかたがない病気のこと。仮病そのものもkasidi、あるはukongo wa kasidiと呼ばれることも多い。あるいは重病で意識を失ったかと思うと、また「生き返り」を繰り返す病気も、この名で呼ばれる。またカシディは、女性の憑依霊ドゥルマ人(muduruma25)の名称でもある。カシディに憑かれた場合の特徴的な病気は上述のukongo wa kasidi(カシディの病気)であり、カヤンバなどで出現したカシディの振る舞いは、場違いで無礼な振る舞いである。男性の憑依霊ドゥルマ人とは別の、蜂蜜を「血」とする瓢箪子供を要求する。
28 ディゴゼー(digozee)。憑依霊ドゥルマ人の一種とも。田舎者の老人(mutumia wa nyika)。極めて年寄りで、常に毛布をまとう。酒を好む。ディゴゼーは憑依霊ドゥルマ人の長、ニャリたちのボスでもある。ムビリキモ(mubilichimo29)マンダーノ(mandano30)らと仲間で、憑依霊ドゥルマ人の瓢箪を共有する。症状:日なたにいても寒気がする、腰が断ち切られる(ぎっくり腰)、声が老人のように嗄れる。要求:毛布(左肩から掛け一日中纏っている)、三本足の木製の椅子(紐をつけ、方から掛けてどこへ行くにも持っていく)、編んだ肩掛け袋(mukoba)、施術師の錫杖(muroi)、動物の角で作った嗅ぎタバコ入れ(chiko cha pembe)、酒を飲むための瓢箪製のコップとストロー(chiparya na muridza)。治療:憑依霊ドゥルマの「鍋」、煙浴び(ku-dzifukiza 燃やすのはボロ布または乳香)。
29 ムビリキモ(mbilichimo)。民族名の憑依霊、ピグミー(スワヒリ語でmbilikimo/(pl.)wabilikimo)。身長(kimo)がない(mtu bila kimo)から。憑依霊の世界では、ディゴゼー(digozee)と組んで現れる。女性の霊だという施術師もいる。症状:脚や腰を断ち切る(ような痛み)、歩行不可能になる。要求: 白と黒のビーズをつけた紺色の(ムルングの)布。ビーズを埋め込んだ木製の三本足の椅子。憑依霊ドゥルマ人の瓢箪に同居する。
30 マンダーノ(mandano)。憑依霊。mandanoはドゥルマ語で「黄色」。女性の霊。つねに憑依霊ドゥルマ人とともにやってくる。独りでは来ない。憑依霊ドゥルマ人、ディゴゼー、ムビリキモ、マンダーノは一つのグループになっている。症状: 咳、喀血、息が詰まる。貧血、全身が黄色くなる、水ばかり飲む。食べたものはみな吐いてしまう。要求: 黄色いビーズと白いビーズを互違いに通した耳飾り、青白青の三色にわけられた布(二辺に穴あき硬貨(hela)と黄色と白のビーズ飾りが縫いつけられている)、自分に捧げられたヤギ。草木: mutundukula、mudungu
31 ムァリム・ドゥニア(mwalimu dunia)。「世界導師32。内陸bara系33であると同時に海岸pwani系34であるという2つの属性を備えた憑依霊。別名バラ・ナ・プワニ(bara na pwani「内陸部と海岸部」60)。キナンゴ周辺ではあまり知られていなかったが、Chariがやってきて、にわかに広がり始めた。ヘビ。イスラムでもあるが、瓢箪子供をもつ点で内陸系の霊の属性ももつ。
32 イリム・ドゥニア(ilimu dunia)。ドゥニア(dunia)はスワヒリ語で「世界」の意。チャリ、ムリナ夫妻によると ilimu dunia(またはelimu dunia)は世界導師(mwalimu dunia31)の別名で、きわめて強力な憑依霊。その最も顕著な特徴は、その別名 bara na pwani(内陸部と海岸部)からもわかるように、内陸部の憑依霊と海岸部のイスラム教徒の憑依霊たちの属性をあわせもっていることである。しかしLambek 1993によると東アフリカ海岸部のイスラム教の学術の中心地とみなされているコモロ諸島においては、ilimu duniaは文字通り、世界についての知識で、実際には天体の運行がどのように人の健康や運命にかかわっているかを解き明かすことができる知識体系を指しており、mwalimu duniaはそうした知識をもって人々にさまざまなアドヴァイスを与えることができる専門家を指し、Lambekは、前者を占星術、後者を占星術師と訳すことも不適切とは言えないと述べている(Lambek 1993:12, 32, 195)。もしこの2つの言葉が東アフリカのイスラムの学術的中心の一つである地域に由来するとしても、ドゥルマにおいては、それが甚だしく変質し、独自の憑依霊的世界観の中で流用されていることは確かだといえる。
33 バラ(bara)。スワヒリ語で「大陸、内陸部、後背地」を意味する名詞。ドゥルマ語でも同様。非イスラム系の霊は一般に「内陸部の霊 nyama wa bara」と呼ばれる。反対語はプワニ(pwani)。「海岸部、浜辺」。イスラム系の霊は一般に「海岸部の霊 nyama wa pwani」と呼ばれる。
34 ニャマ・ワ・キゾンバ(nyama wa chidzomba, pl. nyama a chidzomba)。「イスラム系の憑依霊」。イスラム系の霊は「海岸の霊 nyama wa pwani」とも呼ばれる。イスラム系の霊たちに共通するのは、清潔好き、綺麗好きということで、ドゥルマの人々の「不潔な」生活を嫌っている。とりわけおしっこ(mikojo、これには「尿」と「精液」が含まれる)を嫌うので、赤ん坊を抱く母親がその衣服に排尿されるのを嫌い、母親を病気にしたり子供を病気にし、殺してしまったりもする。イスラム系の霊の一部には夜女性が寝ている間に彼女と性交をもとうとする霊がいる。男霊(p'ep'o mulume35)の別名をもつ男性のスディアニ導師(mwalimu sudiani56)がその代表例であり、女性に憑いて彼女を不妊にしたり(夫の精液を嫌って排除するので、子供が生まれない)、生まれてくる子供を全て殺してしまったり(その尿を嫌って)するので、最後の手段として危険な除霊(kukokomola)の対象とされることもある。イスラム系の霊は一般に獰猛(musiru)で怒りっぽい。内陸部の霊が好む草木(muhi)や、それを炒って黒い粉にした薬(muhaso)を嫌うので、内陸部の霊に対する治療を行う際には、患者にイスラム系の霊が憑いている場合には、このことについての許しを前もって得ていなければならない。イスラム系の霊に対する治療は、薔薇水や香水による沐浴が欠かせない。このようにきわめて厄介な霊ではあるのだが、その要求をかなえて彼らに気に入られると、彼らは自分が憑いている人に富をもたらすとも考えられている。
35 ペーポームルメ(p'ep'o mulume)。ムルメ(mulume)は「男性」を意味する名詞。男性のスディアニ Sudiani、カドゥメ Kadumeの別名とも。女性がこの霊にとり憑かれていると,彼女はしばしば美しい男と性交している夢を見る。そして実際の夫が彼女との性交を求めても,彼女は拒んでしまうようになるかもしれない。夫の方でも勃起しなくなってしまうかもしれない。女性の月経が終ったとき、もし夫がぐずぐずしていると,夫の代りにペポムルメの方が彼女と先に始めてしまうと、たとえ夫がいくら性交しようとも彼女が妊娠することはない。施術師による治療を受けてようやく、彼女は妊娠するようになる。その治療が功を奏さない場合には、最終的に除霊(ku-kokomola36)もありうる。
36 ク・ココモラ(ku-kokomola)。「除霊する」。憑依霊を2つに分けて、「身体の憑依霊 nyama wa mwirini37」と「除去の憑依霊 nyama wa kuusa3839と呼ぶ呼び方がある。ある種の憑依霊たちは、女性に憑いて彼女を不妊にしたり、生まれてくる子供をすべて殺してしまったりするものがある。こうした霊はときに除霊によって取り除く必要がある。ペポムルメ(p'ep'o mulume35)、カドゥメ(kadume47)、マウィヤ人(Mawiya48)、ドゥングマレ(dungumale51)、ジネ・ムァンガ(jine mwanga52)、トゥヌシ(tunusi53)、ツォビャ(tsovya55)、ゴジャマ(gojama50)などが代表例。しかし除霊は必ずなされるものではない。護符pinguやmapandeで危害を防ぐことも可能である。「上の霊 nyama wa dzulu45」あるいはニューニ(nyuni「キツツキ」46)と呼ばれるグループの霊は、子供にひきつけをおこさせる危険な霊だが、これは一般の憑依霊とは別個の取り扱いを受ける。これも除霊の主たる対象となる。動詞ク・シンディカ(ku-sindika「(戸などを)閉ざす、閉める、閉め出す」)、ク・ウサ(ku-usa「除去する」)、ク・シサ(ku-sisa「(客などを)送っていく、見送る、送り出す(帰り道の途中まで同行して)、殺す」)も同じ除霊を指すのに用いられる。スワヒリ語のku-chomoa(「引き抜く」「引き出す」)から来た動詞 ku-chomowa も、ドゥルマでは「除霊する」の意味で用いられる。ku-chomowaは一つの霊について用いるのに対して、ku-kokomolaは数多くの霊に対してそれらを次々取除く治療を指すと、その違いを説明する人もいる。
37 ニャマ・ワ・ムウィリニ(nyama wa mwirini, pl. nyama a mwirini)「身体の憑依霊」。除霊(kukokomola36)の対象となるニャマ・ワ・クウサ(nyama wa kuusa, pl. nyama a kuusa)「除去の憑依霊」との対照で、その他の通常の憑依霊を「身体の憑依霊」と呼ぶ分類がある。通常の憑依霊は、自分たちの要求をかなえてもらうために人に憑いて、その人を病気にする。施術師がその霊と交渉し、要求を聞き出し、それを叶えることによって病気は治る。憑依霊の要求に応じて、宿主は憑依霊のお気に入りの布を身に着けたり、徹夜の踊りの会で踊りを開いてもらう。憑依霊は宿主の身体を借りて踊り、踊りを楽しむ。こうした関係に入ると、憑依霊を宿主から切り離すことは不可能となる。これが「身体の憑依霊」である。こうした霊を除霊することは極めて危険で困難であり、事実上不可能と考えられている。
38 ニャマ・ワ・クウサ(nyama wa kuusa, pl. nyama a kuusa39)。「除去の憑依霊」。憑依霊のなかのあるものは、女性に憑いてその女性を不妊にしたり、その女性が生む子供を殺してしまったりする。その場合には女性からその憑依霊を除霊する(kukokomola36)必要がある。これはかなり危険な作業だとされている。イスラム系の霊のあるものたち(とりわけジネと呼ばれる霊たち42)は、イスラム系の妖術使いによって攻撃目的で送りこまれる場合があり、イスラム系の施術師による除霊を必要とする。妖術によって送りつけられた霊は、「妖術の霊(nyama wa utsai)」あるいは「薬の霊(nyama wa muhaso)」などの言い方で呼ばれることもある。ジネ以外のイスラム系の憑依霊(nyama wa chidzomba34)も、ときに女性を不妊にしたり、その子供を殺したりするので、その場合には除霊の対象になる。ニャマ・ワ・ズル(nyama wa dzulu, pl.nyama a dzulu45)「上の霊」あるいはニューニ(nyuni46)と呼ばれる多くは鳥の憑依霊たちは、幼児にヒキツケを引き起こしたりすることで知られており、憑依霊の施術師とは別に専門の施術師がいて、彼らの治療の対象であるが、ときには成人の女性に憑いて、彼女の生む子供を立て続けに殺してしまうので、除霊の対象になる。内陸系の霊のなかにも、女性に憑いて同様な危害を及ぼすものがあり、その場合には除霊の対象になる。こうした形で、除霊の対象にならない憑依霊たちは、自分たちの宿主との間に一生続く関係を構築する。要求がかなえられないと宿主を病気にするが、友好的な関係が維持できれば、宿主にさまざまな恩恵を与えてくれる場合もある。これらの大多数の霊は「除去の憑依霊」との対照でニャマ・ワ・ムウィリニ(nyama wa mwirini, pl. nyama a mwirini37)「身体の憑依霊」と呼ばれている。
39 クウサ(ku-usa)。「除去する、取り除く」を意味する動詞。転じて、負っている負債や義務を「返す」、儀礼や催しを「執り行う」などの意味にも用いられる。例えば祖先に対する供犠(sadaka)をおこなうことは ku-usa sadaka、婚礼(harusi)を執り行うも ku-usa harusiなどと言う。クウサ・ムズカ(muzuka)あるいはミジム(mizimu)とは、ムズカに祈願して願いがかなったら云々の物を供犠します、などと約束していた場合、成願時にその約束を果たす(ムズカに「支払いをする(ku-ripha muzuka)」ともいう)ことであったり、妖術使いがムズカに悪しき祈願を行ったために不幸に陥った者が、それを逆転させる措置(たとえば「汚れを取り戻す」40など)を行うことなどを意味する。
40 ノンゴ(nongo)。「汚れ」を意味する名詞だが、象徴的な意味ももつ。ノンゴの妖術 utsai wa nongo というと、犠牲者の持ち物の一部や毛髪などを盗んでムズカ41などに隠す行為で、それによって犠牲者は、「この世にいるようで、この世にいないような状態(dza u mumo na dza kumo)」になり、何事もうまくいかなくなる。身体的不調のみならずさまざまな企ての失敗なども引き起こす。治療のためには「ノンゴを戻す(ku-udza nongo)」必要がある。「悪いノンゴ(nongo mbii)」をもつとは、人々から人気がなくなること、何か話しても誰にも聞いてもらえないことなどで、人気があることは「良いノンゴ(nongo mbidzo)」をもっていると言われる。悪いノンゴ、良いノンゴの代わりに「悪い臭い(kungu mbii)」「良い臭い(kungu mbidzo)」と言う言い方もある。
41 ムズカ(muzuka)。特別な木の洞や、洞窟で霊の棲み処とされる場所。また、そこに棲む霊の名前。ムズカではさまざまな祈願が行われる。地域の長老たちによって降雨祈願が行われるムルングのムズカと呼ばれる場所と、さまざまな霊(とりわけイスラム系の霊)の棲み処で個人が祈願を行うムズカがある。後者は祈願をおこないそれが実現すると必ず「支払い」をせねばならない。さもないと災が自分に降りかかる。妖術使いはしばしば犠牲者の「汚れ40」をムズカに置くことによって攻撃する(「汚れを奪う」妖術)という。「汚れを戻す」治療が必要になる。
42 マジネ(majine)はジネ(jine)の複数形。イスラム系の妖術。イスラムの導師に依頼して掛けてもらうという。コーランの章句を書いた紙を空中に投げ上げるとそれが魔物jineに変化して命令通り犠牲者を襲うなどとされ、人(妖術使い)に使役される存在である。自らのイニシアティヴで人に憑依する憑依霊のジネ(jine)と、一応区別されているが、あいまい。フィンゴ(fingo43)のような屋敷や作物を妖術使いから守るために設置される埋設呪物も、供犠を怠ればジネに変化して人を襲い始めるなどと言われる。
43 フィンゴ(fingo, pl.mafingo)。私は「埋設薬」という翻訳を当てている。(1)妖術使いが、犠牲者の屋敷や畑を攻撃する目的で、地中に埋設する薬(muhaso44)。(2)妖術使いの攻撃から屋敷を守るために屋敷のどこかに埋設する薬。いずれの場合も、さまざまな物(例えば妖術の場合だと、犠牲者から奪った衣服の切れ端や毛髪など)をビンやアフリカマイマイの殻、ココヤシの実の核などに詰めて埋める。一旦埋設されたフィンゴは極めて強力で、ただ掘り出して捨てるといったことはできない。妖術使いが仕掛けたものだと、そもそもどこに埋められているかもわからない。それを探し出して引き抜く(ku-ng'ola mafingo)ことを専門にしている施術師がいる。詳しくは〔浜本満,2014,『信念の呪縛:ケニア海岸地方ドゥルマ社会における妖術の民族誌』九州大学出版会、pp.168-180〕。妖術使いが仕掛けたフィンゴだけが危険な訳では無い。屋敷を守る目的のフィンゴも同様に屋敷の人びとに危害を加えうる。フィンゴは定期的な供犠(鶏程度だが)を要求する。それを怠ると人々を襲い始めるのだという。そうでない場合も、例えば祖父の代の誰かがどこかに仕掛けたフィンゴが、忘れ去られて魔物(jine42)に姿を変えてしまうなどということもある。この場合も、占いでそれがわかるとフィンゴ抜きの施術を施さねばならない。
44 ムハソ muhaso (pl. mihaso)「薬」、とりわけ、土器片などの上で焦がし、その後すりつぶして黒い粉末にしたものを指す。妖術(utsai)に用いられるムハソは、瓢箪などの中に保管され、妖術使い(および妖術に対抗する施術師)が唱えごとで命令することによって、さまざまな目的に使役できる。治療などの目的で、身体に直接摂取させる場合もある。それには、muhaso wa kusaka 皮膚に塗ったり刷り込んだりする薬と、muhaso wa kunwa 飲み薬とがある。muhi(草木)と同義で用いられる場合もある。10cmほどの長さに切りそろえた根や幹を棒状に縦割りにしたものを束ね、煎じて飲む muhi wa(pl. mihi ya) kunwa(or kujita)も、muhaso wa(pl. mihaso ya) kunwa として言及されることもある。このように文脈に応じてさまざまであるが、妖術(utsai)のほとんどはなんらかのムハソをもちいることから、単にムハソと言うだけで妖術を意味する用法もある。
45 ニャマ・ワ・ズル(nyama wa dzulu, pl. nyama a dzulu)。「上の動物、上の憑依霊」。ニューニ(nyuni、直訳するとキツツキ46)と総称される、主として鳥の憑依霊だが、ニューニという言葉は乳幼児や、この病気を持つ子どもの母の前で発すると、子供に発作を引き起こすとされ、忌み言葉になっている。したがってニューニという言葉の代わりに婉曲的にニャマ・ワ・ズルと言う言葉を用いるという。多くの種類がいるが、この病気は憑依霊の病気を治療する施術師とは別のカテゴリーの施術師が治療する。時間があれば別項目を立てて、詳しく紹介するかもしれない。ニャマ・ワ・ズル「上の憑依霊」のあるものは、女性に憑く場合があるが、その場合も、霊は女性をではなく彼女の子供を病気にする。病気になった子供だけでなく、その母親も治療される必要がある。しばしば女性に憑いた「上の霊」はその女性の子供を立て続けに殺してしまうことがあり、その場合は除霊(kukokomola36)の対象となる。
46 ニューニ(nyuni)。「キツツキ」。道を進んでいるとき、この鳥が前後左右のどちらで鳴くかによって、その旅の吉凶を占う。ここから吉凶全般をnyuniという言葉で表現する。(行く手で鳴く場合;nyuni wa kumakpwa 驚きあきれることがある、右手で鳴く場合;nyuni wa nguvu 食事には困らない、左手で鳴く場合;nyuni wa kureja 交渉が成功し幸運を手に入れる、後で鳴く場合;nyuni wa kusagala 遅延や引き止められる、nyuni が屋敷内で鳴けば来客がある徴)。またnyuniは「上の霊 nyama wa dzulu45」と総称される鳥の憑依霊、およびそれが引き起こす子供の引きつけを含む様々な病気の総称(ukongo wa nyuni)としても用いられる。(nyuniの病気には多くの種類がある。施術師によってその分類は異なるが、例えば nyuni wa joka:子供は泣いてばかり、wa nyagu(別名 mwasaga, wa chiraphai):手脚を痙攣させる、その他wa zuni、wa chilui、wa nyaa、wa kudusa、wa chidundumo、wa mwaha、wa kpwambalu、wa chifuro、wa kamasi、wa chip'ala、wa kajura、wa kabarale、wa kakpwang'aなど。これらの「上の霊」のなかには母親に憑いて、生まれてくる子供を殺してしまうものもおり、それらは危険な「除霊」(kukokomola)の対象となる。
47 カドゥメ(kadume)は、ペポムルメ(p'ep'o mulume)、ツォビャ(tsovya)などと同様の振る舞いをする憑依霊。共通するふるまいは、女性に憑依して夜夢の中にやってきて、女性を組み敷き性関係をもつ。女性は夫との性関係が不可能になったり、拒んだりするようになりうる。その結果子供ができない。こうした点で、三者はそれぞれの別名であるとされることもある。護符(ngata)が最初の対処であるが、カドゥメとツォーヴャは、取り憑いた女性の子供を突然捕らえて病気にしたり殺してしまうことがあり、ペポムルメ以上に、除霊(kukokomola)が必要となる。
48 マウィヤ(Mawiya)。民族名の憑依霊、マウィヤ人(Mawia)。モザンビーク北部からタンザニアにかけての海岸部に居住する諸民族のひとつ。同じ地域にマコンデ人(makonde49)もいるが、憑依霊の世界ではしばしばマウィヤはマコンデの別名だとも主張される。ともに人肉を食う習慣があると主張されている(もちデマ)。女性が憑依されると、彼女の子供を殺してしまう(子供を産んでも「血を飲まれてしまって」育たない)。症状は別の憑依霊ゴジャマ(gojama50)と同様で、母乳を水にしてしまい、子供が飲むと嘔吐、下痢、腹部膨満を引き起こす。女性にとっては危険な霊なので、除霊(ku-kokomola)に訴えることもある。
49 マコンデ(makonde)。民族名の憑依霊、マコンデ人(makonde)。別名マウィヤ人(mawiya)。モザンビーク北部からタンザニアにかけての海岸部に居住する諸民族のひとつで、マウィヤも同じグループに属する。人肉食の習慣があると噂されている(デマ)。女性に憑依して彼女の産む子供を殺してしまうので、除霊(ku-kokomola)の対象とされることもある。
50 ゴジャマ(gojama)。憑依霊の一種、ときにゴジャマ導師(mwalimu gojama)とも語られ、イスラム系とみなされることもある。狩猟採集民の憑依霊ムリャングロ(Muryangulo/pl.Aryangulo)と同一だという説もある。ひとつ目の半人半獣の怪物で尾をもつ。ブッシュの中で人の名前を呼び、うっかり応えると食べられるという。ブッシュで追いかけられたときには、葉っぱを撒き散らすと良い。ゴジャマはそれを見ると数え始めるので、その隙に逃げれば良いという。憑依されると、人を食べたくなり、カヤンバではしばしば斧をかついで踊る。憑依された人は、人の血を飲むと言われる。彼(彼女)に見つめられるとそれだけで見つめられた人の血はなくなってしまう。カヤンバでも、血を飲みたいと言って子供を追いかけ回す。また人肉を食べたがるが、カヤンバの席で前もって羊の肉があれば、それを与えると静かになる。ゴジャマをもつ者は、普段の状況でも食べ物の好みがかわり、蜂蜜を好むようになる。また尿に血や膿が混じる症状を呈することがある。さらにゴジャマをもつ女性は子供がもてなくなる(kaika ana)かもしれない。妊娠しても流産を繰り返す。その場合には、雄羊(ng'onzi t'urume)の供犠でその血を用いて除霊(kukokomola36)できる。雄羊の毛を縫い込んだ護符(pingu)を女性の胸のところにつけ、女性に雄羊の尾を食べさせる。
51 ドゥングマレ(dungumale)。母親に憑いて子供を捕らえる憑依霊。症状:発熱mwiri moho。子供泣き止まない。嘔吐、下痢。nyama wa kuusa(除霊ku-kokomola36の対象になる)39。黒いヤギmbuzi nyiru。ヤギを繋いでおくためのロープ。除霊の際には、患者はそのロープを持って走り出て、屋敷の外で倒れる。ドゥングマレの草木: mudungumale=muyama
52 ジネ・ムァンガ(jine mwanga)。イスラム系の憑依霊ジネの一種。別名にソロタニ・ムァンガ(ムァンガ・サルタン(sorotani mwanga))とも。ドゥルマ語では動詞クァンガ(kpwanga, ku-anga)は、「(裸で)妖術をかける、襲いかかる」の意味。スワヒリ語にもク・アンガ(ku-anga)には「妖術をかける」の意味もあるが、かなり多義的で「空中に浮遊する」とか「計算する、数える」などの意味もある。形容詞では「明るい、ギラギラする、輝く」などの意味。昼夜問わず夢の中に現れて(kukpwangira usiku na mutsana)、組み付いて喉を絞める。症状:吐血。女性に憑依すると子どもの出産を妨げる。ngataを処方して、出産後に除霊 ku-kokomolaする。
53 トゥヌシ(tunusi)。ヴィトゥヌシ(vitunusi)とも。憑依霊の一種。別名トゥヌシ・ムァンガ(tunusi mwanga)。イスラム系の憑依霊ジネ(jine42)の一種という説と、ニューニ(nyuni46)の仲間だという説がある。女性がトゥヌシをもっていると、彼女に小さい子供がいれば、その子供が捕らえられる。ひきつけの症状。白目を剥き、手足を痙攣させる。女性自身が苦しむことはない。この症状(捕らえ方(magbwiri))は、同じムァンガが付いたイスラム系の憑依霊、ジネ・ムァンガ54らとはかなり異なっているので同一視はできない。除霊(kukokomola36)の対象であるが、水の中で行われるのが特徴。
54 ムァンガ(mwanga)。憑依霊の名前。「ムァンガ導師 mwalimu mwanga」「アラブ人ムァンガ mwarabu mwanga」「ジネ・ムァンガ jine mwanga」あるいは単に「ムァンガ mwanga」と呼ばれる。イスラム系の憑依霊。昼夜を問わず、夢の中に現れて人を組み敷き、喉を絞める。主症状は吐血。子供の出産を妨げるので、女性にとっては極めて危険。妊娠中は除霊できないので、護符(ngata)を処方して出産後に除霊を行う。また別に、全裸になって夜中に屋敷に忍び込み妖術をかける妖術使いもムァンガ mwangaと呼ばれる。kpwanga(=ku-anga)、「妖術をかける」(薬などの手段に訴えずに、上述のような以上な行動によって)を意味する動詞(スワヒリ語)より。これらのイスラム系の憑依霊が人を襲う仕方も同じ動詞で語られる。
55 ツォビャ(tsovya)。子供を好まず、母親に憑いて彼女の子供を殺してしまう。夜、夢の中にやってきて彼女と性関係をもつ。ニューニ46の一種に加える人もいる。鋭い爪をもった憑依霊(nyama wa mak'ombe)。除霊(kukokomola36)の対象となる「除去の霊nyama wa kuusa39」。see p'ep'o mulume35, kadume47
tsovyaの別名とされる「内陸部のスディアニ」の絵
56 スディアニ(sudiani)。スーダン人だと説明する人もいるが、ザンジバルの憑依を研究したLarsenは、スビアーニ(subiani)と呼ばれる霊について簡単に報告している。それはアラブの霊ruhaniの一種ではあるが、他のruhaniとは若干性格を異にしているらしい(Larsen 2008:78)。もちろんスーダンとの結びつきには言及されていない。スディアニには男女がいる。厳格なイスラム教徒で綺麗好き。女性のスディアニは男性と夢の中で性関係をもち、男のスディアニは女性と夢の中で性関係をもつ。同じふるまいをする憑依霊にペポムルメ(p'ep'o mulume, mulume=男)がいるが、これは男のスディアニの別名だとされている。いずれの場合も子供が生まれなくなるため、除霊(ku-kokomola)してしまうこともある(DB 214)。スディアニの典型的な症状は、発狂(kpwayuka)して、水、とりわけ海に飛び込む。治療は「海岸の草木muhi wa pwani」57による鍋(nyungu13)と、飲む大皿と浴びる大皿(kombe59)。白いローブ(zurungi,kanzu)と白いターバン、中に指輪を入れた護符(pingu19)。
57 ムヒ(muhi、複数形は mihi)。植物一般を指す言葉だが、憑依霊の文脈では、治療に用いる草木を指す。憑依霊の治療においては霊ごとに異なる草木の組み合わせがあるが、大きく分けてイスラム系の憑依霊に対する「海岸部の草木」(mihi ya pwani(pl.)/ muhi wa pwani(sing.))、内陸部の憑依霊に対する「内陸部の草木」(mihi ya bara(pl.)/muhi wa bara(sing.))に大別される。冷やしの施術や、妖術の施術58においても固有の草木が用いられる。muhiはさまざまな形で用いられる。搗き砕いて香料(mavumba22)の成分に、根や木部は切り彫ってパンデ(pande16)に、根や枝は煎じて飲み薬(muhi wa kunwa, muhi wa kujita)に、葉は水の中で揉んで薬液(vuo)に、また鍋の中で煮て蒸気を浴びる鍋(nyungu13)治療に、土器片の上で炒ってすりつぶし黒い粉状の薬(muhaso, mureya)に、など。ミヒニ(mihini)は字義通りには「木々の場所(に、で)」だが、施術の文脈では、施術に必要な草木を集める作業を指す。
58 ウガンガ(uganga)。癒やしの術、治療術、施術などという訳語を当てている。病気やその他の災に対処する技術。さまざまな種類の術があるが、大別すると3つに分けられる。(1)冷やしの施術(uganga wa kuphoza): 安心安全に生を営んでいくうえで従わねばならないさまざまなやり方・きまり(人々はドゥルマのやり方chidurumaと呼ぶ)を犯した結果生じる秩序の乱れや災厄、あるいは外的な事故がもたらす秩序の乱れを「冷やし」修正する術。(2)薬の施術(uganga wa muhaso): 妖術使い(さまざまな薬を使役して他人に不幸や危害をもたらす者)によって引き起こされた病気や災厄に対処する、妖術使い同様に薬の使役に通暁した専門家たちが提供する術。(3)憑依霊の施術(uganga wa nyama): 憑依霊によって引き起こされるさまざまな病気に対処し、憑依霊と交渉し患者と憑依霊の関係を取り持ち、再構築し、安定させる癒やしの術。
59 コンベ(kombe)は「大皿」を意味するスワヒリ語。kombe はドゥルマではイスラム系の憑依霊の治療のひとつである。陶器、磁器の大皿にサフランをローズウォーターで溶いたもので字や絵を描く。描かれるのは「コーランの章句」だとされるアラビア文字風のなにか、モスクや月や星の絵などである。描き終わると、それはローズウォーターで洗われ、瓶に詰められる。一つは甘いバラシロップ(Sharbat Roseという商品名で売られているもの)を加えて、少しずつ水で薄めて飲む。これが「飲む大皿 kombe ra kunwa」である。もうひとつはバケツの水に加えて、それで沐浴する。これが「浴びる大皿 kombe ra koga」である。文字や図像を飲み、浴びることに病気治療の効果があると考えられているようだ。
60 バラ・ナ・プワニ(bara na pwani)。世界導師(mwalimu dunia31)の別名。baraは「内陸部」、pwaniは「海岸部」の意味。ドゥルマでは憑依霊は大きく、nyama wa bara 内陸系の憑依霊と、nyama wa pwani 海岸系の憑依霊に分かれている。海岸系の憑依霊はイスラム教徒である。世界導師は唯一内陸系の霊と海岸系の霊の両方の属性をもつ霊とされている。
61 ココトーニ(Kokotoni)。モンバサ街道沿いの町。建築資材の砕石(kokoto)をとる採石場がある。
62 ラバイ(raphai)。ミジケンダ63を構成する9ある下位集団の一つ。ドゥルマに隣接する。ドゥルマと同様に父系・母系両方の出自集団をもつ。ムラバイ(muraphai, pl.araphai)は「ラバイ人」、キラバイ(chiraphai)は「ラバイ語」あるいは「ラバイ風、ラバイ流」を意味する。
63 ミジケンダ(midzichenda)は直訳すると「9つの屋敷(村)」を意味し、過去においてミジケンダを構成する9集団のそれぞれがカヤ(Kaya=ディゴ語で屋敷(村)を意味する)と呼ばれる要塞村に暮らしていたことに由来する。9つの民族集団は、シュングワヤ(Shungwaya)伝承と呼ばれる共通の起源伝承をもっている。言語的にも近く、それぞれの集団の言語どうしでもかなりな程度の相互理解が可能である。ミジケンダには、ディゴ(Digo)、ドゥルマ(Duruma)、ギリアマ(Giriama, Giryama)、ラバイ(Rabai, Raphai)、カウマ(Kauma)、リベ(Ribe)、カンベ(Kambe)、ジハナ(Jibana, Dzihana)、チョーニィ(Chonyi)が属している。
64 マゼラス(Mazeras)。モンバサ街道沿いの町。キナンゴへの街道の分岐点。
65 ムブルガ(mb>uruga)。「占いの一種」。ムブルガ(mburuga)は憑依霊の力を借りて行う占い。客は占いをする施術師の前に黙って座り、何も言わない。占いの施術師は、自ら客の抱えている問題を頭から始まって身体を巡るように逐一挙げていかねばならない。中にトウアズキ(t'urit'uri)の実を入れたキティティ(chititi)と呼ばれる小型瓢箪を振って憑依霊を呼び、それが教えてくれることを客に伝える。施術師の言うことが当たっていれば、客は「そのとおり taire」と応える。あたっていなければ、その都度、「まだそれは見ていない」などと言って否定する。施術師が首尾よく問題をすべてあげることができると、続いて治療法が指示される。最後に治療に当たる施術師が指定される。客は自分が念頭に置いている複数の施術師の数だけ、小枝を折ってもってくる。施術師は一本ずつその匂いを嗅ぎ、そのなかの一本を選び出して差し出す。それが治療にあたる施術師である。それが誰なのかは施術師も知らない。その後、客の口から治療に当たる施術師の名前が明かされることもある。このムブルガに対して、ドゥルマではムラムロ(mulamulo)というタイプの占いもある。こちらは客のほうが自分から問題を語り、イエス/ノーで答えられる問いを発する。それに対し占い師は、何らかの道具を操作して、客の問いにイエス/ノーのいずれかを応える。この2つの占いのタイプが、そのような問題に対応しているのかについて、詳しくは浜本満1993「ドゥルマの占いにおける説明のモード」『民族学研究』Vol.58(1) 1-28 を参照されたい。
66 ナロレラ(nalorera)は妖術使いの口にする呪いの言葉の定型である。「見る」を意味する動詞クロラ(ku-lola)のprep.form ク・ロレラ(ku-lorera)は、「期待する」「楽しみに待つ」「待ち構える」といった意味の動詞だが。妖術使いが口にすると、呪われた相手に不幸がおこると知っていることをほのめかす言い方になる。日本語風に言えば、「今に見るがいい」とか「今に思い知るがいい」といった感じか。(例)"namulorera yuyu chikala yundavyala ana anji"「こいつがたくさん子供を産むか楽しみに見ていよう」=「見ているがいい。こいつには子供はできないよ。(私の妖術でそうしてやる)」
67 ク・ファ(ku-fa)。「死ぬ」。病気の症状として「意識を失う」という意味でも、この動詞は用いられる。
68 シェラ(shera, pl. mashera)。憑依霊の一種。laikaと同じ瓢箪を共有する。同じく犠牲者のキブリを奪う。症状: 全身の痒み(掻きむしる)、ほてり(mwiri kuphya)、動悸が速い、腹部膨満感、不安、動悸と腹部膨満感は「胸をホウキで掃かれるような症状」と語られるが、シェラという名前はそれに由来する(ku-shera はディゴ語で「掃く」の意)。シェラに憑かれると、家事をいやがり、水汲みも薪拾いもせず、ただ寝ることと食うことのみを好むようになる。気が狂いブッシュに走り込んだり、川に飛び込んだり、高い木に登ったりする。要求: 薄手の黒い布(gushe)、ビーズ飾りのついた赤い布(ショールのように肩に纏う)。治療:「嗅ぎ出し(ku-zuza)69、クブゥラ・ミジゴ(kuphula mizigo 重荷を下ろす71)と呼ばれるほぼ一昼夜かかる手続きによって治療。イキリク(ichiliku73)、おしゃべり女(chibarabando74)、重荷の女(muchet'u wa mizigo75)、気狂い女(muchet'u wa k'oma76)、狂気を煮立てる者(mujita k'oma77)、ディゴ女(muchet'u wa chidigo79、長い髪女(mwadiwa80)などの多くの別名をもつ。男のシェラは編み肩掛け袋(mukoba81)を持った姿で、女のシェラは大きな乳房の女性の姿で現れるという。
69 クズザ(ku-zuza)は「嗅ぐ、嗅いで探す」を意味する動詞。憑依霊の文脈では、もっぱらライカ(laika)等の憑依霊によって奪われたキブリ(chivuri70)を探し出して患者に戻す治療(uganga wa kuzuza)のことを意味する。キツィンバカジ、ライカやシェラをもっている施術師によって行われる。施術師を取り囲んでカヤンバを演奏し、施術師はこれらの霊に憑依された状態で、カヤンバ演奏者たちを引き連れて屋敷を出発する。ライカやシェラが患者のchivuriを奪って隠している洞穴、池や川の深みなどに向かい、鶏などを供犠し、そこにある泥や水草などを手に入れる。出発からここまでカヤンバが切れ目なく演奏され続けている。屋敷に戻り、手に入れた泥などを用いて、取り返した患者のキブリ(chivuri)を患者に戻す。その際にもカヤンバが演奏される。キブリ戻しは、屋内に仰向けに寝ている患者の50cmほど上にムルングの布を広げ、その中に手に入れた泥や水草、睡蓮の根などを入れ、大量の水を注いで患者に振りかける。その後、患者のキブリを捕まえてきた瓢箪の口を開け、患者の目、耳、口、各関節などに近づけ、口で吹き付ける動作。これでキブリは患者に戻される。その後、屋外に患者も出てカヤンバの演奏で踊る。それがすむと、屋外に患者も出てカヤンバの演奏で踊る。クズザ単独で行われる場合は、この後、患者にンガタ18を与える。この施術全体をさして、単にクズザあるいは「嗅ぎ出しのカヤンバ(kayamba ra kuzuza)」と呼ぶ。やり方の細部は、施術師によってかなり異なる。
70 キヴリ(chivuri)。人間の構成要素。いわゆる日本語でいう霊魂的なものだが、その違いは大きい。chivurivuriは物理的な影や水面に写った姿などを意味するが、chivuriと無関係ではない。chivuriは妖術使いや(chivuriの妖術)、ある種の憑依霊によって奪われることがある。人は自分のchivuriが奪われたことに気が付かない。妖術使いが奪ったchivuriを切ると、その持ち主は死ぬ。憑依霊にchivuriを奪われた人は朝夕悪寒を感じたり、頭痛などに悩まされる。chivuriは夜間、人から抜け出す。抜け出したchivuriが経験することが夢になる。妖術使いによって奪われたchivuriを手遅れにならないうちに取り返す治療がある。chivuriの妖術については[浜本, 2014『信念の呪縛:ケニア海岸地方ドゥルマ社会における妖術の民族誌』九州大学出版,pp.53-58]を参照されたい。また憑依霊によって奪われたchivuriを探し出し患者に戻すku-zuza69と呼ばれる手続きもある。
71 憑依霊シェラに対する治療。シェラの施術師となるには必須の手続き。シェラは本来素早く行動的な霊なのだが、重荷(mizigo72)を背負わされているため軽快に動けない。シェラに憑かれた女性が家事をサボり、いつも疲れているのは、シェラが重荷を背負わされているため。そこで「重荷を下ろす」ことでシェラとシェラが憑いている女性を解放し、本来の勤勉で働き者の女性に戻す必要がある。長い儀礼であるが、その中核部では患者はシェラに憑依され、屋敷でさまざまな重荷(水の入った瓶や、ココヤシの実、石などの詰まった網籠を身体じゅうに掛けられる)を負わされ、施術師に鞭打たれながら水辺まで進む。水辺には木の台が据えられている。そこで重荷をすべて下ろし、台に座った施術師の女助手の膝に腰掛けさせられ、ヤギを身体じゅうにめぐらされ、ヤギが供犠されたのち、患者は水で洗われ、再び鞭打たれながら屋敷に戻る。その過程で女性がするべきさまざまな家事仕事を模擬的にさせられる(薪取り、耕作、水くみ、トウモロコシ搗き、粉挽き、料理)、ついで「夫」とベッドに座り、父(男性施術師)に紹介させられ、夫に食事をあたえ、等々。最後にカヤンバで盛大に踊る、といった感じ。まさにミメティックに、重荷を下ろし、家事を学び直し、家庭をもつという物語が実演される。またシェラの癒やしの術を外に出すンゴマにおいても、「重荷下ろし」はその重要な一部として組み込まれている。
72 ムジゴ(muzigo, pl.mizigo)。「荷物」「重荷」。
73 イキリクまたはキリク(ichiliku)。憑依霊シェラ(shera68)の別名。シェラには他にも重荷を背負った女(muchet'u wa mizigo)、長い髪の女(mwadiwa=mutu wa diwa, diwa=長い髪)、狂気を煮たてる者(mujita k'oma)、高速の女((mayo wa mairo) もともととても素速い女性だが、重荷を背負っているため速く動けない)、気狂い女(muchet'u wa k'oma)、口軽女(chibarabando)など、多くの別名がある。無駄口をたたく、他人と折り合いが悪い、分別がない(mutu wa kutsowa akili)といった属性が強調される。
74 キバラバンド(chibarabando)。「おしゃべりな人、おしゃべり」。shera68の別名の一つ
75 ムチェツ・ワ・ミジゴ(muchet'u wa mizigo)。「重荷の女」。憑依霊シェラ68の別名。治療には「重荷下ろし」のカヤンバ(kayamba ra kuphula mizigo)が必要。重荷下ろしのカヤンバ
76 ムチェツ・ワ・コマ(muchet'u wa k'oma)。「きちがい女」。憑依霊シェラ68の別名ともいう。
77 ムジタ・コマ(mujita k'oma)。「狂気を煮立てる者」。憑依霊シェラ(shera68)の別名の一つ。憑依霊ディゴ人(ムディゴ(mudigo78))の別名ともされる。
78 ムディゴ(mudigo)。民族名の憑依霊、ディゴ人(mudigo)。しばしば憑依霊シェラ(shera=ichiliku)もいっしょに現れる。別名プンガヘワ(pungahewa, スワヒリ語でku-punga=扇ぐ, hewa=空気)、ディゴの女(muchet'u wa chidigo)。ディゴ人(プンガヘワも)、シェラ、ライカ(laika)は同じ瓢箪子供を共有できる。症状: ものぐさ(怠け癖 ukaha)、疲労感、頭痛、胸が苦しい、分別がなくなる(akili kubadilika)。要求: 紺色の布(ただしジンジャjinja という、ムルングの紺の布より濃く薄手の生地)、癒やしの仕事(uganga)の要求も。ディゴ人の草木: mupholong'ondo, mup'ep'e, mutundukula, mupera, manga, mubibo, mukanju
79 ムチェツ・ワ・キディゴ(muchet'u wa chidigo)。「ディゴ女」。憑依霊シェラ68の別名。あるいは憑依霊ディゴ人(mudigo78)の女性であるともいう。
80 ムヮディワ(mwadiwa)。「長い髪の女」。憑依霊シェラの別名のひとつともいう。ディワ(diwa)は「長い髪」の意。ムヮディワをマディワ(madiwa)と発音する人もいる(特にカヤンバの歌のなかで)。mayo mwadiwa、mayo madiwa、nimadiwaなどさまざまな言い方がされる。
81 ムコバ(mukoba)。持ち手、あるいは肩から掛ける紐のついた編み袋。サイザル麻などで編まれたものが多い。憑依霊の癒しの術(uganga)では、施術師あるいは癒やし手(muganga)がその瓢箪や草木を入れて運んだり、瓢箪を保管したりするのに用いられるが、癒しの仕事を集約する象徴的な意味をもっている。自分の祖先のugangaを受け継ぐことをムコバ(mukoba)を受け継ぐという言い方で語る。また病気治療がきっかけで患者が、自分を直してくれた施術師の「施術上の子供」になることを、その施術師の「ムコバに入る(kuphenya mukobani)」という言い方で語る。患者はその施術師に4シリングを払い、施術師はその4シリングを自分のムコバに入れる。そして患者に「ヤギと瓢箪いっぱいのヤシ酒(mbuzi na kadzama)」(20シリング)を与える。これによりその患者はその施術師の「ムコバ」に入り、その施術上の子供になる。施術上の子供を辞めるときには、ただやめてはいけない。病気になる。施術上の子供は施術師に「ヤギと瓢箪いっぱいのヤシ酒(mbuzi na kadzama)」を支払い、4シリングを返してもらう。これを「ムコバから出る(kulaa mukobani)」という。
82 ライカ(laika)、ラライカ(lalaika)とも呼ばれる。複数形はマライカ(malaika)。きわめて多くの種類がいる。多いのは「池」の住人(atu a maziyani)。キツィンバカジ(chitsimbakazi83)は、単独で重要な憑依霊であるが、池の住人ということでライカの一種とみなされる場合もある。ある施術師によると、その振舞いで三種に分れる。(1)ムズカのライカ(laika wa muzuka84) ムズカに棲み、人のキブリ(chivuri70)を奪ってそこに隠す。奪われた人は朝晩寒気と頭痛に悩まされる。 laika tunusi85など。(2)「嗅ぎ出し」のライカ(laika wa kuzuzwa) 水辺に棲み子供のキブリを奪う。またつむじ風の中にいて触れた者のキブリを奪う。朝晩の悪寒と頭痛。laika mwendo86,laika mukusi87など。(3)身体内のライカ(laika wa mwirini) 憑依された者は白目をむいてのけぞり、カヤンバの席上で地面に水を撒いて泥を食おうとする laika tophe88, laika ra nyoka88, laika chifofo91など。(4) その他 laika dondo92, laika chiwete93=laika gudu94), laika mbawa95, laika tsulu96, laika makumba97=dena98など。三種じゃなくて4つやないか。治療: 屋外のキザ(chiza cha konze10)で薬液を浴びる、護符(ngata18)、「嗅ぎ出し」施術(uganga wa kuzuza69)によるキブリ戻し。深刻なケースでは、瓢箪子供を授与されてライカの施術師になる。
83 キツィンバカジ(chitsimbakazi)。別名カツィンバカジ(katsimbakazi)。空から落とされて地上に来た憑依霊。ムルングの子供。ライカ(laika)の一種だとも言える。mulungu mubomu(大ムルング)=mulungu wa kuvyarira(他の憑依霊を産んだmulungu)に対し、キツィンバカジはmulungu mudide(小ムルング)だと言われる。男女あり。女のキツィンバカジは、背が低く、大きな乳房。laika dondoはキツィンバカジの別名だとも。「天空のキツィンバカジ(chitsimbakazi cha mbinguni)」と「池のキツィンバカジ(chitsimbakazi cha ziyani)」の二種類がいるが、滞在している場所の違いだけ。キツィンバカジに惚れられる(achikutsunuka)と、頭痛と悪寒を感じる。占いに行くとライカだと言われる。また、「お前(の頭)を破裂させ気を狂わせる anaidima kukulipusa hata ukakala undaayuka.」台所の炉石のところに行って灰まみれになり、灰を食べる。チャリによると夜中にやってきて外から挨拶する。返事をして外に出ても誰もいない。でもなにかお前に告げたいことがあってやってきている。これからしかじかのことが起こるだろうとか、朝起きてからこれこれのことをしろとか。嗅ぎ出しの施術(uganga wa kuzuza)のときにやってきてku-zuzaしてくれるのはキツィンバカジなのだという。
84 ライカ・ムズカ(laika muzuka)。ライカ・トゥヌシ(laika tunusi)の別名。またライカ・ヌフシ(laika nuhusi)、ライカ・パガオ(laika pagao)、ライカ・ムズカは同一で、3つの棲み処(池、ムズカ(洞窟)、海(baharini))を往来しており、その場所場所で異なる名前で呼ばれているのだともいう。ライカ・キフォフォ(laika chifofo)もヌフシの別名とされることもある。
85 ライカ・トゥヌシ(laika tunusi)。ヴィトゥヌシ(vitunusi)は「怒りっぽさ」。トゥヌシ(tunusi)は人々が祈願する洞窟など(muzuka)の主と考えられている。別名ライカ・ムズカ(laika muzuka)、ライカ・ヌフシ。症状: 血を飲まれ貧血になって肌が「白く」なってしまう。口がきけなくなる。(注意!): ライカ・トゥヌシ(laika tunusi)とは別に、除霊の対象となるトゥヌシ(tunusi)がおり、混同しないように注意。ニューニ(nyuni46)あるいはジネ(jine)の一種とされ、女性にとり憑いて、彼女の子供を捕らえる。子供は白目を剥き、手脚を痙攣させる。放置すれば死ぬこともあるとされている。女性自身は何も感じない。トゥヌシの除霊(ku-kokomola)は水の中で行われる(DB 2404)。
86 ライカ・ムェンド(laika mwendo)。動きの速いことからムェンド(mwendo)と呼ばれる。mwendoという語はスワヒリ語と共通だが、「速度、距離、運動」などさまざまな意味で用いられる。唱えごとの中では「風とともに動くもの(mwenda na upepo)」と呼びかけられる。別名ライカ・ムクシ(laika mukusi)。すばやく人のキブリを奪う。「嗅ぎ出し」にあたる施術師は、大急ぎで走っていって,また大急ぎで戻ってこなければならない.さもないと再び chivuri を奪われてしまう。症状: 激しい狂気(kpwayuka vyenye)。
87 ライカ・ムクシ(laika mukusi)。クシ(kusi)は「暴風、突風」。キククジ(chikukuzi)はクシのdim.形。風が吹き抜けるように人のキブリを奪い去る。ライカ・ムェンド(laika mwendo) の別名。
88 ライカ・トブェ(laika tophe)。トブェ(tophe)は「泥」。症状: 口がきけなくなり、泥や土を食べたがる。泥の中でのたうち回る。別名ライカ・ニョカ(laika ra nyoka)、ライカ・マフィラ(laika mwafira89)、ライカ・ムァニョーカ(laika mwanyoka90)、ライカ・キフォフォ(laika chifofo)。
89 ライカ・ムァフィラ(laika mwafira)、fira(mafira(pl.))はコブラ。laika mwanyoka、laika tophe、laika nyoka(laika ra nyoka)などの別名。
90 ライカ・ムァニョーカ(laika mwanyoka)、nyoka はヘビ、mwanyoka は「ヘビの人」といった意味、laika chifofo、laika mwafira、laika tophe、laika nyokaなどの別名
91 ライカ・キフォフォ(laika chifofo)。キフォフォ(chifofo)は「癲癇」あるいはその症状。症状: 痙攣(kufitika)、口から泡を吹いて倒れる、人糞を食べたがる(kurya mavi)、意識を失う(kufa,kuyaza fahamu)。ライカ・トブェ(laika tophe)の別名ともされる。
92 ライカ・ドンド(laika dondo)。dondo は「乳房 nondo」の aug.。乳房が片一方しかない。症状: 嘔吐を繰り返し,水ばかりを飲む(kuphaphika, kunwa madzi kpwenda )。キツィンバカジ(chitsimbakazi83)の別名ともいう。
93 ライカ・キウェテ(laika chiwete)。片手、片脚のライカ。chiweteは「不具(者)」の意味。症状: 脚が壊れに壊れる(kuvunza vunza magulu)、歩けなくなってしまう。別名ライカ・グドゥ(laika gudu)
94 ライカ・グドゥ(laika gudu)。ku-gudula「びっこをひく」より。ライカ・キウェテ(laika chiwete)の別名。
95 ライカ・ムバワ(laika mbawa)。バワ(bawa)は「ハンティングドッグ」。病気の進行が速い。もたもたしていると、血をすべて飲まれてしまう(kunewa milatso)ことから。症状: 貧血(kunewa milatso)、吐血(kuphaphika milatso)
96 ライカ・ツル(laika tsulu)。ツル(tsulu)は「土山、盛り土」。腹部が土丘(tsulu)のように膨れ上がることから。
97 マクンバ(makumba)。憑依霊デナ(dena98)の別名。
98 デナ(dena)。憑依霊の一種。ギリアマ人の長老。ヤシ酒を好む。牛乳も好む。別名マクンバ(makumbaまたはmwakumba)。突然の旋風に打たれると、デナが人に「触れ(richimukumba mutu)」、その人はその場で倒れ、身体のあちこちが「壊れる」のだという。瓢箪子供に入れる「血」はヒマの油ではなく、バター(mafuha ga ng'ombe)とハチミツで、これはマサイの瓢箪子供と同じ(ハチミツのみでバターは入れないという施術師もいる)。症状:発狂、木の葉を食べる、腹が腫れる、脚が腫れる、脚の痛みなど、ニャリ(nyari99)との共通性あり。治療はアフリカン・ブラックウッド(muphingo)ムヴモ(muvumo/Premna chrysoclada)ミドリサンゴノキ(chitudwi/Euphorbia tirucalli)の護符(pande16)と鍋。ニャリの治療もかねる。要求:鍋、赤い布、嗅ぎ出し(ku-zuza)の仕事。ニャリといっしょに出現し、ニャリたちの代弁者として振る舞う。
99 ニャリ(nyari)。憑依霊のグループ。内陸系の憑依霊(nyama a bara)だが、施術師によっては海岸系(nyama a pwani)に入れる者もいる(夢の中で白いローブ(kanzu)姿で現れることもあるとか、ニャリの香料(mavumba)はイスラム系の霊のための香料だとか、黒い布の月と星の縫い付けとか、どこかイスラム的)。カヤンバの場で憑依された人は白目を剥いてのけぞるなど他の憑依霊と同様な振る舞いを見せる。実体はヘビ。症状:発狂、四肢の痛みや奇形。要求は、赤い(茶色い)鶏、黒い布(星と月の縫い付けがある)、あるいは黒白赤の布を継ぎ合わせた布、またはその模様のシャツ。鍋(nyungu)。さらに「嗅ぎ出し(ku-zuza)69」の仕事を要求することもある。ニャリはヘビであるため喋れない。Dena98が彼らのスポークスマンでありリーダーで、デナが登場するとニャリたちを代弁して喋る。また本来は別グループに属する憑依霊ディゴゼー(digozee28)が出て、代わりに喋ることもある。ニャリnyariにはさまざまな種類がある。ニャリ・ニョカ(nyoka): nyokaはドゥルマ語で「ヘビ」、全身を蛇が這い回っているように感じる、止まらない嘔吐。よだれが出続ける。ニャリ・ムァフィラ(mwafira):firaは「コブラ」、ニャリ・ニョカの別名。ニャリ・ドゥラジ(durazi): duraziは身体のいろいろな部分が腫れ上がって痛む病気の名前、ニャリ・ドゥラジに捕らえられると膝などの関節が腫れ上がって痛む。ニャリ・キピンデ(chipinde): ku-pindaはスワヒリ語で「曲げる」、手脚が曲がらなくなる。ニャリ・キティヨの別名とも。ニャリ・ムァルカノ(mwalukano): lukanoはドゥルマ語で筋肉、筋(腱)、血管。脚がねじ曲がる。この霊の護符pande16には、通常の紐(lugbwe)ではなく野生動物の腱を用いる。ニャリ・ンゴンベ(ng'ombe): ng'ombeはウシ。牛肉が食べられなくなる。腹痛、腹がぐるぐる鳴る。鍋(nyungu)と護符(pande)で治るのがジネ・ンゴンベ(jine ng'ombe)との違い。ニャリ・ボコ(boko): bokoはカバ。全身が震える。まるでマラリアにかかったように骨が震える。ニャリ・ボコのカヤンバでの演奏は早朝6時頃で、これはカバが水から出てくる時間である。ニャリ・ンジュンジュラ(junjula):不明。ニャリ・キウェテ(chiwete): chiweteはドゥルマ語で不具、脚を壊し、人を不具にして膝でいざらせる。ニャリ・キティヨ(chitiyo): chitiyoはドゥルマ語で父息子、兄弟などの同性の近親者が異性や性に関する事物を共有することで生じるまぜこぜ(maphingani/makushekushe)がもたらす災厄を指す。ニャリ・キティヨに捕らえられると腰が折れたり(切断されたり)=ぎっくり腰、せむし(chinundu cha mongo)になる。胸が腫れる。
100 ムィンゴ(mwingo)。施術師が「嗅ぎ出し」ku-zuzaなどで使用する短い柄の蝿追いハタキ(fly-whisk)。
101 ムウェレ(muwele)。その特定のンゴマがその人のために開催される「患者」、その日のンゴマの言わば「主人公」のこと。彼/彼女を演奏者の輪の中心に座らせて、徹夜で演奏が繰り広げられる。主宰する癒し手(治療師、施術師 muganga)は、彼/彼女の治療上の父や母(baba/mayo wa chiganga)102であることが普通であるが、癒し手自身がムエレ(muwele)である場合、彼/彼女の治療上の子供(mwana wa chiganga)である癒し手が主宰する形をとることもある。
102 憑依霊の癒し手(治療師、施術師 muganga)は、誰でも「治療上の子供(mwana wa chiganga)」と呼ばれる弟子をもっている。もし憑依霊の病いになり、ある癒し手の治療を受け、それによって全快すれば、患者はその癒し手に4シリングを払い、その癒やし手の治療上の子供になる。この4シリングはムコバ(mukoba81)に入れられ、施術師は患者に「ヤギと瓢箪いっぱいのヤシ酒(mbuzi na kadzama)」(20シリング)を与える。これによりその患者は、その癒やし手の「ムコバに入った」と言われる。こうした弟子は、男性の場合はムァナマジ(mwanamadzi,pl.anamadzi)、女性の場合はムテジ(muteji, pl.ateji)とも呼ばれる。これらの言葉を男女を問わず用いる人も多い。癒やし手(施術師)は、彼らの治療上の父(男性施術師の場合)103や母(女性施術師の場合)104ということになる。弟子たちは治療上の親であるその癒やし手の仕事を助ける。もし癒し手が新しい患者を得ると、弟子たちも治療に参加する。薬液(vuo)や鍋(nyungu)の材料になる種々の草木を集めたり、薬液を用意する手伝いをしたり、鍋の設置についていくこともある。その癒し手が主宰するンゴマ(カヤンバ)に、歌い手として参加したり、その他の手助けをする。その癒し手のためのンゴマ(カヤンバ)が開かれる際には、薪を提供したり、お金を出し合って、そこで供されるチャパティやマハムリ(一種のドーナツ)を作るための小麦粉を買ったりする。もし弟子自身が病気になると、その特定の癒し手以外の癒し手に治療を依頼することはない。治療上の子供を辞めるときには、ただやめてはいけない。病気になる。治療上の子供は癒やし手に「ヤギと瓢箪いっぱいのヤシ酒(mbuzi na kadzama)」を支払い、4シリングを返してもらう。これを「ムコバから出る」という。
103 ババ(baba)は「父」。ババ・ワ・キガンガ(baba wa chiganga)は「治療上の(施術上の)父」という意味になる。所有格をともなう場合、例えば「彼の治療上の父」はabaye wa chiganga などになる。「施術上の」関係とは、特定の癒やし手によって治療されたことがきっかけで成立する疑似親族関係。詳しくは「施術上の関係」102を参照されたい。
104 マヨ(mayo)は「母」。マヨ・ワ・キガンガ(mayo wa chiganga)は「治療上の(施術上の)母」という意味になる。所有格を伴う場合、例えば「彼の治療上の母」はameye wa chiganga などになる。「施術上の」関係とは、特定の癒やし手によって治療されたことがきっかけで成立する疑似親族関係。詳しくは「施術上の関係」102を参照されたい。
105 スワヒリ語で、「お供え」「ご馳走」の意味。憑依霊などに与える動物の血などの供物を指す。
106 キレンバ(chiremba)。「ターバン」。(ス =kilemba)。「ターバンを身に着けさせる」は資格を認定するという意味。
107 チュコ(chuko, pl.vyuko)。「拠点」「常駐場所」。施術師が、草木やムコバ(mukoba81瓢箪子供や、薬、施術の報酬で得た金などを入れておく編み籠)、ムロイ(muroi)と呼ばれる地位を示す杖、蝿追いハタキなどを置いておく場所。イスラム系の憑依霊については彼らのために建てられた小屋など、彼らが常駐できる場所。
108 ク・ヴォイェラ(ku-voyera)。 ku-voya 「祈る、祈願する」のprep.formなので、「~のために祈る」という意味になるが、uganga wa kuvoyera というと、通常の人にはわからない妖術使いを探索して探し出す施術という特殊な意味をもつ。
109 チャリ・ワ・マラウ(Chari wa Malau)。憑依霊の施術師。多くの憑依霊をもっている。1989年以来の課題はイスラム系の怒りっぽい霊ペンバ人(mupemba110)の施術師に正式に就任することだったが、1994年3月についにそれを終えた。彼女がもつ最も強力な霊は「世界導師(mwalimu dunia)31」とドゥルマ人(muduruma25)。他に彼女の占い(mburuga)をつかさどるとされるガンダ人、セゲジュ人、ピニ(サンズアの別名とも)、病人の奪われたキブリ(chivuri70)を取り戻す「嗅ぎ出し(ku-zuza69)」をつかさどるライカ、シェラなど、多くの霊をもっている。私が最も親しくしていた女性施術師のひとり。チャリの父系クラン(ukulume)はムァニョータ(Mwanyota)、母系クラン(ukuche)はムァゴロ(Mwagoro)。チャリは自分の癒やしの術がクラン(fuko)に由来するものだと言うが、この場合のクランは父系クラン、母系クランのいずれでもなく、母方の祖父デレ氏のもっていた癒やしの術がその孫たちに継承されているという意味である。なお祖父デレはギリアマ人であった。
110 ムペンバ(mupemba)。民族名の憑依霊ペンバ人。ザンジバル島の北にあるペンバ島の住人。強力な霊。きれい好きで厳格なイスラム教徒であるが、なかには瓢箪子供をもつペンバ人もおり、内陸系の霊とも共通性がある。犠牲者の血を好む。症状: 腹が「折りたたまれる(きつく圧迫される)」、吐血、血尿。治療:7日間の「飲む大皿」と「浴びる大皿」59、香料22と海岸部の草木57の鍋13。要求: 白いローブ(kanzu)帽子(kofia手縫いの)などイスラムの装束、コーラン(本)、陶器製のコップ(それで「飲む大皿」や香料を飲みたがる)、ナイフや長刀(panga)、癒やしの術(uganga)。施術師になるには鍋治療ののちに徹夜のカヤンバ(ンゴマ)、赤いヤギ、白いヤギの供犠が行われる。ペンバ人のヤギを飼育(みだりに殺して食べてはならない)。これらの要求をかなえると、ペンバ人はとり憑いている者を金持ちにしてくれるという。
111 ピーニ(pini)。ギリアマ系の霊で、同じくギリアマ系のSanzua112の別名ともいう。占いに従事する。また「祈願の施術(uganga wa kuvoyera108)」の技も与えてくれる。
112 サンズア(sanzua)。憑依霊ギリアマ人、女性。占いをする。matali(野ネズミ)を食べる。憑依されると、周りにいる人の誰が健康で、誰が病気かを言い当てたりする。症状: 発狂kpwayusa,歩くのも困難なほどの身体の痛み。要求: hando ra mupangiro(細長く切った布片を重ねるように縫い合わせて作った蓑=chituku)、ヤマアラシの針を植え付けた3本脚の御椀(chivuga113)
113 キヴガ(chivuga, pl.vivuga)。木をくり抜いて作った3本脚の小さいお椀。ヤマアラシの針が植え付けてある。憑依霊サンズア(sanzua112)、別名(?)ピーニ(pini111)が必要とする道具の一つ。
114 ムヴレ(muvure, pl.mivure)。木をくりぬいて作った横から見ると台形を逆さにした形の椀。今日ではアルミやプラスティック製のお椀(chibakuli115)に取って代わられたが、かつてはトウモロコシの練粥(wari)はこれに入れて供された。憑依霊ドゥルマ人(muduruma25)や憑依霊ムリサ(牛追い116)はこれに入れた練粥を要求する。小型のものはキヴレ(chivure muvureの指小形)。
115 キバクリ(chibakuli, pl. vibakuli)。椀、大きめの椀。ボウル。
116 ムリサ(murisa)「牛追い」動詞 ku-risa「放牧する」より。憑依霊ドゥルマ人(muduruma25)の別名とする人もいる。ムリサに憑依されると、飼っている山羊が多くの子供を産むが、それを使用することは出来ない。それを個人的な目的で使用すると病気になる。ムリサに憑依された人はカヤンバの席で子供たちに牛追いの真似をさせ、中ごしに座ってウガリと酸乳を食べる。立ち上がって自分でも牛追いの真似をし、また座ってウガリを食べるといった動作を繰返す。持ち手の曲がった杖mukpwajuと木の御椀muvureを要求。
117 ムロイ(muroi)。先端部をビーズなどで飾り立てられた杖。強力な、最高ステージに達した(といっても基準は明確ではないが)施術師のみが持つことができるとされる。別名「施術上の祖霊(k'oma ya chiganga)」とも呼ばれる。ムコバその他の施術上の品を納めておく特別な小屋(chuko)に立てておき、施術の際にはそれをもって行く。
118 カヤ・ターフ(kaya tahu)。「3つのカヤ」。カヤとはミジケンダの諸集団がガラ人やムクァヴィ人、マサイなどの牧畜民の襲撃に備えて、海岸にそった山脈に19世紀まで形成して暮らしていた要塞村のことである。ドゥルマ人は、カヤ・ドゥルマ(kaya duruma)、カヤ・チョーニ(kaya chonyi)、カヤ・ムツヮカラ(kaya mutswakara)という3つのカヤをもっていた。他のミジケンダ諸集団と違い、これらのカヤは今日ではまったく見捨てられている。しかし儀礼や仕来りなどが3つのカヤに由来すると語ることは、いまなお人々の正当性とアイデンティティの一部となっている(少なくとも年長の人々にとっては)。
119 マリアカーニ。モンバサ街道沿いの町およびその周辺を指す。ドゥルマ人、ギリアマ人、カンバ人が混住する。
120 タブ(Tabu)。施術師チャリの長女。タブ(tabu)はドゥルマ語で「困難、難儀」を意味する。チャリの下の娘はムチェンザラ(Muchenzala)。ドゥルマ語で「飢餓の女」を意味する。
121 ngere sipata Tabu. 仮定法表現。直訳すると「私はタブを手に入れないだろうに」。意味としては、「私は(今)タブを(必要なときに)手に入れることはない」つまり「私はタブを失っていただろうに」と解釈することも可能である。当時、私はチャリのこの発言を誤解して、この治療の後に健康になりタブを産んだと、つまりタブはチャリとムリナの間にできた子供だと、何年間も思い込んでいた。実際には、彼女の生きている二人の娘はともに前夫との間にできた子供であった。
122 ク・フィニキラ(ku-finikira)。布のようなもので「被せる、覆う、カバーする」といった意味の動詞。施術のコンテクストでは、妖術使いなどが施術師を「覆う」ことによって、癒やしの術を行うことができないようにするという意味で用いられることがある。同じ意味で、「蓋をする、カバーする、覆う」を意味するク・ビニキザ(ku-binik'iza)も用いられる。
123 トゥンゴ(tungo, pl.matungo)。ビーズを紐に通して作った飾り物で、関節部に身につける。施術師の装束の一部。「制作する、ビーズ飾りを身につける」を意味する動詞ク・トゥンガ(ku-tunga)より。集合的にマレロ(marero124)ともいう。
124 マレロ(marero pl.のみ)。ビーズ(ushanga)で作った装身具、特に施術師らが身につける装身具の総称。chisingu 頭部につけるもの、tungo(pl. matungo) 関節部につけるもの、mudimba 首から背中にかけてつけるもの、mudzele たすき掛けにつけるもの、など。
125 ングオ(nguo)。「布」「衣服」の意味。さまざまな憑依霊は特有の自分の「布」を要求する。多くはカヤンバなどにおいてmuwele101として頭からかぶる一枚布であるが、憑依霊によっては特有の腰巻きや、イスラムの長衣(kanzu)のように固有の装束であったりする。
126 フィー(fii)。死んでしまうこと、無くなってしまうことを表現する擬態語。
127 ジャバレ(jabale)。憑依霊ジャバレ導師(mwalimu jabale)。憑依霊ペンバ人のトップ(異説あり)。世界導師(mwalimu dunia31)の別名だと言う人もいるが。症状: 血を吸われて死体のようになる、ジャバレの姿が空に見えるようになる。世界導師(mwalimu dunia)と同じ瓢箪子供を共有。草木も、世界導師、ジンジャ(jinja)、カリマンジャロ(kalimanjaro)とまったく同じ。同時に「外に出される」つまり世界導師を外に出すときに、一緒に出てくる。治療: mupemba の mihi(mavumba maphuphu、mihi ya pwani: mikoko mutsi, mukungamvula, mudazi mvuu, mukanda)に muduruma の mihi を加えた nyungu を kudzifukiza 8日間。(注についての注釈: スワヒリ語 jabali は「岩、岩山」の意味。ドゥルマでは入道雲を指してjabaleと言うが、スワヒリ語にはこの意味はない。一方スワヒリ語には jabari 「全能者(Allahの称号の一つ)、勇者」がある。こちらのほうが憑依霊の名前としてはふさわしそうに思えるが、施術師の解説ではこちらとのつながりは見られない。ドゥルマ側での誤解の可能性も。憑依霊ジャバレ導師は、「天空におわしますジャバレ王 mfalme jabale mukalia anga」と呼びかけられるなど、入道雲解釈もドゥルマではありうるかも。
128 ニャマ(nyama)。憑依霊について一般的に言及する際に、最もよく使われる名詞がニャマ(nyama)という言葉である。これはドゥルマ語で「動物」の意味。ペーポー(p'ep'o129)、シェターニ(shetani130スワヒリ語)も、憑依霊を指す言葉として用いられる。名詞クラスは異なるが nyama はまた「肉、食肉」の意味でも用いられる。憑依霊はさまざまな仕方で分類される。その一つは「ニャマ・ワ・ムウィリニ(nyama wa mwirini37)」と「ニャマ・ワ・クウサ(nyama wa kuusa38)」の区別。前者は「身体にいる憑依霊」の意味で人に憑いて一生続く関係をもつ憑依霊。憑依霊の施術師たちの手を借りて交渉し、霊たちの要求を満たしてやることで、霊と比較的安定して友好的(?)な関係を維持することができる。このタイプの霊の多くは除霊できない。後者は「除去の憑依霊」の意味で、女性に憑くが、その子供を殺してしまうので除霊(kukokomola36)が必要な霊。後者の多くは、妖術使いによって送りつけられたジネ系の霊で、イスラム教徒の施術師による除霊を必要とする。他にも「上の霊(nyama wa dzulu)」と呼ばれる鳥の霊たちがあり、こちらはドゥルマの施術師によって除霊できる。この分類とは別に憑依霊を、「海岸部の憑依霊(nyama wa pwani131)」あるいは「イスラム系の憑依霊(nyama wa chidzomba34)」と「内陸部の憑依霊(nyama wa bara132)」の2つに分ける区別もある。
129 ペーポー(p'ep'o, pl. map'ep'o)。p'ep'oは憑依霊一般を指すが、憑依霊アラブ人(Mwarabu)と同義に用いられる場合もある。ペーポー子神(mwana p'ep'o)という呼称は、憑依霊アラブ人に対する呼称。なお憑依霊一般については p'ep'oの他に、shetani130もあるが、ドゥルマ地域ではnyama(「動物」を意味する普通名詞128)という言葉が最も一般的に用いられる。
130 シェタニ(shetani, pl.mashetani)。憑依霊を指す一般的な言葉の一つ。スワヒリ語。他にドゥルマ語ではペーポ(p'ep'o, pl.map'ep'o)、ニャマ(nyama, pl.nyama)。p'ep'o はpeho「風、冷気、冷たさ」と関係ありか。nyama は「動物、肉」を意味する普通名詞。
131 ニャマ・ワ・プワニ(nyama wa pwani, pl.nyama a pwani)。「海岸部の憑依霊」。イスラム系の霊(nyama wa chidzomba34)に同じ。非イスラム系の土着の憑依霊たち、ニャマ・ワ・バラ(nyama wa bara)との対比で、この名で呼ばれる。
132 ニャマ・ワ・バラ(nyama wa bara, pl. nyama a bara)。「内陸系の憑依霊。」イスラム系の霊がニャマ・ワ・プワニ(nyama wa pwani, pl. nyama a pwani)、つまり「海岸部の憑依霊」と呼ばれるのに対比して、内陸部の非イスラム的な憑依霊をこの名前で呼ぶ。
133 エリム(elimu)。スワヒリ語で「知識、知恵、教育」を意味する名詞。イリム(ilimu134を見よ。
134 イリム(ilimu)。「知識、教育」スワヒリ語のエリム(elimu)に同じ。施術の文脈では、「秘儀、不思議の技」などの意味でも用いられる。ku-henda ilimu 「知識を示す」だが同時に、「癒やしの術の秘技を用いて人を驚かせる」「奇跡をおこす」といった意味合いも含む。しばしば、憑依霊に対して、どうか「私たちにイリムを見せないでください」といった嘆願がなされる。
135 ここでチャリは"ngere wafa"と答えている。wafa の主格接頭辞 wa は二人称単数過去形であると同時に u-クラス名詞の過去形の主格接頭辞でもある。という訳で、私は「彼女が死んでしまったろうに」と誤解したのだが、チャリは彼女の癒やしの術(uganga)が死ぬという意味で答えていた。
136 ク・ンゴラ(ku-ngola)。「引き抜く」。しかし単に文字通りに埋まっているものを引き抜く場合だけでなく、炉石(figa)や水甕(simikiro)のように正当な所有者が「置いた・据えた」物を、誰かが勝手に「動かす」場合にも、同じ動詞が用いられる。また引き抜きの施術 uganga wa kung'ola は、妖術使いなどが据えた埋設物(fingo)を見つけ出し、除去する施術である。
137 ブー(buu)。何かに覆われてしまったさま、覆い隠されるさまを表す擬態語。ブーの代わりにンブー(mbuu)でも。ku-finikira「(布などで)カバーする、覆う」やku-binikiza「蓋をする、覆う」などの動詞を伴う。pheeまたはpee138との対比で用いられる。こちらを「明」とするとbuuまたはmbuuは「暗」に当たる。
138 ブゥエー(phee yiyi-)。「小康、回復」。ブゥエーの代わりにペー(pee)を使ってもよい。同じ意味にバハ(baha, yiyi-)。"homa rangu rihenda phee. 私のマラリアは少し収まった= homa rangu rihenda baha"。pheeまたはpeeは、しばしばbuuまたはmbuu137との対比で用いられる。後者が「暗」だとすると前者は「明」になる。
139 コンゴのムズカ(muzuka wa kongo)私も、カタナ君も、これをコンゴ共和国にあるムズカまで実際に行ったのかと思ってしまったが、後でよく聞いてみると、モンバサの南海岸部のディアニ・ビーチにある洞窟の名前だそうだ。
140 ドゥルマの諺の一つ。ukomaze, undaunwa vivyo. uは椰子酒(uchi)の主格辞および目的格辞。椰子酒は自然に発酵し、2日目3日目が飲み頃で、それをすぎると次第に飲むのに不適切になる。椰子酒を放置して発酵が進みすぎて、不味くなっても、結局はそれを放置した本人が飲むしかない。事態を放置してどうしようも無くなっても、その結果を受け入れねばならないのは本人だという、諺。
141 ムリザ(muridza)。ヤシ酒を小型の細長い瓢箪(mboko)に注いで、飲む際のストロー。葦の中空の茎が用いられる。一方の端はヤシの繊維で覆ってあり、ヤシ酒のなかに落ち込んだ蜂などが口の中に入らないようにしている。仲間と飲むときは、同じムボコとムリザで回し飲みするのが普通。
142 ク・ラー(ku-laa)。「(外に)出る、~から出る、~出身である」などを意味する動詞。ku-lavya は「出す、差し出す」、ku-lairaはku-laaのprepositional form。ku-lairira, ku-laira ともに「出現する、現れ出る」などの意味も有する。
143 ソモ(somo)。名前を共有する者。2人の人が同じ名前を持っているとき、お互いをソモ(somo)と呼ぶ。ドゥルマの氏族名(dzina ra mbarini)、つまり特定のクランに所属していることで与えられる本名は、その数が限られているので、誰でも多くのソモをもっている。私は現地ではムエロの息子カリンボと名付けられていたが、子供を産むと長男であればムエロと、長女であればニャンブーラと名付けることが決まっていた。ムエロは、子供を産むとその一人にカリンボと名付けることになっている。
144 フュラモヨ(fyulamoyo)。妖術の一種。ザイコ(zaiko)と呼ばれる薬によって掛けられる妖術。さまざまな症状を示す。特徴的な身体症状の一つが全身が痒くなって掻きむしること。しかし深刻なのはさまざまな「心理的」症状。動詞ク・フュラ(kufyula)は、「曲げる、(無理やり)向きを変えさせる」を意味し、モヨ(moyo)は「心、心臓」を意味する名詞。字義通り、人の心を変な方向に曲げてしまう妖術である。これにかかると、自分が居る場所が適切でないような気がして、どこかに行ってしまいたいような気がする、自己嫌悪、他人と一緒にいられない、など。学業不振、自殺、家庭内不和、離婚、新婦が逃げ出す、などはこの妖術のせいであるとされる。多くの種類がある。fyulamoyo mwenye, fyulamoyo ra p'ep'o,fyulamoyo ra dzimene, chimene chenye( mbayumbayu, mbonbg'e) etc.〔浜本, 2014:61-66を参照のこと〕